I love you more than you’ll ever know.

※独自解釈もりもりのレイヒロ・ヒロレイです。

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one last

 

 雲一つ無い晴天を、私は彼女と二人で見上げていた。

 

 最初は彼女にしようと、先に言ったのは彼女だった。

 まるで私がこれから背負おうとしていた罪を、代わりに背負おうとするかのように。

 

 ならばその次は彼女にしようと、私が答えた。

 彼女が背負おうとした罪を、私もちゃんと一緒に背負うと伝えるように。

 

 そうして定めた二人の道は、前だけを向いていた。

 満ち足りた二人は満ち足りたまま、けして振り返ることはなく。繋いだ手が解けることもなければ、寄せ合った肩が離れることもなかった。

 ふたつの後ろ姿が遠ざかるのを見つめていた私は、いつまでも蝶になることなく、彼女たちから流れ出ながら傍らで彼女たちを見つめていた。

 私と彼女が殺した彼女たちを。

 

 たとえワインをこぼした事実を忘れられても。

 そこにできた染みが消えることはないというのに。

 

 だのに私は。

 私は、確かに。

 

 満ち足りて、救われて、報われていた。

 

 じめじめとした暑い夏の夜。

 染みが目を覚まして、布団の上で私になった。

 

 

 *

 

 

 懐かしく、そして恐ろしい夢だった。

 

 あの日、あの時。数多の魔法が飛び交ったことで、私の頭の中に一瞬の内に詰め込まれたのは、あらゆる世界で起きた出来事。

 私が死亡した後の世界で起きたこと、私が死亡することになった世界で起きたこと、何もかも何もかもが頭の中に飛び込んできて――あらゆることを、私は知った。

 

 あれから何日が経っただろうか。

 あの瞬間に詰め込まれた膨大な事象の数々は、記憶として保持することが難しいからか、その必要もないからか……日を重ねるほどに少しずつ薄れ、散っていき、輪郭のない残響へと移り変わっていった。

 

 ……そのはず、なのに。

 

「私、は…………」

 

 全身にびっしょりと汗をかいて真夜中に目を覚ました私は、あの瞬間、ほんの一瞬だけ見た世界の出来事を、夢の中で追体験していた。

 震える手には彼女たちを手にかけた感触がまだ残っていて、今自分の爪を見れば長く伸びているんじゃないかとすら思った。

 ゆっくりと上体を起こして、深呼吸を繰り返す。暗闇に慣れた目で見渡す景色は、見慣れた自分の部屋。ほんの少しだけ留守にしていた、ずいぶんと久しぶりに帰ってきた我が家。

 脳裏には、夢の中で共犯者となって運命を共にした彼女の顔。

 

「君も……同じ夢を……見るのかな…………」

 

 ふと浮かび、口にした言葉に対し。

 胸の奥に残るいつかの私が、そうだったらいいなと呟いた気がした。

 

 ――冗談じゃない。その呟きに対してそう心の内に吐き捨てながら、再び布団の中に潜る。

 こんな時間から起きるのは正しくない。もっと睡眠時間を取るべきだ。たとえ眠れないとしても、たとえ夢を見ることが怖くても。

  

 それから、同じ夢を見ることはなかったけれど。

 脳裏に焼き付いた彼女の顔が消えることはなかった。

  

 

 *

 

 

 今の私がいる世界ではない、別の世界。

 違う結末に至った世界で、私は殺戮に手を染めていた。

 

 私はそれを、どの世界でもどの瞬間においても、どこまでも【正しい】ことだと信じて行っていた。たとえ魔女化による殺人衝動が背中を押したという可能性があったとしてもだ。

 ひどく傲慢で自己中心的な、正義の執行者。それが私だった。あの私だった、あの私だった、あの私だった。

 遠く残響となって霞んでいくそれらは確かにあったことなのだと、今の私が悔い続けることが、かつての私の行いに対するせめてもの贖罪になるのだろうか。なって、くれるのだろうか。

 

 ――雲の隙間から差し込む朝の日差しを受けて、再び目を覚ました私の心には、ぽっかりと空いた空白があった。

 

