薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
第十二話 灰色
カナエに言われた「準備に一週間」の二日目の夜だった。
結界を一つ処理して帰宅した沙耶は、洗面所で手首の擦り傷を洗っているとき、窓の外に白い影を見つけた。電線の上。赤い目。
沙耶は窓を開けた。
「何か用?」
──用がなければ来ないよ。
キュゥべえは窓枠に飛び移り、いつもの場所に座った。赤い目が沙耶を見ている。感情のない、宝石のような目。
──あの地下の巣について、追加で調べたことがある。君にも共有しておくべきだと判断した。
「カナエさんにはもう話した?」
──彼女には彼女のルートで伝えてある。君に伝えるのは、ネックレスの持ち主として知っておくべき情報だからだ。
沙耶はベッドに腰を下ろした。ネックレスに触れる。紫の光がくすんでいる。ここ数日、少しだけ光が戻っていた。カナエにもらったグリーフシードと、自分で拾ったグリーフシードで修復した分。でも、お母さんの紫ではない。
「巣の中心にいるのが、半魔女だって聞いた」
──そうだよ。僕がこの街で確認した限り、あの存在は少なくとも十年以上前からあの地下にいる。
「十年……」
──灰谷駅の旧地下街が封鎖されたのは十二年前だ。封鎖の理由は再開発だとされているけど、実際にはその頃から地下に結界の兆候があった。当時の魔法少女が調査したが、危険すぎるとして封印に留めた。それが、少しずつ成長して今の巣になった。
沙耶は黙って聞いた。十二年前。沙耶がまだ五歳の頃。お母さんとこの街に引っ越してきたのも、ちょうどそのぐらいだった。
「半魔女って、元は魔法少女なんでしょ。……どういう存在なの」
──名前は記録に残っていない。わかっているのは、彼女が魔女になりきれなかったということだけだ。通常、魔法少女が絶望すればソウルジェムは完全に穢れて魔女になる。彼女の場合、途中で止まった。自我の一部が残っている。
「だからカナエさんが『半魔女』って呼んでるんだ」
──自我がある分、通常の魔女より遥かに厄介だ。意志を持って結界を操作できる。他の魔女を取り込んで力を増すこともできる。そして──特定の魔力を、感知して狙うことができる。
沙耶の手が、ネックレスを握った。
「私のネックレスを狙ってるのは、カナエさんから聞いた」
──そう。このネックレスに込められた魔力は、僕が知る限り最も特異なものだ。半魔女がなぜそれを求めているのか、正確にはわからない。ただ、彼女がそれに強く反応しているのは確かだよ。
「完全な魔女になったら、どうなるの」
──巣の結界が一気に拡大する。今は地下に留まっているけれど、覚醒すれば地上を覆うのに数日とかからないだろう。灰谷市全域が結界に呑まれる。中にいる人間は──
キュゥべえは言葉を切った。切ったのではなく、言う必要がないと判断したのだろう。沙耶にはわかった。結界に呑まれた人間がどうなるかは、ノアの弟を見ていればわかる。
「ノアの弟は、巣の影響で倒れたんだよね」
──そうだよ。巣の結界が地上に染み出し始めた最初の兆候が、半年前。あの少年はその影響を受けた最初の一般人だ。結界が完全に地上を覆えば、同じことが灰谷市の全住民に起こる。
沙耶は目を閉じた。
ノアの弟だけではない。灰谷市に住む全ての人が、あの病室のベッドの上のユウキと同じになる。目を覚まさない。原因不明の昏睡。
「……逆に、巣を壊せば、ユウキくんは目を覚ます?」
──可能性は高い。巣の結界が消滅すれば、影響下にあった人間も解放されるはずだ。
「はずだ、って」
──確証はないよ。前例がないからね。ただ、理論上はそうなる。
キュゥべえの声には、いつも通り感情がなかった。「前例がない」を、まるで天気予報の降水確率のように言う。
