薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
第十六話 声
半魔女の声を無視して、先に進んだ。
灰色の通路はさらに狭くなり、やがて一人がやっと通れる幅になった。カナエが先頭、沙耶がすぐ後ろ。壁の紫の筋が脈打つように光っている。ネックレスの熱が身体の芯まで伝わってくる。
四つ目のグリーフシードを使い切った。残り三つ。
「ペースを上げるわよ。立ち止まらないで」
カナエの声に緊張が混じっている。ソウルジェムの濁りが速くなっているのだろう。沙耶のネックレスにはソウルジェムの濁りがないが、代わりに魔力そのものが減っていく。巣の中にいるだけで、ネックレスの紫の光が薄くなっていくのがわかった。
狭い通路を抜けると、広い空間に出た。
天井が高い。見上げると、灰色の空がある──いや、空ではない。結界の天蓋。だがここまで来ると、灰色の世界に奥行きが生まれていた。遠くに灰色の建物のようなものが見える。街だった頃の記憶を結界が再現しているのかもしれない。
その広場の中央に、一本の木が立っていた。
灰色の木。葉も枝も幹も灰色。でも──紫の光がその根元に集まっていた。壁を走っていた紫の筋が、全てこの木に向かって収束している。
ネックレスが震えた。
熱ではなかった。今までの反応とは質が違う。もっと深いところから来る振動。心臓ではなく、骨が震えるような。
沙耶は木に近づいた。紫の光が強くなる。ネックレスのペンダントトップが明るく灯って──
──そして、声が聞こえた。
半魔女の声ではなかった。
もっと低くて、静かで、柔らかくて、冷たい。懐かしい声。
──杏子、食べすぎ。太りたいの?
沙耶は足を止めた。
お母さんの声だった。
間違えるはずがない。十六年間、毎日聞いていた声。少し低くて、言葉が少なくて、でも優しさが滲んでいる声。
「お母さん……?」
「どうしたの」
カナエが振り返った。沙耶が立ち止まっているのを見て、表情を引き締める。
「また半魔女?」
「違う。これは……お母さんの声」
カナエの灰色の目が僅かに揺れた。
「記憶よ。ネックレスの魔力がこの場所と共鳴して、中に残っている記憶が溢れ出している。──あなたの母親の記憶が」
母の記憶。ネックレスの中に、お母さんのソウルジェムの残滓と一緒に封じ込められていた記憶が、巣の魔力と共鳴して、今、溢れ出している。
──さやか、私の分もあげる。そんなに食べたいなら。
また聞こえた。別の場面。「さやか」という名前。知らない。お母さんの知り合い。お母さんが呆れたような、でも優しい声で笑っている。
そして──映像が来た。
目を閉じたわけではない。灰色の広場に立っているまま。でも、視界の奥に──もう一つの景色が透けて見えた。
黒い髪の少女が歩いている。制服姿。隣に、赤い髪の少女がいる。長い赤い髪をリボンで束ねて、大きな声で笑っている。黒い髪の少女──お母さんが、呆れたような、でも嫌そうではない顔をしている。
映像が切り替わる。
放課後の教室。金色の髪の少女がケーキの箱を開けている。「今日はシフォンケーキを焼いてきたの」。声が聞こえる。柔らかくて、丁寧な声。お母さんが「ありがとう」と短く言って、フォークを受け取っている。
また切り替わる。
夜の街。お母さんが左腕に盾を構え、右手に銃を握っている。三日月の下で、銃声が響く。遠くの結界が揺れる。赤い髪の少女がその隣で槍を振るっている。二人は背中合わせに立って、互いの死角を守っている。
また。
河原。青い髪の少女がギターを弾いている。下手だ。お母さんが「才能ないわね」と言う。「ひどっ!」と青い髪の少女が笑う。お母さんも──笑っている。口元が緩んで、目が細くなって、声には出さないけれど、確かに笑っている。
また。
桃色の髪の少女。柔らかい笑顔。「ほむらちゃん」と呼んでいる。お母さんの名前を、親しみを込めて。お母さんはその少女に対して、他の誰に対するよりも穏やかな顔をしていた。
五人。お母さんを含めて五人の少女たちが、一緒に過ごしている記憶。
教室で。放課後で。夜の街で。誰かの家で。河原で。屋上で。ケーキを食べて、喧嘩して、笑って、戦って、また笑って。
お母さんが笑っている。
沙耶が知らない笑顔だった。沙耶の前でお母さんが見せる微笑みは、いつも静かで、少しだけ寂しげだった。でもこの記憶の中のお母さんは──無防備で、楽しそうで、年相応の少女の顔をしていた。
「お母さんに、こんな顔ができたんだ……」
涙が出ていた。悲しいのではない。嬉しいのとも違う。知らなかった。お母さんにこんな時代があったことを、知らなかった。友達がいて、仲間がいて、一緒にケーキを食べて、笑い合える時間があった。
沙耶の隣にはノアがいる。カナエがいる。でもお母さんにも──お母さんにも、そういう人たちがいたのだ。
「沙耶」
カナエの声で、我に返った。
灰色の広場に立っている。目の前に灰色の木。紫の光。映像はもう消えていた。
「大丈夫?」
カナエが「大丈夫」と聞いたのは初めてだった。沙耶は頬の涙を手の甲で拭った。
「……うん。大丈夫。お母さんの記憶が、見えたの」
「何が見えた?」
「お母さんの──友達。四人いた。一緒に笑ってた」
カナエは何も言わなかった。しばらく沙耶の顔を見て、それからソウルジェムを確認した。
「記憶に引きずり込まれないで。巣の中では、何が仕掛けかわからない。半魔女が意図的にあなたの感情を揺さぶっている可能性もある」
「でも、これはお母さんの記憶だった。嘘じゃない」
「嘘じゃなくても、利用はできる」
カナエの声は冷たかった。でもそれは沙耶を突き放す冷たさではなく、守ろうとする冷たさだった。記憶に溺れたら戦えなくなる。戦えなくなったら死ぬ。だから冷たくする。カナエのやり方は、いつもそうだ。
「……わかった。進もう」
沙耶はネックレスを握った。紫の光はさっきより薄くなっている。記憶が流れ出た分、魔力が消費されたのかもしれない。
お母さんの記憶を見るたびに、お母さんの魔力が減る。知りたいと思えば思うほど、お母さんが消えていく。
残酷な仕組みだった。
灰色の木を後にして、二人は先に進んだ。通路は再び狭くなり、下り坂になっていく。もっと深い場所へ。巣の中心へ。
ネックレスの中で、まだ記憶の残り香が揺れていた。赤い髪の少女の笑い声。金色の髪の少女のケーキ。青い髪のギター。桃色の髪の「ほむらちゃん」。
そして──その全員の隣で、盾と銃を構えていたお母さんの背中。
お母さんは、こんなに多くの人に囲まれていた。
なのに──最後は一人で、沙耶にネックレスを遺して、消えた。
あの人たちは、どこに行ったのだろう。
沙耶はその問いを胸の中に留めて、灰色の世界をさらに深く降りていった。