薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ)   作:LongLong

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第二幕 第九話『傷だらけ』

第九話 傷だらけ

 

 六月に入ると、灰谷市の夜は蒸し暑くなった。

 

 沙耶はほぼ毎晩、結界に入るようになっていた。ネックレスが熱を持てば出かけ、結界を見つけ、使い魔を倒し、運が悪ければ魔女と遭遇する。そのたびに傷を負い、自分で手当てをして、翌朝また学校に行く。

 

 戦い方は確実に上達していた。ランスの扱いに身体が馴染み、使い魔の動きを予測できるようになった。突きの角度、薙ぎ払いのタイミング、回避の方向。一ヶ月前の自分とは別人のように動ける。

 

 しかし、身体は別人にはなれなかった。

 

 左腕の裂傷は完治する前に新しい打撲が重なった。肩の痣が消えかけた頃に脇腹を掠められた。右膝を捻った翌日に背中を壁に叩きつけられた。古い傷が治りきらないうちに、新しい傷が上から塗り重ねられていく。

 

 鏡の前に立つたび、自分の身体が地図のようになっていくのがわかった。傷の地図。どこでいつ何にやられたか、全部覚えている。消えない記録。

 

 制服で隠し切れなくなってきた。半袖の季節が来るのが怖い。

 

 その夜の結界は、今までで一番手強かった。

 

 使い魔ではなく、魔女。以前カナエに助けられたときの燭台のような魔女とは別の個体。こちらは蜘蛛に似た形をしていて、天井から糸を垂らして攻撃してくる。糸に触れた右の掌が焼けるように痛み、皮が裂けた。

 

 ランスで糸を断ち切りながら懐に飛び込む。腹の下──核があるはずの場所を目がけて突く。手応え。だが浅い。蜘蛛が暴れ、脚の一本が沙耶の太ももを掠めた。制服のスカートが裂けて、血が滲む。

 

 二度目の突き。今度は深く刺さった。蜘蛛が悲鳴を上げ、黒い粒子になって崩れていく。

 

 結界が崩壊する。グリーフシードが落ちた。

 

 沙耶は拾い上げた。小さな、下部から針が突き出した種のようなもの。キュゥべえに教わった通り、ペンダントトップに近づける。

 

 ネックレスの紫の光が、ほんの僅かだけ明るくなった。消耗した分の一部が回復している。

 

 でも──沙耶にはわかった。回復した光は、以前の光とは質が違う。鮮やかな紫ではなく、どこか薄い。水で割ったような。お母さんの魔力が、グリーフシードの魔力で薄められている。

 

 量は戻る。でも、質は戻らない。キュゥべえの言葉が脳裏を過る。

 

 グリーフシードをポケットにしまい、沙耶は帰路についた。右の掌が焼けるように痛い。太ももの傷から血が靴下まで伝っている。

 

 住宅街を歩いていると、背後から足音がした。

 

 「──いつまで無茶を続けるつもり」

 

 カナエだった。灰谷高校の制服のまま、灰色の長い髪が夜風に揺れている。腕を組んで、街灯の下に立っていた。いつからいたのか、気配に全く気づかなかった。

 

 「……見てたの?」

 

 「途中から。蜘蛛の魔女でしょう。あれは中堅クラスよ。それを一人で倒せるようにはなったのね」

 

 褒めているのではない。事実を述べているだけだ。カナエの灰色の目は、沙耶の傷だらけの身体を冷たく見ている。右掌の火傷、太ももの裂傷、制服の血痕。

 

 カナエが何か言いかけた。唇が動いて──でも、言葉にはならなかった。飲み込んだのだ。代わりに、ポケットから小さなものを取り出して、沙耶に向けて投げた。

 

 反射的にキャッチする。掌に収まったのは、グリーフシード。さっき沙耶が拾ったものとは別の個体。

 

 「ネックレスの修復に使いなさい。あなたが倒れたら、余計に面倒が増える」

 

 「……え、でもこれ、カナエさんのじゃ」

 

 「聞いてないわよ。使えと言ったの」

 

 カナエはもう背を向けていた。灰色の長い髪が街灯の光の下で、紺色にも見えた。

 

 「……ありがとう」

 

 沙耶が言ったとき、カナエは既に角を曲がっていた。聞こえたかどうかはわからない。

 

 手の中のグリーフシード。カナエにとって、これは自分のソウルジェムを浄化するための貴重な資源のはずだ。それを沙耶に渡した。「面倒が増える」──そう言ったのは、沙耶が戦力として少しだけ計算に入ったということだろうか。

