「うぅ········ッ!!」
無機質な白に満ちた天井と、鼻腔の奥を僅かに刺激する消毒液の薄い匂い。
外の世界を支配していた激しい破壊の残響や、アスファルトを焦がしていた砲撃の熱量はもうどこにも存在しない。
「········ここ、は········?」
喉の奥から、乾いた譫言のような細い響きが漏れ出た。
失われていた思考の地平。
夢だったのか、『継ぎ接ぎ』だらけの“男”が歪んだ笑みを浮かべていたあの場所から、ゆっくりと光の中へ意識が引き戻されていく。
場所がどこだか未だにわかっていないようだが、アリシアの術式の影響か、直感に近いものでここがどこか理解した。
それは残穢、呪力の源である負の感情の残滓。
この空間に漂う負の感情、『痛い、苦しい』という誰かが苦痛に悶える時に零す声と、『みんなに迷惑をかけてしまった、もっと活躍したかった、負けたくない』みたいな後悔の念がアリシアの頭の中に響いてくる。
それで理解したのだ。
この声は、『負傷したスポーツ選手』のものだと。
それから導き出せる答え。
ここはスタジアムの一角に設けられた────臨時の『救護室』であった。
試合や催事の最中に選手が怪我、もしくは観客が不意の負傷や体調の不良を訴えた際に応急の処置を施し、一時的な休養を与えるために設えられたパイプ式の医療用ベッド。その冷たいシーツの上に、金色の髪を持つ少女は寝かされていた。
薄い扉の向こうからは、スタジアムの通路や陰に身を潜めている一般人達のひそひそとした話し声や安堵の混ざった微かなざわめきが漏れ聞こえてくる。
最悪の嵐が過ぎ去り、さらに死滅回游の総則に新たなルールが追加されたことで、彼らを縛り付けていた生への焦燥や死への畏怖は確実に和らぎつつあった。非術師達が垂れ流していた負の感情は少なくなり、少女の胸元に埋め込まれた『呪物』へのエネルギー供給も緩和され、室内には数時間ぶりの穏やかな平穏が保たれている。
この場所がどこかを教えてくれた負の感情の残穢も、この程度ではアリシアの術式にはそこまで影響を与えない。
それでも完全にとは言い切れず、周囲からまるで無数の羽虫が耳元で同時に羽ばたいているかのような、低く不快な低周波のうなりが絶え間なく脳を逆撫でしてくる。
それは、スタジアムの通路の影で膝を抱えている非術師達が無意識のうちに排出し、床や壁のコンクリートにじわじわと染み付いた、生への焦燥や他者への怨嗟の残り滓に他ならなかった。
かつて戦場の広場で彼女の肉体を強制的に動かしていた爆発的なエネルギーの供給源に比べれば、今のそれは火の消えかけた蝋燭の煙ほどの微弱なものに過ぎない。胸の奥に宿る『呪物』による術式を再起動させるほどの決定的なエネルギーを齎らすには、あまりにも出力が足りていなかった。
しかし。
「う········グッ!!」
自分自身の名前すら定かではない忘却の世界に放り込まれたアリシアにとって、意味をなさない単語の羅列が脳の神経細胞へ直接滑り込んでくる感覚は、生理的な嫌悪以外の何物でもなかった。
誰が誰に向けて放っているのかも分からぬその不快なノイズは、目覚めたばかりの幼い知性にとっては、まるで自身を取り囲む見知らぬ大人達が、寄ってたかって自分に対する執拗な陰口を叩いているかのような、気味の悪い錯覚を生み出していた。
「い········つッ!!」
思考そのものが濁る中、アリシアは眉間に深い不快感の皺を寄せ、微かな呻きを漏らす。
「!!」
そんな小さな唇の震えとパイプ式ベッドの冷たいシーツの上で身体が微かに身じろぎした気配を、傍に佇んでいた黒髪の少年、乙骨憂太が聞き逃すはずはなかった。
