薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
第十話 偽物の覚悟
夜の公園で、カナエは待っていた。
沙耶がメッセージで呼び出されたのは昨夜のことだ。番号を交換した覚えはないが、キュゥべえ経由だろう。「明日の夜、駅裏の公園に来なさい。話がある」。一方的な文面だった。
公園のベンチにカナエは座っていた。制服ではなく、黒いカットソーにジーンズという私服姿。灰色の長い髪を下ろしている。学校とは印象が違う。少しだけ年相応に見えた。
「座りなさい」
沙耶は隣に腰を下ろした。カナエとこうして向かい合うのは初めてだった。今まではすれ違いか、結界の中か、廊下の一瞬だけ。
「この街の魔女の出没パターン、気づいてる?」
「……増えてるのは、わかる」
「増えてるだけじゃないわよ。パターンがあるの」
カナエはスマートフォンを取り出して、地図アプリを開いた。灰谷市の地図に、赤い点がいくつも打たれている。
「過去二ヶ月の結界の出現場所。全部記録してある」
赤い点は灰谷市の全域に散らばっていた。が、よく見ると──中心部に向かって密度が高くなっている。同心円状に、内側ほど点が密集している。
「自然発生なら、こんな綺麗なパターンにはならない。何かが中心にいて、魔女を引き寄せている」
「引き寄せている……?」
「あるいは、生み出している。どちらにしても、異常よ。灰谷市にいた魔法少女は四人。一人は消えた。二人は戦えなくなった。残ったのは私だけ。……一人じゃ、追いつかない」
カナエがそう認めるのを聞いたのは初めてだった。「一人では手が回らない」とキュゥべえが言っていたのを思い出す。でもカナエ自身の口から出ると、重さが違った。
「あなたに頼みたいわけじゃない。勘違いしないで。ただ、状況を共有しておいた方が合理的だから話しているの」
沙耶は少しだけ笑った。この人は、素直に「助けてほしい」と言えないのだ。
「カナエさんは、何のために戦ってるの」
カナエの指が、地図の上で止まった。
沈黙が長かった。公園の街灯が二人を照らしている。蛾が一匹、光の周りを飛んでいる。
「……聞いてどうするの」
「知りたいだけ。カナエさんみたいに強い人が、何を守ろうとしてるのか」
カナエは答えなかった。スマートフォンをしまい、立ち上がった。
「あなたは余計なことを聞きすぎよ」
それだけ言って、カナエは公園を出ていった。沙耶は一人ベンチに残された。
答えなかった。でも、「聞くな」とは言わなかった。怒ってもいなかった。ただ、答えられなかったのだ。沙耶にはそう見えた。
翌日の放課後。
昼休みはいつも通り隣で弁当を食べた。でもノアはいつもより言葉が少なかった。何か考えているような顔をしていた。沙耶は聞かなかった。ノアが話したいときに話すだろうと、そう思ったから。
帰り支度をしていると、ノアが沙耶の机の横に来た。いつものように自然に。でも今日は、少し様子が違った。鞄を持ったまま、立っている。座らない。
「沙耶」
「うん」
「聞いていい?」
沙耶はノアの目を見た。琥珀色の瞳が、真っ直ぐにこちらを向いている。眠そうな目ではない。覚悟を決めた目。
「沙耶、何かと戦ってるんでしょ」
教室にはもう誰もいなかった。窓から差し込む西日が二人の影を長く引いている。
沙耶は逃げなかった。
「……うん」
「常磐先輩も、関係あるんだよね」
「……うん」
「毎晩出かけてるんだよね。傷がどんどん増えてるのは、そのせいだよね」
「……うん」
三回、同じ返事をした。全部「うん」。それ以上は言えない。魔女とか結界とか、今はまだ話せない。でも嘘はつかなかった。
ノアは沈黙した。数秒。長い数秒。
それから、泣きそうな顔で──笑った。
「じゃあ、帰ってきてね。毎日」
「……ノア」
「詳しいことは聞かない。聞いても私にはたぶんわからないし、手伝えないし。でも──毎日帰ってきて。それだけ約束して」
沙耶は頷いた。声が出なかった。頷くのが精一杯だった。
ノアは深呼吸をして、それから言った。
「今日、沙耶の家に行っていい?」
ノアが沙耶の部屋に入るのは初めてだった。
お母さんがいなくなって以来、誰かを家に上げたことがない。児童相談所の人が来たときは玄関で対応した。この部屋に入ったことがあるのは、沙耶とお母さんだけだ。
「お邪魔します」
ノアは靴を脱いで、リビングを見渡した。簡素な部屋。でも清潔に保たれている。テーブルの上に便箋と財布。
「きれいにしてるね」
「お母さんが、散らかすの嫌いだったから」
