薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
第十四話 潜入前夜
明日、巣に入る。
その事実が、朝から沙耶の胸の奥に鉛のように沈んでいた。
準備期間の七日目。カナエとの訓練は昨夜で終わった。三日間で盾の展開速度は何とか実用レベルになった。カナエの言葉を借りれば「死なない程度にはなった」。褒め言葉なのかどうかはわからない。
いつも通り朝起きて、手紙を読んで、ネックレスに触れて、「行ってきます」と言って家を出た。でも今日の「行ってきます」は、いつもと重さが違う。明日の夜、この家に帰ってこられるかどうかわからない。
学校に着くと、ノアが席にいた。いつものように「おはよ」と言ってくれる。いつものように隣に座る。いつもの朝。
でもノアは、沙耶の顔を見て一瞬だけ目を細めた。何か気づいたのだろう。沙耶が自分で思っているより、顔に出ていたのかもしれない。
午前中の授業。数学。英語。ノートを取っている手が、ときどき止まる。明日の夜のことを考えてしまう。巣の中。灰色の世界。半魔女。お母さんの魔力を狙うもの。
昼休み。ノアがいつものように隣で弁当を広げた。今日もノアが作ってくれた弁当。あの夜──ノアが沙耶の家に来て、一緒に夕食を作った夜以来、ノアは毎朝弁当を二つ作って、一つを沙耶の机に置いてくれている。
今日の弁当は、鶏の照り焼きとほうれん草のおひたし。卵焼き。ノアの卵焼きは最初よりずっと上手になっていた。形が整ってきて、焦げ目が均一になった。
「おいしい」
「よかった。照り焼きのタレ、ちょっと変えてみたんだよね」
いつもの会話。いつもの昼休み。
沙耶はその「いつも」を、今日は噛みしめるように感じていた。窓から差す光。ノアの栗色の髪。カーディガンの余った袖。おひたしの少し甘い味付け。全部、覚えておこうとしていた。
「沙耶」
「うん」
「今日、放課後ちょっと時間ある?」
「……うん。ある」
最後の「いつも」を、ちゃんと過ごしたかった。
放課後、二人は病院に向かった。
ノアの弟──ユウキの見舞い。前に来たのは一ヶ月ほど前のことだ。あの日、ネックレスが病室で反応した。あの反応が、全てを動かす最初の一歩だった。
病室は変わっていなかった。白いベッド。白い壁。規則正しい電子音。ユウキは同じ姿勢で眠っている。
ノアがベッド脇の椅子に座って、弟の手を握った。
「ユウキ、来たよ。沙耶も一緒」
返事はない。心電図のモニターだけが、変わらないリズムを刻んでいる。
沙耶は少し離れた場所に立っていた。ネックレスが、あのときと同じ一定の熱を帯びている。巣の影響がまだここに及んでいる。でも明日、巣を壊せば──この子は目を覚ますかもしれない。
ノアがユウキに話しかけている。学校であったこと。今日の弁当のこと。沙耶が照り焼きをおいしいと言ってくれたこと。返事のない弟に、普通の日常を報告している。
「あとね、沙耶がね──」
ノアの声が途切れた。
沙耶を見た。琥珀色の目。いつもの眠そうな目ではなかった。まっすぐで、澄んでいて、怖いくらい静かな目。
「沙耶。今日は、いつもと違うんでしょ」
沙耶は答えなかった。
「朝からずっと、周りを見てた。教室も、お弁当も、窓の外も。いつも見てるものを、いつもより長く見てた。……明日、何かあるんでしょ」
何も隠せない。ノアにはずっと何も隠せなかった。前の席から弁当の蓋を開ける沙耶を見ていたこの子には、最初から全部見えていた。
「……うん」
「弟のこと、繋がってるんだよね」
「うん。たぶん、助けられると思う。……たぶん、だけど」
ノアは弟の手を握ったまま、沙耶を見ていた。長い沈黙。病室の電子音だけが刻まれていく。
それから、ノアは立ち上がった。沙耶の前に来て、まっすぐ目を見た。
泣きそうな顔だった。唇が震えていた。でも──笑った。
「じゃあ、行ってきて」
あの日から毎日言ってくれた言葉と同じ。でも重さが違う。
「そのかわり──絶対帰ってきてね」
「帰ってきてね。毎日」ではなかった。「絶対帰ってきてね」だった。「毎日」が消えた。明日の一回に、全てがかかっている。
沙耶は頷いた。声が出なかった。ノアの目が潤んでいるのが見えた。でも涙は落ちなかった。ノアは泣かない。弟が倒れてからずっと泣かなかった。沙耶の前でも泣かない。それがノアの強さだった。
「約束する」
沙耶はそれだけ言った。
ノアは「うん」と頷いて、また弟の隣に座った。沙耶は病室を出た。廊下を歩いて、エレベーターに乗って、病院を出た。
夕暮れの灰谷市。空がオレンジから紫に変わっていく。
明日の今頃、自分はどこにいるだろう。巣の中か。それとも──
考えないことにした。帰る約束をした。約束は守る。
夜。自室。
沙耶はベッドに座って、ネックレスを首から外した。
外すのは風呂のときだけ、と決めていた。でも今夜だけ、手のひらに載せて見たかった。
紫の光がくすんでいる。グリーフシードで回復した分はあるが、最初のような鮮やかな紫はもうない。お母さんの魔力は薄まっている。明日、巣の中で使えば、さらに減る。全形態を使えば、もっと。
もしかしたら、明日で全部なくなるかもしれない。
お母さんの魔力が、ゼロになるかもしれない。
ネックレスはただの銀のアクセサリーになって、もう光らなくなる。温かくもならない。形も変わらない。
それは──お母さんが、本当にいなくなるということだ。
手紙はある。便箋はテーブルの上にある。でもネックレスの中の魔力──お母さんの命の欠片──は、一度なくなったら戻らない。
沙耶の目から、涙が一滴落ちた。ペンダントトップの銀の表面に落ちて、紫の光を揺らした。
「お母さん。明日、たくさん使うことになると思う」
ネックレスは答えない。
「……ごめんね」
声が震えた。ここで泣いたら止まらない気がした。だから一滴だけ。一滴だけ許して、あとは飲み込んだ。
ネックレスを首にかけ直す。ペンダントトップが鎖骨の下に触れる。冷たい銀。紫の光が弱々しく、ぼんやりと灯っている。
便箋を手に取った。もう何百回読んだかわからない。角がすり切れて、折り目が薄くなっている。
──これがあれば大丈夫。
──あなたは強い子。
──愛してる。
一行目。これがあれば大丈夫。ネックレスの力があれば、戦える。
二行目。あなたは強い子。──今日は、この行の意味を考えた。お母さんが「強い」と書いたのは、戦いの強さのことではないと思う。沙耶は弱い。カナエよりずっと弱い。魔法少女ですらない。でも、弱いまま立ち上がることができる。弱いまま前に出ることができる。お母さんが言った「強い」は、そういう意味ではないだろうか。
三行目。愛してる。──この行だけは、まだわからない。お母さんが沙耶を愛していたことは知っている。でも「愛してる」を手紙に書くということの重さが、まだ沙耶には掴みきれない。
便箋を畳んで、テーブルに戻す。
明日。
目を閉じる。ノアの声が耳に残っている。「絶対帰ってきてね」。
帰る。絶対に。
そして帰ってきたら、ノアに「ただいま」を言う。お母さんに言えなくなった「ただいま」を、ノアに言う。
沙耶は目を閉じた。眠れるかわからなかったが、身体は疲れていた。いつの間にか意識が遠のいて、夢も見ずに朝を迎えた。