乙骨は、自身の右手の自由を縛るようにしてこびりついた血と泥を清潔な水で洗い流し、そして治療として棚から掴み取った消毒液のボトルを不器用な手つきで傾けている最中だった。
通常であれば、彼が持つ反転術式を手先に灯すだけで、このような怪我など一瞬で元の状態にまで戻すことができたはずだった。
しかし、石流龍や烏鷺亨子との間で繰り広げられた領域展開を起点とする死闘は、彼の体内に無尽蔵に湧き上がっていたはずの負のエネルギー源を、文字通り枯渇させていた。
外付けの術式としての顕現時間を使い果たした今、彼の肉体は一時的に呪力による肉体強化すら満足に行えない、極めて脆弱な『ただの少年』へと引き摺り下ろされている。
今までこんなことはなかった。
底無しの呪力の持ち主、特級術師という称号を持つ者がここまで追い込まれるなんて。
だが、それは逆に言えばそれほどの相手だったということだ。
彼らの実力は今で言う特級術師、甘く見積もっても一級の最上位に位置する存在だった。そもそもあっちは呪術全盛の時代を生き抜いた猛者達だ、強いのは当然と言えるだろう。当時の呪いは強いだけでなく、呪霊でさえも特級ばかりの化物達が平然と彷徨いていたはずだ。
そんな奴らとやり合って呪力が枯渇状態になり、反転術式という超常の奇跡が使えぬ以上、彼はこの世界にありふれた近代医療の初歩的な処置という、非効率な手段に頼るしかなかった。
ツンと鼻腔の奥を鋭く刺すアルコールの匂いの中、滅菌ガーゼを浸し、アリシアの身体中にこびりついた血液の痕跡を慎重に拭うための準備を進めていたのだ。呪力の枯渇による軽い手の震えを自覚しながら、手元の薬品に視線を落としていた。
まさにその瞬間に枕元から聞こえた、少女の覚醒の響き。
「アリシアちゃん········?」
乙骨の右手が静止した。
その瞳が、少女の長い金髪の隙間から覗く瞼の動きを捉える。
激しい安堵と驚きが脳内の演算回路を一瞬にして白く染め上げ、指先の力が不自然に抜けた。
握られる力を失ったプラスチックの白いボトルが彼の掌から滑り落ち、床へと落下する。
ペコンという軽い容器の変形音と、中の液体が床一面に飛散する不作法な音が救護室の静寂を鋭く引き裂いた。しかし乙骨はその汚れを顧みる余裕すらなく、弾かれたようにベッドにいるアリシアに声をかける。
「アリシアちゃん────!!」
傷だらけの顔を安堵によって一気に綻ばせ、少年は歓喜の声を上げる。
しかし。
それよりも早く、弾丸のような勢いで視界を遮るようにして割り込んできた一つの“黄金の影”があった。
「
それは己の肉体の疲弊など一切を度外視した、フェイト・テスタロッサ・ハラオウンの切羽詰まった叫びだった。
「ッ!?」
唐突に視界の全てを埋め尽くすようにして覗き込んできた、全く見覚えのない他者の顔。
驚きに丸くなったその瞳、長い前髪の隙間から覗く幼い輪郭。
そして何より。
自身の耳の奥に響いてきたその叫びは、どういうわけか自分自身のそれと鏡写しのようにそっくりで、酷く似通っていた。
一体どういう理由で、一体何がどうなってそんな顔をして自分の目と鼻の先にまでやって来たのか。
事態の把握をする余裕すら与えられず、自分に瓜二つの容姿を持つ見知らぬ少女の急接近は、アリシアにとって恐怖以外の何物でもなかった。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!??」
それは『呪物』の影響による意思なき自動人形の動きではない。
年相応の幼い驚愕の絶叫を上げ、アリシアはベッドの上から勢いよくその上半身を跳ね上げさせた。
至近距離での急激な重心の移動。
覗き込んでいた金髪の少女がその突発的な挙動を回避できるはずもなく、
ゴッス!!