 人の形をしたその空白は、かつては常に埋まっていたものだった。埋めてくれていたものを失ったとき、初めて私は、私の心の中にはずっとこの空白があったのだと知った。

 その空白を埋めるものは、今ここにはない。首を振って探しても見渡しても、誰もどこにもいない。ここは私の部屋なのだから当然だ。

 ……けれど、その事実がひどく寂しく思えて、胸の内を掻きむしりたくなる切なさに襲われて――私は胸を掻くかわりに、枕元のスマートフォンを掻き寄せて、今の時刻を確認しながらアラームを止めた後、連絡先を交換した彼女たちの名前からひとりの名前を探すことにした。

 

(こんな早朝から電話をかけるのは、正しくない。正しく、ない……けれど…………)

 

 指先は止まらず、その名前を選び、触れる。

 このままこの空白を抱えてひとりで過ごすことが、ただただ寂しくて、恐ろしくて。何よりも、耐え難かった。

 ああどうか、どうか……でも、繋がらないでくれ、嫌だ、繋がってくれと、矛盾した想いで彼女に電話をかける。

 

 あの夢の中で、私の共犯者であり、半身であった。

 ――【蓮見レイア】へと。

 

『はい……えっと、ヒロくん?』

 

 予想に反して、覚悟を決める時間は短かった。

 

『君から電話をくれるだなんて、珍しいね……! どうしたんだい? 私のことが恋しくなったとか?』

 

「……ああ」

 

『なんて、そんなわけ…………へっ?』

 

「君の声が…………聞きたくて、たまらなくなった」

 

 こんな朝早くだというのに、彼女の調子は変わらない。

 ……彼女は今、何をしていたのだろう。起こしてしまったのなら謝らなければ。夜更かしをして夜を明かしていたというなら…………叱る、よりも先に、感謝すべきだろうか。

 私の声がずいぶんと震えていたからか、それに対する返事は馴染みのある芝居がかった声色ではなく、とても落ち着いた声だった。

 

『……嫌な夢でも、見たのかい?』

 

 こういう時の彼女は、どうしてか鋭い。

 布団を指先でぐにぐにと弄びながら、働かない頭で答えを作って口にする。

 

「君の夢を。……君と一緒に……みんなを殺す夢を」

 

 この言葉で、彼女には伝わるだろうか。

 それとも彼女は何も覚えていなくて、私がただ奇妙な悪夢を見ただけだと捉えるだろうか。

 

 ――どうか忘れていて。

 ――どうか覚えていて。

 

 矛盾した気持ちがぐちゃぐちゃに固まって心を乱すより先に、意を決したような声が電話口から聞こえた。

 

 

『ヒロくん。今から会わないかい?』

 

 

「…………えっ? ……え、っと……い、今から?」

 

『そう、今から。電話口じゃなくて、会って話がしたいんだ。できれば今、すぐに』

 

 あまりに突然の提案に面食らった私は、思わず布団の上に立ち上がった。

 自分は寝間着姿で、いやな寝汗もかいている。会う前にまずシャワーを浴びなければ。それに歯を磨いて顔を洗い、着ていく服の準備だってしないと。……ええ、と。

 どれ……から手をつけるべきだ? そんな悠長でいいのか、間に合わなくなるんじゃないか? え、っと……何に?

 

『……駄目、かな?』

 

 ぐるぐるとこんがらがる頭に翻弄されて、無意識に部屋の中を早足で歩き回っていた私は、彼女に返事をすることを忘れていた。

 そうだ。まず確認すべきことは――。

 

「だめ、じゃ……ない。私も、いつか話さないとと思っていた。それで……君は今どこにいる? 今すぐと言ったが、すぐに会えるような場所なのか?」

 

『うん、私の記憶が正しければね。別れた後、みんなの住所は聞いていたから。ああでも焦らなくていいよ。何なら、私が今からヒロくんの家に直接向かうことだってできるけど』

 

「……それは、だめだ。私が行く……」

 

