薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
第十七話 消えていく
灰色の世界を、さらに降りていく。
通路は下り坂のまま続いていた。壁を走る紫の筋は太くなり、もう筋というよりも川のように流れている。ネックレスの熱は絶え間なく、沙耶の胸の奥で脈打ち続けている。
五つ目のグリーフシード。カナエのソウルジェムの濁りが速い。残り二つ。
使い魔の群れを二度退けた。灰色の人型。顔のない影。カナエが前衛、沙耶が盾で援護。訓練の成果は出ている。でも一戦ごとに消耗していく。カナエのソウルジェムも、沙耶のネックレスも。
広い空間に出た。
灰色の大広間。旧地下街の中央ホールだったのかもしれない。天井は吹き抜けで、灰色の空が広がっている。その空には──星のようなものが点在していた。灰色の星。光らない星。
そして、大広間の壁には──扉があった。灰色の扉が四つ。半円状に並んでいる。
ネックレスが震えた。四つの扉の全てに紫の光が走っている。
「記憶の部屋よ」
カナエが扉を見て言った。
「巣の構造がネックレスに反応して変化したのね。あなたの母親の記憶に対応した空間が形成されている」
沙耶は一番左の扉に手を触れた。紫の光が強まる。ネックレスが震える。扉が──開いた。
金色の世界だった。
いや、金色ではない。灰色の空間の中に、一箇所だけ色が残っている。それが金色だった。
部屋の中には、キッチンがあった。白いエプロンをかけた少女が、オーブンの前に立っている。金色の巻き髪。背が高く、姿勢がよく、指先まで丁寧な所作をしている。
オーブンの中にケーキが入っていた。膨らみかけたスポンジ。甘い匂い──いや、匂いは感じない。記憶だから。でも沙耶の脳が、その匂いを補完してしまう。
お母さんがキッチンに入ってきた。金色の髪の少女が振り返って、「もうすぐ焼けるわ」と微笑む。お母さんが頷く。二人でオーブンの前に並んで立つ。
映像が飛ぶ。
同じキッチン。同じオーブン。でも金色の髪の少女はいない。お母さんが一人で立っている。オーブンの中に、焼きかけのケーキが入ったまま。
お母さんの手が震えている。オーブンのガラス越しに、焼きかけのスポンジが見える。もう膨らまない。火は消えている。いつから消えていたのか。
お母さんはオーブンの前に立ち尽くしていた。背中が小さく見えた。黒い髪が揺れている。声は出していない。泣いてもいない。ただ、立っている。
沙耶は口を押さえた。声が漏れそうだった。
扉を閉じる。灰色の大広間に戻る。
二番目の扉。
青い世界。河原。青い髪の少女がギターを抱えている。さっきの記憶で見たのと同じ少女。不器用にコードを押さえて、弦を弾く。下手だ。でも楽しそうに弾いている。
映像が飛ぶ。
病室。青い髪の女性がベッドに横たわっている。手がソウルジェムを握っている。青い宝石。もう光がほとんど残っていない。
お母さんがベッドの横に座っている。
青い髪の女性が目を開けて、お母さんを見た。笑った。最後に、不器用に笑った。
「ごめんね。先に行くね」
そう言って──目を閉じた。ソウルジェムの光が消え、握っていた手から力が抜けた。胸の上下が止まった。笑顔のまま、動かなくなった。
お母さんは──椅子に座ったまま、動かなくなった女性の手を握り続けていた。
三番目の扉。
赤い世界。
開けた瞬間、お母さんの声が聞こえた。
「杏子──」
赤い髪の女性が倒れている。路地裏。戦闘の後。使い魔の残骸が散らばっている。赤い髪の女性は壁にもたれかかって、笑っている。口元に血がついていたが、笑っていた。
「大げさだよ、ほむら。ちょっと疲れただけ」
嘘だった。ソウルジェムの光が消えていた。濁っているのではない。輝きそのものがない。もう力が残っていない。二人とも、それを知っている。
お母さんが赤い髪の女性の手を握った。赤い髪の女性がお母さんの手を握り返した。
「悪いね。最後まで付き合わせて」
「……馬鹿。何言ってるの」
お母さんの声が震えていた。沙耶が聞いたことのない声だった。怒りと悲しみと、どうしようもない無力さが全部混ざった声。
赤い髪の女性はまだ笑っていた。
「ほむら。──楽しかったよ」
握っていた手から、力が消えた。
赤い髪の女性の目が閉じていく。笑顔のまま。ソウルジェムの光が消えて、握り返してくれていた指がゆっくりと開いた。もう動かない。
お母さんの手は、動かなくなった手を握り続けていた。離さなかった。
お母さんの口が動いた。声にならない声。名前を呼んでいる。もういない人の名前を。
沙耶は扉の前に崩れ落ちた。
泣いていた。いつから泣いていたかわからない。涙が止まらなかった。
「沙耶」
カナエの声がする。遠く聞こえる。
お母さんは、三人の仲間を失った。一人ずつ。一人ずつ目の前で倒れていくのを見た。ケーキを焼いてくれた人。ギターを弾いていた人。最後まで笑っていた人。
全員いなくなった。
それでもお母さんは生きていた。生きて、沙耶を拾って、育てて、ネックレスを遺して、消えた。
あの手紙の三行。あの短い手紙。何度も書き直して、三行になった手紙。お母さんはあの三行に、三人分の喪失を背負ったまま「愛してる」と書いたのだ。
沙耶はネックレスを握りしめた。紫の光はもうずいぶん薄くなっている。でも温かい。まだ温かい。お母さんが命を削って注ぎ込んだ魔力が、まだここにある。
「沙耶。立てる?」
カナエの声。冷たいが、力がある。沙耶は顔を上げた。
カナエが立っていた。灰色の大広間に、紺色の衣装が映えている。灰色の目が沙耶を見下ろしている。
「……四番目の扉は」
カナエが視線を動かした。四つ目の扉──一番右の扉。紫の光が最も濃い扉。
「あれを開けたら、もっと消耗する。わかってる?」
「わかってる」
沙耶は立ち上がった。膝が震えている。涙はまだ乾いていない。
でも、知らなきゃいけない。お母さんが最後に何を見て、何を思って、なぜ消えたのか。
四番目の扉に手をかけた。
ネックレスが、今までで一番強く──震えた。