という救護室の静寂を派手にぶち破る、肉と骨が硬く衝突した生々しい鈍音が響き渡った。
「いったたた·······ッ!!」
「ううぅ·······ッ!!???」
お互いの額を文字通り正面からお行儀悪くぶつけ合い、二人の少女はベッドの上と床の上でそれぞれ自身の頭を両手で押さえつけながら無様に身悶えを始める。
あまりにも唐突に、そしてあまりにも締まりのない形で幕を開けた、運命の再会劇。
「··············」
その様子をすぐ側で眺めていた乙骨は、床に広がっていく消毒液の水溜まりを足元で感じながら、特級術師としての威圧感も責任感も一時的に放棄してしまい。
ただただ呆然と口を開けて、その微笑ましい大騒動を見つめることしかできなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
「痛たた·········ッ!! な、何、もう··············ッ!!???」
ベッドに背中を丸めるようにして、アリシアは両手で自身の赤くなった額を強く押さえつけながら涙の浮かんだ瞳で急に目の前に現れた少女を見る。
夢の世界から目覚めた直後の彼女にとって、状況の推移は全てが理不尽な暗転の連続に過ぎなかった。
頭の奥底で絶えず囁きかけてくる、負傷したアスリート達の不快な未練の残滓。それが齎らす生理的な嘔吐感に耐えている最中、自分と全く同一の骨格で構築された顔が目と鼻の先にまで急接近してきたのだ。年相応の防衛本能が肉体に強烈な拒絶を命じたのは当然のことであった。
対して。
床に尻餅をついたフェイトは、頭部に受けた衝撃による脳震盪の眩暈に耐えながら、ただ呆然と姉の顔を見上げる。
「アリシア··········!!」
フェイトの喉から、短い声が漏れた。
────アリシアだ。
記憶の中にある、不思議の国に迷い込む少女の格好にも似たあの水色のワンピースをまとった少女が、ベッドに上体を起こし、こちらを見ていた。
自分と同じ艶やかな長い金色の髪に、その細い両手は自分とおでこをぶつけたせいで赤くなってしまった額に置かれ、その涙に濡れた瞳は間違いなくフェイトと同じルビーのような美しい輝きを帯びている。
「アリ、シア··········!!」
「え?」
フェイトは音にならない声で姉の名前を呼び続けた。
対して。
目の前の知らない少女が自分の名前を呼んだことでアリシアの体が大きく震え、なんだか嫌な予感に襲われる。
そんなことを思っているアリシアのことなどお構いなしに、フェイトは涙がこぼれそうになる。
生きていた。
たったそれだけの事実、しかしその信じられない事実こそが、彼女を葛藤させる。
自分があの時掴めなかったせいでアリシアは闇の底に落ちていってしまい、母親と共にそこで永遠の別れをすることになってしまった。
それなのに。
それなのに、だ。
今目の前に、あの時失った姉がいる。
何度この瞬間を夢に見たことか、何度祈ったことかわからない。
もはや理性や落ち着きといったものを失いかけているフェイトは、床からヨロヨロと起き上がると、
「アリシアァァァアアアッッッ!!!!!」
「うわぁ!?」
涙をこぼしながら、アリシアのその華奢な体に腕を回し、思いっきり抱き締めた。
その顔の裏にずっと隠されていた不安、そして永遠に叶うはずのなかった本当の血の繋がった家族との再会による歓喜。
その感情がアリシアにゼロ距離で炸裂する。
「アリシア!! アリシアッ!!!!!」
「え··········え!?」
アリシアは戸惑いを隠せなかった。
すぐ側で自分とそっくりな少女が震えている、それは分かる。でも彼女はその頭を撫でることはできない。
だって。
アリシアからすれば、
「ちょ··········ちょっと!!」
そう言うと。
アリシアは急に抱き締めてきたフェイトの肩に手を置き、
「
◇◆◇◆◇◆◇
「え··········?」
抱き締めていた少女の言葉はあまりにも初対面の相手に対する口調で、不審感に満ちていた。
顔も見たこともない赤の他人に震えたような声で話しかけてきたアリシアに、フェイトの唇からは小さく、乾いた罅割れのような響きが漏れ出た。
アリシアの華奢な肩を掴んでいた両手の指先から、急速に温度が失われていく。