二人で夕食を作った。冷蔵庫にあった材料で、肉野菜炒めとみそ汁。大した料理ではない。ノアが野菜を切って、沙耶が炒めて、ノアがみそ汁を作った。
テーブルに二人分を並べる。
二人分。
沙耶は、その光景を見て少しだけ動けなくなった。一年間、このテーブルには一人分しか並ばなかった。お母さんがいた頃は二人分だった。同じ場所に、違う人の分が並んでいる。
「沙耶?」
「……ごめん。なんでもない」
「いただきます」と手を合わせて、食べた。
みそ汁はちょっと薄かった。ノアは「あ、味噌足りなかったかも」と笑った。お母さんのみそ汁は出汁がしっかり効いていた。全然違う味。でも──悪くなかった。
食べながら話した。好きなテレビ番組。苦手な先生。最近読んだ本。たいした話ではない。でも、たいした話ではない会話をこのテーブルですること自体が、沙耶にとっては一年ぶりのことだった。
「ねえ、明日のお弁当、私が作っていい?」
食器を洗っているとき、ノアがそう言った。
「え?」
「沙耶、いつも一人で作ってるでしょ。たまにはいいじゃない?」
沙耶は蛇口から流れる水を見つめた。お母さん以外に弁当を作ってもらったことがない。
「……いいの?」
「うん。任せてよ」
ノアは帰り際、玄関で振り返った。
「沙耶。今日、ありがとう」
「お礼を言うのは私の方だよ」
「ううん。私ね、弟が倒れてから、誰かの家で夜ご飯食べたの初めてだった。……楽しかった」
ノアの琥珀色の目が、玄関の薄暗い照明の下で光っている。
「沙耶がいなくなったら、私また一人で病院に行くことになる。……弟のことじゃなくて、沙耶がいなくなるのが、怖い」
声が震えていた。笑ってはいなかった。ノアが笑顔を作らなかったのは、沙耶が知る限り初めてだった。
「いなくならないよ」
「約束して」
「約束する。毎日、帰ってくる」
ノアは頷いて、「おやすみ」と言って帰っていった。
沙耶は玄関のドアを閉めて、しばらく動けなかった。
翌朝。
教室に着くと、机の上に紙袋が置いてあった。中身は弁当箱。メモが挟まっている。「卵焼き、塩加減わかんなかったからちょっと濃いかも」
隣の席を見ると、ノアはもう座っていた。いつもより早い。目が合うと「おはよ」と笑って、それ以上は何も言わなかった。午前中の授業も、いつも通り。弁当のことには一言も触れない。
昼休み。弁当箱を開けた。
ご飯。ウインナー。ブロッコリー。そして──卵焼き。
卵焼きの形はいびつだった。お母さんが作る卵焼きは長方形で均一で、切り口が綺麗な渦を巻いていた。ノアのは歪んでいて、焦げ目がまだらで、片方が少し潰れている。
一口食べた。
塩味が少し濃い。メモの通り。でも、ちゃんと温かい。温かい──いや、もう冷めているはずだ。朝作ったのだから。でも、温かかった。
お母さんの弁当を思い出した。何度も思い出してきた。ふりかけで「さ」の字を書いてくれたこと。崩れてほとんど読めなかったこと。
でも、これはお母さんの弁当じゃない。ノアの弁当だ。ノアの味がする。ノアが早起きして、ノアが切って焼いて詰めてくれた弁当。お母さんの不在を埋めるものではなく、ノアがここにいることの証。
窓際の席で、沙耶は唇を噛んだ。泣きそうだった。泣かなかった。でも、視界がぼやけて、しばらく箸が動かなかった。
隣でノアがちらちらとこちらを見ている気配がした。沙耶は「おいしい」と言った。それだけしか言えなかった。ノアは「よかった」と笑った。いつもの穏やかな笑顔。でも、少しだけ嬉しそうだった。
夜、沙耶はベッドに座って、ネックレスを握っていた。
紫の光がくすんだ銀のネックレス。お母さんの命の色。使えば薄くなる。戦えば減る。
でも、今日わかったことがある。
お母さんの遺したものの意味を知りたくて戦ってきた。ノアの弟を助けたくて戦ってきた。でもそれだけじゃない。
ノアが「帰ってきてね」と言ってくれる。その言葉に帰る場所がある。お母さんがいなくなってから、「おかえり」を言ってくれる人はいなかった。でも今は、「帰ってきてね」と言ってくれる人がいる。それは「おかえり」の予約みたいなものだ。
「お母さん。私は偽物かもしれない。魔法少女じゃない。ソウルジェムもない。お母さんみたいに強くもない」
ネックレスの紫は光らない。冷たい銀だけが残っている。
「でも、偽物にしかできないことがあるなら──私はそれをやる。守りたい人が、できたから」
窓の外に、星は見えない。でも明日の朝、教室に行けば、ノアがいる。「おはよ」と言ってくれる。
それだけで、夜の結界に行ける理由になった。