「もう一つ聞きたいことがある」
──なんだい。
「半魔女が私のネックレスを狙ってるなら……私がこの街で戦い続けてること自体が、巣を刺激してるってことだよね」
──その通りだよ。君がネックレスの力を使うたびに魔力の波動が出る。それが巣に届き、半魔女を刺激し、巣の成長を加速させている。
「じゃあ、私が戦わなければ、巣の成長は遅くなる?」
──多少は。でも止まりはしない。半魔女は君のネックレスがなくても成長を続けるよ。ただ、速度が遅くなるだけだ。そしてネックレスがこの街にある限り、半魔女はそれを求め続ける。
つまり、戦っても戦わなくても、巣は成長する。沙耶がこの街にいる限り、半魔女はネックレスの魔力を感知し続ける。
半魔女。大切なものを失って、魔女にもなりきれず、灰色の世界を広げ続ける存在。
沙耶はふと、考えてしまった。
お母さんを失った自分と、何が違うのだろう。
大切なものを失って、それでも死ねなくて、毎日を灰色に塗りつぶすように生きてきた。返事のない家に「ただいま」と言い続けて、帰ってこない人を待ち続けて。それは──灰色の世界を広げているのと、どう違う。
怖くなった。自分もいつか、ああなるのではないか。お母さんの不在に耐えられなくなって、偽物でもいいから何かで埋めようとして、気づいたら灰色の中にいる。
──違う。
沙耶は頭を振った。違う、と思いたかった。違うと信じたかった。でも、その確信は脆かった。
逃げるか、倒すか。二択。
「逃げたら、灰谷市はどうなるの」
聞くまでもなかった。さっきキュゥべえが言った。止まりはしない。逃げても巣は成長を続け、いずれ地上を覆う。カナエ一人では止められない。
逃げても、灰谷市は終わる。ノアの弟は目を覚まさない。カナエは一人で戦い続けて、いずれソウルジェムが限界を迎える。
沙耶は立ち上がった。
「逃げない」
──聞くまでもなかったね。
「聞いてないよ。私が言ってるの」
前にも同じことを言った気がした。キュゥべえに対して「聞いてない。私が言ってるの」と。あのときは、お母さんの遺したものの意味を自分で決めると宣言した。
今夜は、この街に残ると決めた。
──一つだけ忠告しておくよ。
キュゥべえが窓枠から電線に飛び移る前に、振り返った。赤い目が月明かりを受けて、一瞬だけ揺らいだように見えた。
──半魔女には自我がある。つまり、君に話しかけてくる可能性がある。巣の中で、彼女の言葉に耳を傾けないことだ。彼女は君の弱い部分を知っている。ネックレスの魔力を通じて、君のことを見ているからね。
「私のことを見ている……?」
──君がネックレスの力を使うたび、半魔女にも君の感情が伝わっている。何を恐れ、何を守りたいと思っているか。彼女はそれを使うよ。
キュゥべえは闇の中に消えた。
沙耶は窓を閉めた。
半魔女は、沙耶のことを知っている。ネックレスを通じて、沙耶の感情を読み取っている。何を恐れているか。何を守りたいか。
──お母さんのこと。ノアのこと。帰ってこない人を待ち続ける気持ち。
全部、見られている。
沙耶はネックレスを握った。紫の光がくすんでいる。お母さんの命の色。
お母さんの魔力がこのネックレスにある限り、半魔女は沙耶を狙う。沙耶が戦う限り、半魔女は刺激される。でも逃げたら、この街は終わる。
だから──巣に入って、半魔女を倒す。それしかない。
あと五日。カナエが言った「一週間」まで、あと五日。
沙耶は便箋を手に取った。三行の手紙。角の擦り切れた便箋。
──これがあれば大丈夫。
──あなたは強い子。
──愛してる。
大丈夫。お母さんがそう書いたのだから、大丈夫。
便箋を畳んで、テーブルに戻す。明日もノアが弁当を持ってきてくれる。明日もカナエが同じ学校の廊下を歩いている。
大丈夫。まだ、大丈夫。