 冗談なのかそうでないのか、残念そうな声が聞こえてくる。友人を迎えることに問題はないかもしれないが……レイアを家に迎えることに抵抗があった。

 嫌悪、ではない。どういうわけか、羞恥――恥ずかしさがあったから。

 頭の中でこれからのスケジュールを組み立てていくと、眠気が覚めて気持ちも少しずつ晴れてくる。それでもあの夢が残した空白は未だ健在で、その空白が、できるなら早く彼女に会いたいと私を急かしつけていた。

 

 

 ――そうして私は、レイアと駅で待ち合わせる時刻を決め、合流したあとで早朝から開いている喫茶店に向かうことにした。

 待ち合わせる駅はここから一駅ほど離れた場所になるが、ちょうど一時間後くらいに始発が出る。多少ばたばたするかもしれないが、それも楽しみのひとつだろう。

 話し終えて、名残惜しさを感じつつも通話を切ると、自分の胸がとくんとくんと高鳴っていることに気が付いた。

 ……私の中で、あの結末を選んだ【私】が逸っているのだろうか。ここにいる私がその選択をしていなかったとしても、彼女の手を取ることで彼女に惹かれた【私】は、確かに存在したのだから。

 

「……自然に。彼女に不審がられないように」

 

 胸に手を添えて、何度かゆっくりと深呼吸をして。

 わずかに持ち上がっていた口の端を押さえつけるように頬を撫でて、私は最初に行うと決めていたことに手をつけた。

 

 

 *

 

 

 人の少ない道を歩き、人の少ない駅に行き、人の少ない電車に乗る。

 車窓の向こうを流れていく景色はまさしく日常そのもので、同時に、まだ非日常でもあった。

 牢屋敷という非日常を生きすぎた私にとって、今でもなんてことのない日常のひとつひとつが信じ難い。電車に運ばれながら過ぎ去っていく文明の形を見ていると、世界とはこんなにも広く異質なものだったかとすら思ってしまう。

 

(島を出た君も、同じ気持ちだったのだろうか)

 

 尋ねる相手は、もうどこにもいない。

 

 やがて目的の駅に到着し、ドアが開くのを待ってから、ゆっくりと電車を降りる。学生たち――同級生やクラスメイトは、友人たちと遊びに行くとなった際にはよくこの駅で降りていった。

 遊ぶ場所が近場にないというわけでもないが、街へ出れば選択の幅が広がるからだ。私も何度か来たことがある。彼女と、彼女の三人で。

 私を含めた仲のいい三人の影法師が、私を追い越して改札の向こう側へ歩いていくのが見えた気がした。

 

 改札を出ると、彼女はもうそこに立っていた。

 

 飾り気のない帽子に伊達眼鏡、今となっては誰も違和感を持たない白いマスクで顔の特徴を隠した、背の高い少女。

 それが誰なのかを示す特徴的なシルエットこそぼかされているが、見れば一目で彼女だとわかる。

 あの牢屋敷から今に至るまで、ずっと繋がり続けている、かけがえのない日常のひとかけら。

 

 私を見つけた彼女はマスクを指先で顎下へと下ろし、にっこりと微笑んだ。

 

「やあ。久しぶりだね、ヒロくん!」

 

「……うん。久しぶりだ、レイア」

 

 懐かしく、変わりない彼女の笑顔を見て。

 せっかく整えた口の端が、結局また持ち上がってしまうのがわかった。

 

 

 *

 

 

「ちょうど、このあたりに用があってね。駅前に大きなビジネスホテルがあるだろう? 今はあそこに宿泊していて、あと二日ほど滞在する予定なんだ」

 

「……そうか。無理に時間を取らせたみたいで、すまなかった」

 

「かまわないよ、誘ったのは私なんだから。あっ、なんならあとで私の部屋に来るかい? 角部屋だから広いよ?」

 

「行かない」

 

 席は店内ではなく、テラス席を選んだ。なんとなく外の空気を感じていたかったからだ。

 ほどなくして注文したカフェラテがテーブルの上に置かれたが、すぐには口をつけず、ホイップの乗ったそれを私はただじっと見つめていた。

 上にはホイップ、下にはたっぷりのミルク。ふたつの白色に挟まれた中央の黒色がコーヒー。同じものを目の前でレイアがくるくると混ぜると、それらがグラスの中で溶け合って、綺麗な薄茶色へと変わっていった。