(いや········そうだよね········)
フェイトは乾いた喉をゴクリと鳴らし、視線を下に向けてしまう。
それは当然のことだと自覚はしている。
していたのに。
その残酷さにフェイトは奥歯を噛み締める。
「········ごめんなさい、急に」
「え? あ········う、うん?」
唐突に謝るフェイトにアリシアは戸惑いつつ、けれど心配そうな目で彼女を見つめる。
自分を抱き締める瓜二つの少女の衣服の擦れる音や、その肉体が発する過剰な熱量を拒絶するようにして、二人の間には確たる距離を置くための壁と化していた。
紅玉の輝きを帯びたその瞳に宿っているのは、敵意や憎悪といった攻撃性を秘めた意志ではない。
ただ、自分の目と鼻の先にいる存在が『何者であるか』を、その脳組織のどの記憶領域からも引き出すことができないという、空虚な当惑の色だけであった。
アリシアの記憶には、当然ながら後発の人工生命であるフェイトの姿など、最初から微塵も存在しているはずがなかった。
姉がその短い生涯を閉じたあの時、世界にはまだフェイトという存在の形すら誕生していなかったのだから。
知る前に亡くなり、死の境界を超えてなお全ての自我を困惑させられた彼女にとって、自分と同じ顔をした少女が流す涙も、その震える声に込められた家族としての愛着も、処理の追いつかない未知の異分子に過ぎない。
「あ、えっと、こっちこそごめんね? 失礼なこと言って」
「········ううん」
そんな風に謝られることの方が辛い。
それはつまり、彼女は自分のことを全く認識していないという証明になるからだ。
だが。
一番辛かったのは、アリシアの口から出てきた、この呼び方。
「あの、大丈夫··············
アリシアはここでようやくフェイトの頭を撫でた。
それはおそらく心配故の慰めを込めての行為だったろう、なのにその手から伝わるものは恐ろしいほど冷たい。
「────ッ!!!!!」
フェイトの薄い唇から、形を成さぬまま砕けた硝子のような呼び声が零れ落ちた。
頭頂部に触れるその小さな手のひらは自分と同じ、細胞レベルで同質だ。
遺伝子の配列に至るまで鏡写しのように等しく、本来であれば自身と同じだけの生命の熱を帯びているはずの皮膚の組織。
それなのに。
いまそこから伝わってくるものは、生前における家族の記憶を何一つとして留めてはいない、ただただ生物としてのありふれた感情を宿したかのような、そんな虚しさだけであった。同じ配列で構築された肉体だからこそ、その掌に宿る熱量の欠落が、フェイトの毛髪を、そして頭皮の神経をいっそう冷酷に凍えさせていく。
何より。
自分より遥かに幼い知性のまま留まっている姉の口から放たれた、その『お姉ちゃん』という立場が逆になる呼びかけの響き。
それが、かつて失われたオリジナルを補完するためだけに生み出され、それでも母を憎まず、そして自分という存在が生まれるきっかけを作ってくれた姉の意思を継いで生きてきた複製体の胸に、計り知れない重さの『何か』が伸し掛かる。
自分と全く同質であるはずの皮膚が発する異質な冷たさと、立場が反転してしまった呼称。
その二重の衝撃こそが、目の前の姉が一度死を迎え、この地獄のような“呪い”の法則によって不自然に縫い留められているだけの歯車に過ぎないという事実を、何よりも冷酷に突きつけていた。
絶望のあまりフェイトの心が痙攣し、呼吸の循環が途絶えかけた。
「あの·······ちょっと、いいかな?」
そんな時。
静寂を裂いて二人の間に滑り込んできたのは、ひどく場違いなほどに頼りなく、術師としての佇まいすら隠しきれぬ若者の不器用な呼びかけであった。
黒髪の少年、乙骨憂太は床に散らばった衛生材料を拾い集める余裕すらなく、至る所に傷を刻んだ顔を歪めながら、二人の少女の間に自らの身体を強引に割り込ませてきた。
「·······乙骨さん」
「ごめんね、急に会話に入っちゃって」
フェイトは乙骨の名を呼ぶも、その声には覇気がない。
乙骨はそんな彼女の肩に手を置く。
固有の生得術式を全開にした反動による脳の機能低下と呪力の枯渇状況からようやくマシな状態にまで回復し、その気まずさを押し隠すように彼はアリシアに向かってできる限り刺激を与えないよう、痛々しいまでの困惑の微笑を浮かべた。