 

 それとも。

 

 沙耶はそれ以上考えるのをやめて、家に帰った。

 

 翌日の放課後。

 

 授業が終わって、鞄を持って立ち上がったとき、視界が傾いた。

 

 足に力が入らない。寝不足と傷の痛みが限界を超えていた。机に手をついて踏みとどまろうとしたが、膝が笑って──

 

 「沙耶っ」

 

 横から腕が伸びて、沙耶の身体を支えた。ノアだった。小柄な身体で沙耶の体重を受け止めて、よろめきながらも倒さなかった。

 

 「大丈夫? ちょっと座って」

 

 ノアに促されて椅子に座り直す。教室にはまだ何人か残っていて、こちらを見ている。沙耶は「大丈夫、立ちくらみ」と手を振ったが、説得力がないのは自分でもわかっていた。

 

 ノアが水筒の水を沙耶に飲ませてくれている、そのとき。

 

 廊下を、足音が通り過ぎた。

 

 沙耶は顔を上げた。教室の開いた扉の向こう、廊下を歩く灰色の長い髪の後ろ姿。常磐カナエ。三年生の教室がある方向とは逆──わざわざ二年生の廊下を通っている。

 

 カナエは歩きながら、一瞬だけ教室の中に目を向けた。沙耶と、沙耶を支えているノアに。灰色の目が二人を一瞥して──何も言わず、通り過ぎていった。

 

 その一瞬を、ノアは見逃さなかった。

 

 カナエの足音が遠ざかるのを待ってから、ノアは言った。

 

 「常磐先輩、沙耶と何かあるの?」

 

 「……まあ、うん」

 

 「有名人だよね。なんか、すごい目をしてたけど」

 

 沙耶は答えに詰まった。嘘はつけない。でも説明もできない。

 

 「……ちょっとだけ、関わりがある人」

 

 ノアは沙耶の顔をじっと見ていた。それから、カナエが消えていった廊下の方を見た。また沙耶の顔に戻った。

 

 「常磐先輩と、沙耶の傷って、関係ある?」

 

 核心に近い質問だった。正確には違う。カナエが沙耶を傷つけているわけではない。でも、同じ世界にいるという意味では──関係がある。

 

 「……直接は違うけど、全然関係ないとも言えない、かな」

 

 沙耶の曖昧な答えを、ノアは黙って受け取った。否定も追及もしなかった。ただ、琥珀色の目に浮かんでいたのは、沙耶がこれまでに見た中で一番鋭い光だった。

 

 「わかった。今は聞かない」

 

 ノアは立ち上がって、沙耶に手を差し出した。

 

 「帰ろ。今日は一緒に帰る」

 

 沙耶はその手を取った。ノアの手は小さくて温かかった。

 

 帰り道、二人は並んで歩いた。ノアはいつもより少しだけゆっくり歩いてくれていた。沙耶の足が痛いのを察しているのだろう。

 

 商店街を抜けて、住宅街に入る。分かれ道が近づいてきた。

 

 「沙耶」

 

 「うん」

 

 「常磐先輩、沙耶のこと嫌いなわけじゃないと思うよ」

 

 「え?」

 

 「すれ違うとき、すごい一瞬だったけど、沙耶の傷を見てた。見てたっていうか、数えてた。どこにどれだけあるか確認してるような目だった」

 

 沙耶は足を止めた。

 

 カナエが、傷を数えていた?

 

 「嫌いな相手の傷なんか数えないよ。心配してるんだと思う。言わないだけで」

 

 ノアはそう言って、分かれ道で「またね」と手を振った。栗色の髪が夕日に透けている。

 

 沙耶はしばらくその場に立っていた。

 

 カナエが傷を数えていた。面倒だと言いながら、グリーフシードをくれた。二年生の廊下をわざわざ通った。

 

 偽物だと言った人が、偽物の傷を数えている。

 

 沙耶はネックレスに触れた。紫の光がくすんでいる。グリーフシードで少しだけ明るくなった──でも、前とは違う紫。お母さんの魔力が薄まった色。

 

 使えば減る。でも、使わなければこの街の結界は処理されない。カナエ一人では手が回らない。ノアの弟は目を覚まさない。

 

 家に帰って、「ただいま」。返事はない。

 

 カナエのグリーフシードをネックレスにかざした。紫がまた少しだけ明るくなる。でもやっぱり、お母さんの紫とは違う。

 

 明日も戦う。傷は増える。ネックレスは薄くなる。

 

 それでも、止まるわけにはいかなかった。

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