 

「ヒロくん? ……もしかして、こういうタイプのカフェラテは好まなかったり……」

 

 その様子をじっと見つめていたことに気づいたレイアが、私にそう問いかけた。

 いいや、と首を横に振る。それから私も彼女を真似て、一緒に運ばれてきた大きめのストローを使い、ぐるぐるとカフェラテをかき混ぜた。

 

「もしそうだったら、最初から注文していないよ。……何を話そうか……考えていたんだ」

 

 その返事を聞いて、ふっとレイアの顔がほころんだ。

 

「ならよかった。じゃあ……まずは飲もうか、ヒロくん。私もキミと話したいことがたくさんあるんだ――」

 

 予想通りに甘くて、けれど案外飲みやすいカフェラテの味を楽しみながら、私たちはゆっくりと話し始める。

 お互いの現状や近況、生活のこと、牢屋敷で一緒に過ごした彼女たちとの交流のこと。軽い相談事や他愛ない雑談を交わしていると、あの寂しさや切なさが嘘のように消えていった。

 胸の中にあった空白の輪郭も、今はぼやけている。ただの雑談だというのに、臨場感たっぷりに話すレイアを相手にしていると、自然とくすりと笑みがこぼれてしまう。

 

 ――ああ。やっぱり楽しいな。彼女と過ごす時間が、こんなにも。

 

「…………ヒロくん?」

 

 その事実が、私の心をぎゅっと締め付ける。

 満たされている自分がいる。あの時と同じように。

 救われている自分がいる。あの時と同じように。

 

「レイア」

 

 そうして膨らんでいくひどい罪悪感が、私の中から言葉を押し出して。

 八つ当たりのように、その言葉を彼女に押し付けた。

 

「今朝。君と二人で、みんなを殺す夢を見たんだ」

 

 レイアの笑顔から、愉快さだけが静かに隠れていく。

 口元はほころんだまま、じっと私の顔を見つめながら。

 

「……そう、言っていたね」

 

 レイアの返事に、ゆっくりと頷く。頷いたまま、顔は上げられなかった。

 伊達眼鏡越しの彼女の瞳を見ることが、急に恐ろしくなった。

 

「夢……というのは正しくないな。あれは実際に見た光景だ。ここではない別の世界で、私は確かに、そんな救済の手段を選び――その共犯者に、蓮見レイアを選んだ。そして」

 

 そして。そして私は。わなわなと、震える両手で顔を覆った。

 行き場を失っていた感情が蘇り、私はやっと、その感情の名を思い出した。

 

「そして……やり遂げた。身勝手な殺戮に、君を巻き込んで――やり遂げたんだ。君と一緒に。私は……その時……私は」

 

 噛み締めた歯がきしむ。指先に力がこもり、髪をぐしゃりと握った。

 私は。

 

「――満ち足りていたんだ。隣に君がいることで……最期を君と一緒に過ごせたことで、報われていた。自分一人でやればいいものを、自分ひとりで破滅すればいいものを、誰も彼もを巻き込んで、心中することを選んで――勝手に…………救われていた……!!」

 

 許せなかった。

 彼女と彼女たちを巻き込んだ自分のことが。

 そうして勝手に救われた自分のことが。

 

 私は、私のことが、許せなかったのだ。

 

「…………終わったことだ。もう……どうしようもないことだ。だけど……消えないんだ。彼女たちを手にかけた感触が。ころりと転がっている彼女たちの顔が。宝石に変わっていく、君の瞳が……私の中で傷になって、消えないんだ。たとえあの光景のすべてが、遠い別の世界の出来事だったとしても――今、ここにいる私に刻まれた傷は、痛みは、消えようがない……無視、できないんだ……私は…………っ、う、うぅっ……」

 

 溢れ出していく想いがすべて流れ出ていった時。私の中に最後に残ったのは、渇望だった。

 謝りたくてたまらない。彼女たちに、そして貴女に。届かない言葉を届けたくてたまらない、どうか謝らせてほしい。そんなことで済むものではないことなんてわかっている。それでも、私は。