「あ、えっと·······アリシアちゃん、ごめんね。この子まだ少し頭が混乱してるみたいんだ。だから·······うん。ちょっと話してくるね」
乙骨はアリシアにそう言い、フェイトの頭を撫でていた彼女の手をそっと剥がすと、一度二人の距離を空けさせる。
「え? あ·······うん」
と、アリシアは瞳を数度瞬かせながら、パイプ式のベッドの奥へと大人しく身を引く。
その隙に、乙骨は床に腰を落としたまま硬直しているフェイトの小さな肩に手を添え、アリシアの視線が物理的に届かない救護室の薬品棚の陰にまで彼女の身体を誘導した。
「フェイトちゃん」
二人の視線が交錯する。
乙骨の言葉は一切悪気もなく、けれど酷く心苦しそうに冷たい室内の空気を僅かに震わせた。
「フェイトちゃん、辛い気持ちはわかる·······でも、説明した通り───
少年の唇から漏れ出たのは、『記憶喪失』という想像もしたくない現実を認めさせるための、あまりにも容赦のない事実の提示であった。
「··············ッ!!」
フェイトは自身の胸元で規則的に明滅を繰り返すインテリジェントデバイスを見つめながら、奥歯を強く噛み締めた。
この最悪の殺し合いの舞台に身を投じる前。
地下の薨星宮において天元の長年の知性から共有されていた、呪術界の最悪の歴史。
その中の一つ───“アリシア・テスタロッサの謎”。
それは天元ですら詳細に情報は掴めておらず、だが限定的に語られたものの中にはある程度の秘密が隠されていた。
そして何より、この死滅回游という儀式を組み上げた黒幕───“羂索”。
アリシア・テスタロッサという名の魂は、どういうわけか千年以上も前からこの地に呪われた鎖で縛られており、その呪詛師の手によって現代に『受肉』という異常な蘇生を施されたのだという。
だが。
死んでいた体に受肉する際に術式を開花させるために脳を弄った代償として、彼女の幼い脳組織からは、生前の記憶が完全に全てリセットされていた。
(お姉ちゃんは········何も、覚えていない。自分のことも、母さんのことも、全部··············)
指先から急速に、血液の巡りが途絶えていくような錯覚。
胸の奥に溜まっていた自責の念が、今度は激しい怒りと底の知れない恐怖の混ざり合った狂おしい波形へと変質し、彼女の小さな肩を激しく震わせ始めた。
その絶望の底に突き落とされたフェイトの精神をさらに深く、暗い闇の底へと引き摺り下ろすかのように、乙骨が語っていた呪術界の悍ましき『災厄』の習性が、急激に脳裏を満たしていく。
その天元という人はその羂索という存在の正体について、このように語っていた。
その呪詛師は───“他者の肉体を乗り移って渡り歩く”。
他人の頭を切り開き、脳そのものを自らのものと入れ替えることで、その人間が一生を賭して培ってきた固有の術式も、蓄積された生前の記憶も、その存在の全てを奪い取り、自らの目的を果たすための手足として酷使するのだと。
あの日手に入れた、アリシアの遺体。
その時一緒に落ちていたアリシアの母親の遺体もまた、羂索という術師の手によって頭の内側にある脳を入れ替えられ、その肉体の主導権を強奪されてしまったのだと、そんな事実を淡々と告げられていた。
(
未だにその事実は信じられない。
その最悪の推測が目の前の薬品棚の錆びついた金属の匂いと共に、一つの不可視の因果となって結合した瞬間、フェイトの全身をおでこをぶつけた痛みなど一瞬で思考の彼方へと吹き飛ばすほどの、強烈な戦慄が駆け抜けた。
凍てつくような臨時救護室の空気の中で、あまりにも凄惨な推測が少女の思考回路を真っ白に染め上げていく。
あの歪んだ愛情の果てに自分を拒絶し、けれどどんなに否定しても自分を生み出してくれた、大切な母親。
“プレシア・テスタロッサ”
その二度と触れることの叶わない愛おしい母親の肉体がこの見知らぬ世界のどこかで、顔も知らない最悪の『呪詛師』によって頭と身体を好き勝手に弄くられ、蹂躙され、そして大切な姉を儀式の道具として利用している。
それは、フェイトにとっては悲劇でしかない。
(そんな·········そんなの嘘だよね·········母さん·········ッッッ!?)