 私は自らの胸を突き破る自責の刃の痛みに耐えられるほど、強くはないから。

 

 ごめんなさいと、腫れた喉から言葉が出る代わりに、涙と嗚咽が漏れだして。

 不意に顔を覆う両手をそっと、優しく撫でられた。

 

「ヒロくん、私の目を見てくれ」

 

「……レイア……?」

 

 彼女の手で、私の両手がほどかれていく。泣き腫らした目で、私はレイアの瞳を見た。

 伊達眼鏡が外れている。マスクは顎の下にある。その顔は、ずっと見てきたものと全く同じだった。

 

 魔法を失って久しいはずなのに。

 彼女の瞳から、目が離せなかった。

 

「私の目は、宝石になっているかい?」

 

「…………なって……ない」

 

「そうだろう?」

 

 ふるふると首を振って答えた私に、くすりとレイアは微笑む。

 私の手は彼女の手に握られたまま、そっとテーブルの上へと置かれる。

 

「私もね。たぶん、キミが見たものと同じ光景を、何度か夢に見たことがあるんだ。……でもきっと、キミが見た夢と、私が見た夢の重さは違う。私にとってそれは――とても出来の良い……映画のようなものだったから」

 

「……映画のような、もの?」

 

 ぎゅっ、とレイアは私の手を少しだけ強く握った。

 表情には決して表れない彼女の想いが、そこにあるような気がした。

 

「実際に目の前でそれは起きているのに、自分はそれを俯瞰している。手を出すことはできない、ただ鑑賞するだけだ。劇ならば舞台に上がれるけれど、それは映画だから……スクリーンに映し出されたフィルムが見せる過去の映像だから。私はただ、観ることしかできない。そこに記録された、とてもとても幸せだった【私】の想いを一方的に受け取ることしかできない。私は……」

 

「私は決して、あの【私】にはなれない。あの【私】には……君と二人で何人もの少女たちを手に掛けながら、罪の意識に苛まれることもなく、抜け駆けするように救われていった【あいつ】にはなれない。【あいつ】のように、幸せにはなれない。それが、たまらなく悔しくて、妬ましくて、羨ましくて――。そして……ある時、こう受け止めたんだ。全部…………ただの夢だ、ってね」

 

 悔しさ。妬ましさ。そして、羨望。私の手を握る彼女の手は、少しだけ震えていた。

 そっと手を起こして、彼女の手を握り返す。そこにある彼女の心を、誰にも見せずに飲み込む想いを、私の手に握るために。

 握り返されたレイアは小さく目を開いて、それからまた笑った。それは私に見せるための笑顔ではなく、本心からこぼれた笑みのように見えた。

 

「私はね、ヒロくん。キミの、その強いところに憧れるんだ。たとえ別の世界で起きただけの、誰の記憶からも消えていくような出来事だろうと……他人事や夢のままで終わらせずに、傷として受け止めて、背負うことができる。それができるキミは……本当にすごいんだよ」

 

「…………レイア」

 

「だから……どうか泣かないで。そして、忘れていいんだ。夢は覚めるもので、傷は癒えるものだから。そりゃ……キミの中に今でも【私】がいるのなら、それはとても嬉しいけれどね。でも、それが負担になって、キミを追い詰めているのなら……全部、忘れられたほうがずっといい」

 

 そう言って、彼女の手はするりと私の手から離れていった。

 そこにあるべきでないと、身を引くように。

 

 ――忘れていいと、彼女は言った。

 この傷と痛みが苦しかったのは事実だ。胸に空いた空白に耐えられなかったのも事実だ。……でも。

 私がレイアに電話をかけたのは、この言葉を、彼女の口からもらうためだっただろうか?