手のひらから完全に温度が消失していく。
もし。
乙骨の語ったことが真実であるならば、今こうしている間にも母親の肉体を奪った奴が、この世界のどこかで平然と歩き回っているということになる。
「ッッッッッ!!!!!!!!」
フェイトの胸元で、バルディッシュの黄色い輝きが主の感情の激しい乱れに呼応するようにして、チカチカと不規則な激しい明滅を開始した。
彼女の周囲の大気が、魔導師としての制御を失いかけた圧によって微かに鳴動し、薬品棚のガラス扉をカタカタと不気味に震わせる。
その顔は前髪に隠れてよく見えないが、おそらく自分は今ひどい顔をしているだろう。
当然だろう。
乙骨から語られた話を聞いて、平気でいられる奴なんていない。
それはもう怒りに支配され、そして今まで自分の頭に思い浮かんだ言葉は全て嘘だったのではないかと思えるくらいに、魂の底から出た本音。
──────“絶対許さない”。
前髪の陰から覗く瞳が語る一言は、形を成さぬまま冷たい大気へと溶け込み、けれど救護室の室温をさらに数度引き下げるかのような異質な冷たさを秘めていた。
フェイトの小さな胸を満たしているのは、もはや“悲劇の運命”への嘆きでも、己の無力さを呪う自責でもない。
ただ。
二度と触れることの叶わない母親を好き放題し、最愛の姉の魂までをも弄んだ。
そんな顔も知らぬ宿敵に対する、どこまでも純粋で、嘘偽りのない『殺意』の結晶であった。
ビキビキッ、バキバキッ!! と。
彼女の身体を中心に発生した目に見えぬ圧力が薬品棚のガラスを、そして応急処置室の床に置かれたパイプ椅子の脚部を、不規則に震わせ続けている。
それは呪術界の誰もが手にする負の力とは根本的に異なる、数学的な法則によって厳密に制御されていたはずの異世界のエネルギー、『魔力』がフェイトの激しい怒りによって臨界を越え、周囲の空間へと漏れ出している証拠に他ならなかった。
あの宿儺にアルフを酷く痛めつけられた時以上の怒り、それは周囲を侵食し、魔力の波動が振動となってガラスやパイプを軋ませる。
「ッ!?」
アリシアは突然の現象に思わず怯えた。
彼女は未だに呪いがなんなのかをよくわかっていない。今起きている現象はポルターガイストなのか、それとも地震による自然現象なのか、どちらにしても小さな少女が恐れを抱くには充分な現象だ。
「!?」
そのただ事ではない気配の変質を、乙骨憂太が察知できぬはずがなかった。
「·········フェイトちゃん」
乙骨は彼女の小さな肩に置いた自らの手のひらに、そっと慎重に力を込めた。
肉体を防衛するための呪力強化すら満足に行えぬ今の彼の手には、フェイトの周囲に渦巻く見えざる力の乱気流が、まるで刃のように鋭く、ちくちくと刺さる不快な感触として伝わってくる。
特級術師としての知覚は、目の前の金髪の少女が悲しみの鎖を引き千切り、世界そのものを敵に回しかねないほどの激しい『憤怒』へと、その精神の位相を完全に切り替えた現実を完璧に捉えていた。
このまま彼女が暴走すれば、スタジアムの通路に身を潜めている非術師達がその異質なエネルギーの余波に晒されることになる。
そうなれば。
彼らが再び死への恐怖を募らせ、
特級術師としての責任感が警鐘を鳴らす。
だが、乙骨は彼女を力付くで押さえつけようとはしなかった。
ただの高校生としての不器用な優しさをその瞳に宿したまま。
彼はさらに少しだけ、フェイトの視線の高さに合わせるように身を屈めた。
「フェイトちゃん落ち着いて·········なんて言える状況じゃないよね」
「·········ッ!!」
「ごめん·········僕がこんな話をしたから」
少年の声はひどく掠れており、自身の肉体に刻まれた激闘の疲弊を隠しきれてはいなかった。
「君の話を聞いた限り、アリシアちゃんのことも、君のお母さんのことも·········“羂索”っていう呪詛師がやったことは絶対に許されることじゃない。それは、僕達にとっても同じなんだ。あいつは、僕の大切な人達の居場所も、この世界そのものも全部めちゃくちゃにしようとしてる」
乙骨はフェイトの肩からそっと手を離すと、自らの傷だらけの拳をじわじわと血が滲むほどの力で固く握り直した。
その瞳の奥にある眼光は、大切な友人と後輩達を守るためにこの死滅回游へ身を投じたあの時と、何一つとして変わらぬ覚悟を宿している。
「だから·········一緒に行こう。あいつを止めて、アリシアちゃんを、今度こそ本当の意味で救うために。まずは、東京にいる虎杖君達と合流することだけを考えよう」
少年の口から紡ぎ出されたのは、復讐の炎に呑まれかけた少女の足を、再び『守るための闘い』へと繋ぎ止めるための静かな提案であった。
「·········」
金色の少女は黙り込む。
一人の少女に聞かせるにはあまりにも重すぎる真実。
“運命”はやはり彼女を優しくしない。
呪術というものは、どこまでも彼女を絶望の底へと突き落とす。
でも。
でも。
それでも。
「ッ!!」
そこでフェイトは、震わせていた体を落ち着かせた。
乙骨から話を聞いただけで全ての事情を把握できるわけない。
その羂索という奴が母親の肉体を乗っ取ったとか、そもそもなんであの時消えたアリシア達が千年前のこの世界にいたのかとか、そしてアリシアを使って羂索は何を企んでいるのかとか。
そんなことを、乙骨という少年から少し聞かされたくらいで何もかもわかるわけない。
でも。
それでも!!