 

「ああ――でも、やっぱり少し惜しいね。ただの夢だって、もうどこにもない時間だってわかっているのに。あの瞬間は本当に、すごく幸せで、特別だった――そう、私も。確かに満ち足りて、報われて、救われていたんだ。ヒロくんが言ってくれたようにね」

 

 目を伏せてレイアが笑う。――ああ。あれは私に見せるための笑顔だ。

 あの時、彼女は本当に幸せだったんだ。私がそうであったように。でなければ今の彼女は、悔しさも妬ましさも覚えず、羨みもしないだろうから。

 だから彼女は、それを過去ではなく夢とした。やがて薄れて消えていく思い出にした。傷として受け止めた私とは対照的に。

 

 ――忘れられたほうがずっといいと、彼女が言ったとき。

 彼女はとても苦しそうに笑っていた。それを見て、私の心も、ずきりと痛んだ。

 

 ああ……なんだ。君も、私と……。

 私と、おんなじだったんじゃないか……。

 

「おっと、さすがに一杯のカフェラテで長居するのもよろしく……正しくないかな。もう一杯、さっぱりしたものも注文しようか? それとも、もうお会計をして――」

 

 やっと、わかった。私が本当は何を恐れていたのか、何を求めていたのか。それが彼女の言葉で、はっきりと見えるようになった。

 この傷は確かに深く、痛い。だけど……私はそれがやがて癒えて、跡形もなく消えてしまうことを何よりも恐れていたんだ。

 あれがただの可能性でしかなくて――【正しくない】世界の出来事でしかなかったんだといつか気づき、そしていつか忘れてしまうことが、たまらなく恐ろしかった。

 

 傷ならば痛いままでいい。夢ならば覚めて尚も見ていたい。殺戮という救済を選び、そして遂げたことは確かに間違いだ。だけど。

 だけど彼女と二人で一緒に過ごした、あの時間まで……私が彼女に抱いたあの想いまでもが、交わした言葉の数々までもがすべて間違いだったとは思いたくない。

 

 そうだ、私は……本当は。

 あんな終わり方なんて、したくなかったんだ。

 

「待って。レイア」

 

「……ヒロくん? どうしたんだい?」

 

 立ち上がろうと横を向いたレイアを呼び止めて、私は先に立ち上がる。

 そして彼女の前に立って。じっと、彼女の目を見下ろして。

 

 自分の胸に、握った右手を添えながら。

 左手の甲を、彼女に向けて差し出した。

 

「…………!」

 

 驚いて見開いた、その君の目に。今の私は、どんな姿に映っているんだろうか。

 そもそも……意図は伝わっているだろうか。伝わっていないと、私だけが恥ずかしいままだ。

 

 君が言ったんだ。幸せだったって。

 あの時間は、君にとっても特別なものだったって。

 

 だったら、今度こそ、私は。

 

 生きたまま、君と幸せになりたい。

 幸せなまま、君と生きていきたい。

 

「……いい……のかい?」

 

 ゆっくりと、右手のひらを上に向けて、差し出しながら。触れる寸前で、レイアが尋ねた。

 奇妙な質問だ。ただ【手を取る】だけのことに、どうして許可が必要なのだろう。……なんて。

 

「私は……忘れたくない。続けたいんだ。今度はもっと、私が……ちゃんと、望む形で」

 

 伝え終えるとともに、そっと。

 私の手と、彼女の手が触れ合う。

 

 ぎゅっと、彼女の手が、指が。

 私の手を、確かに取っていた。

 

「…………ずるいなあ。ヒロくんは……本当にずるいよ……」

 

「……なんだ。知らなかったのか? そうだよ。私は、ずるいんだ……」

 

 欠けていたピースを見つけ、歯車が噛み合って、私と彼女の間に繋がりが生まれる。

 そうして失っていたものがようやく取り戻されて、私は……いつか感じたものと同じ、懐かしい感覚に浸っていた。

 

 ――だから。そのせいで。

 それは本当に、本当に、不意打ちだった。

 

「…………え?」

 

 くっと引かれた私の手が、突然何かに触れた。柔らかくて、小さな感触。

 見下ろした先にはレイアの顔があった。私の手に触れていたのは、その――レイアの、顔だった。

 

「っ……。……ふふっ。手を取る、だけじゃ……あの時と一緒だからね。少しだけ、あの時の私を追い越させてもらったよ。ふふっ。ふふふっ……、……これ……ぉ、思っていたより……は、恥ずかしい、ね……?」

 

 そっと顔を離し、レイアは私を見上げて、真っ赤になった顔で照れくさそうに笑っていた。

 それを見下ろす私の顔も……今。爆発しそうなぐらいに揺れている心臓と、耳まで熱くなっている感覚で、同じように真っ赤に染まっているとわかった。

 彼女も照れてるけど、今は。

 私の方がもっと、もっと…………。

 

「~~~~っ……!!」

 

 思わずうろたえて、後ずさり。その拍子にするりと手が離れてしまう。それでも。

 レイアに手を取られる感触と、あの小さくて柔らかい感触は、私の手にまだはっきりと残っていた。

 

「あっ――その……ご……ごめん!! ごめんなさい!! ちょっと……ちょっとかっこつけすぎたかもしれないね!? あの、ええとっ、ふ、不愉快だったら、ほんとうにそのっ!!」

 

 そんな私の反応を見て、レイアはわたわたと慌てて立ち上がり、ぶんぶんと両手を振って謝罪していた。

 ……そうじゃない。そうじゃないけど、言葉が出ない。嬉しくないわけじゃないけれど、恥ずかしさが大いに勝り、声が出せない。

 だから……私は。言葉で答えることはせずに。

 

「その、ヒロく……ん…………?」

 

 ほとんど放心しながら、惚けながら、私は。顔色を窺うように私の名を呼ぶ、彼女の前で。

 彼女が触れた、自分の左手の甲に――まだ感触が残っている一部分を、じっと見つめて。

 

 右手で抱き寄せるようにしながら。そっと。

 

 同じように。

 重ねるように。

 

 

 私もそこに、そっと、触れた。

 

 

「…………」

 

「…………君も……大概、ずるいじゃないか。レイア」

 

 やっと口にできたのは、そんな言葉で。

 お互いに見合わせた顔は、同じように赤く、熱く。

 

 ……それから、どちらともなく、ころころと笑い合った。

 ほどけた緊張のせいか、喜びを抑えきれなくなったからか、言葉にできない感情のためか。

 わからないけれど、私たちは、確かに。

 

 からりと晴れた、夏の日の朝。

 雲一つない晴天の下で、一緒に笑っていた。

 

 

 *

 

 

「……それでレイアちゃんと一緒に、美術館に行ってきたの?」

 

「ああ。あの日の別れ際、『空いてる日を教えてくれるかいっ!?』なんて唐突に誘われてね……悪いからと断りたかったが、結局は押しに負けてしまった。まあでも、なかなか楽しかったよ。はい、お土産」

 

「決めちゃうレイアちゃんもすごいけど、それに付き合えるヒロちゃんもすごいね……。あ、お土産ありがとう」

 

 どれを買えばいいか迷ったものだから、無難に選んだマグカップをことんとテーブルの上に置く。それからチョコレートやマカロンといったお菓子を並べ、好きなものを食べていいとエマに伝えた。

 安直ながら土産物とわかりやすい、美術品がデザインされたノートや文具なんかの類は後日レイアと一緒に牢屋敷へ届けにいくつもりである。

 

「ナノカとミリア、それからココにはもう渡したんだ。機会があればエマからシェリーやハンナ、アリサに渡してあげてくれ」

 

「うん、わかった。任せて! それでヒロちゃん……海外に行ったんだよね? その……どうだった?」

 

 ずい、とエマが身を乗り出して、きらきらした瞳で私に尋ねる。

 土産物以外に、土産話も彼女はご所望のようだ。

 

「どう、か……そう、だなぁ……」

 

 エマの部屋から窓の外を見上げると、あの日見たものと同じ空が広がっていた。

 あの空の下で、旅行には慣れていると豪語しながら私にぴったりとくっついて、大はしゃぎしていた彼女の顔がありありと思い出せる。

 大きな羨望と、少しの嫉妬が込められた瞳で美術品を鑑賞する彼女の横顔も。

 その横顔を見つめる私に気づいて、照れくさそうに笑う顔も。

 

 牢屋敷の中でも、外でも、そして海を越えた先でも。

 晴れ渡る空の色は、同じだった。

 

「存外……初めてのルーブルは、なんてことはなかったよ。エマ」

 


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