「───乙骨さん」
少女は前を向く。
何もわからないことだらけなのは変わらない。
だが。
アリシアのこと、母親のこと、この殺し合いのこと。
そして。
自分にとって最も憎むべき存在である術師──────“羂索”
「乙骨さんは、その人をどうするつもりですか?」
投げかけられた少女の問いに、薬品棚の陰を満たしていた負の気配が、ぴたりと止まった。
フェイトの瞳が、前髪の隙間からまっすぐに少年の横顔を捉えている。
そこには先程までの困惑や動揺の色は削ぎ落とされ、ただ自らが進むべき道を見定めた者だけが有する、一点の曇りもない決意だけが灯っていた。
「·········」
乙骨は彼女の視線を正面から受け止め、決して目を背けることはなかった。
呪力を使い果たし、肉体の組織を維持するための修復すら満足に行えぬ今の彼は、客観的に見ればただの満身創痍の少年に過ぎない。
だが。
その瞳の奥で静かに宿る覚悟は、これから自らが下すべき選択を、すでに決めていた。
彼は。
フェイトの目をしっかりと見て、
「
少年の唇から漏れ出たのは、一切の悪気も、誇張された殺意すらも含まれていない、極めて静かな事実の確定であった。
「─────」
フェイトは、そのあまりにも穏やかな響きの中に宿る計り知れない重さの意志を前にして、思わず言葉を失った。
再び顔を下に向けるフェイト。
人を呪いから救うための呪術師。
誰かを救うために命を賭して戦う心優しい少年。
そんな彼が、何一つの躊躇いもなく、他者の命を完全に終わらせるという結末を口にしたのだ。
「羂索は先生·······五条先生を封印するためだけに、たくさんの人を犠牲にした。それだけじゃない。君のお母さんの身体まで都合よく弄んで、そして今度はアリシアちゃんをこんな目に遭わせてる」
乙骨はゆっくりと振り返り、ベッドの奥で不安そうに自身の小さな膝を抱えているアリシアの姿を、その瞳へと映した。
「あいつに人の心はない。羂索は他人も、自分の子供ですら弄んだ。あいつを生かしておけばこの殺し合いはいつまでも終わらないし、君達のような悲しみを背負う人がこれからもっと増えることになる。だから、僕の手で終わらせなきゃいけないんだ。僕の大切な人達に、これ以上そんな重い役割を背負わせないために······羂索を殺さなきゃいけないんだ!!」
傷だらけの拳が、じわじわと血を滲ませながらさらに強く握り締められる。
それはかつて呪いに縛られ、そこから多くの仲間に救い出された少年が現代最強の一角として、この呪われた世界を全て自らの手で受け止めるという誓いに他ならなかった。
「フェイトちゃんのお母さんのことも、必ず仇を取る·······いや、こんな言い方は傲慢だよね。それでも、あいつにこれ以上好き勝手を許すつもりはないよ。だから君も·······君のその『魔法の力』を、どうか僕達に貸してほしい」
乙骨はフェイトに向かって、不器用ながらも確固たる信頼を込めて、自らの右手を差し出した。
呪力の伴わぬ、ただの高校生の掌。
だが。
その手こそが、この地獄のような世界において、彼女が掴むべき唯一の救いの糸であった。
「·········」
フェイトは少年の差し出したその掌を濡れた瞳で見つめ、そしてもう一度ベッドの上の姉、アリシアへと視線を向けた。
立場が逆転し、自分を『お姉ちゃん』と呼んだ、冷たい手のひらの姉。
その姉の魂を、そして母親の尊厳を。
羂索という最悪の存在から引き剥がすための闘いが。
今、この場で。
“縛り”として結ばれようとしている。
そして。
「はい、乙骨さん······私も、一緒に行きます」
少女は少年の差し出したその右手を、自らの小さな手で強く握り返した。
顔を上げたフェイトの目は、生まれ持った紅玉の輝きとは明らかに異なる。
激しい感情の昂ぶりによって強膜の中の微細な血管が浮き上がり、泣き腫らした生々しい血の色で染め上げられていた。