薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ)   作:LongLong

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第四幕 第十八話『もっと一緒にいたかった』

第十八話 もっと一緒にいたかった

 

 四番目の扉を開けた。

 

 紫の世界だった。

 

 灰色ではない。他の扉の向こうはそれぞれの色を持っていたが、灰色の中に色が残っている、という形だった。ここは違う。灰色が一切ない。全てが紫の光に満ちている。

 

 お母さんの魔力そのものでできた空間。ネックレスの中に封じ込められた、最も深い記憶。

 

 沙耶は一歩踏み入れた。ネックレスが胸の上で灼けるように熱い。でも今は痛みを感じなかった。

 

 映像が流れ込んでくる。今までの断片とは違う。長い、連続した記憶。

 

 夜の路地裏。

 

 お母さんが一人で歩いていた。黒い髪が夜風に揺れている。左手の指輪──ソウルジェムは、もう半分以上が罅に覆われていた。足取りが重い。どこに向かっているのかもわからないような、行き先のない歩き方。

 

 泣き声が聞こえた。

 

 お母さんの足が止まった。

 

 路地の奥。ゴミ集積所の横。小さな女の子がうずくまっていた。白い髪。汚れた服。裸足。声を上げて泣いている。周りには誰もいない。

 

 お母さんは女の子を見つめた。数秒。長い数秒。

 

 それから──しゃがんだ。女の子の目線まで下りて、じっと見た。

 

 女の子が泣きやまない。お母さんは何も言わなかった。手を伸ばしもしなかった。ただ、同じ高さで、見ていた。

 

 やがて──女の子の方が、お母さんの服の裾を掴んだ。小さな指が、黒い布を握りしめた。

 

 お母さんの表情が、沙耶には見えなかった。背中しか映っていない。でも──お母さんの手がゆっくり伸びて、女の子の頭に触れた。白い髪の上に、冷たい手のひら。

 

 それだけだった。理由なんかなかった。助けようと思ったわけでも、何かの代わりにしようとしたわけでもなかった。泣いている子がいて、手が伸びた。それだけ。

 

 お母さんは女の子を抱き上げた。軽かった。小さかった。白い髪が黒い肩の上に広がった。

 

 あの子が──私だ。

 

 沙耶は記憶の中で、初めて自分自身を見た。お母さんに抱き上げられた、一歳にもならないかもしれない自分。泣きやんで、お母さんの肩に顔を埋めている。

 

 お母さんは女の子を抱いたまま、路地裏を歩き出した。行き先のなかった足が、今度はどこかへ向かっていた。

 

 映像が切り替わる。

 

 桃色の髪の女性が、お母さんの向かいに座っていた。

 

 二人の間にテーブルがある。喫茶店のようだった。窓の外は夕暮れ。桃色の髪の女性──この人はお母さんの記憶の中で「まどか」と呼ばれていた──の目が赤く腫れている。泣いた後。

 

 お母さんは紅茶のカップを両手で包んでいた。黒い髪が肩に流れている。顔は穏やかだったが、目の奥に疲労が沈んでいた。

 

 「ほむらちゃん……本当に、行っちゃうの」

 

 「この街にいる理由が、もうないの」

 

 お母さんの声。低くて、静かで、言葉が少ない。でも冷たくはない。

 

 テーブルの上に、まどかの鞄が置いてあった。椅子の背にはスーツのジャケットがかかっている。中学の制服を着ていた少女が、もうスーツを着ている。

 

 「杏子ちゃんが……杏子ちゃんがいなくなって、まだ……」

 

 「泣かないで、まどか」

 

 お母さんの手が伸びて、桃色の髪の女性の手に触れた。沙耶は息を呑んだ。お母さんが誰かの手に自分から触れるのを、記憶の中でも初めて見た。

 

 「あなたは魔法少女じゃないわ。今からなろうとしても、もうなれないでしょう。……だから生きていける。長く、普通に。それでいいの」

 

 「でも、ほむらちゃんは──」

 

 「私のことは心配しないで。……仕事、うまくいってるんでしょう」

 

 「そんなの今は──」

 

 「いいの。あなたがちゃんと生きてる。それだけで十分よ」

 

 お母さんは紅茶を一口飲んだ。それから、窓の外を見た。

 

 「一つだけ、頼みたいことがある」

 

 「……なに」

 

 「もしあの子を見つけたら……見守ってほしいの」

 

 「あの子……?」

 

 「拾った子よ。名前は沙耶。今は私と一緒に暮らしてるけど──私が先にいなくなるかもしれないから」

 

 沙耶の心臓が跳ねた。自分の名前。お母さんの口から、この人に。

 

 桃色の髪の女性は涙を拭って、少しだけ笑った。

 

 「ほむらちゃん、やっぱり優しいね」

 

 お母さんは何も言わなかった。目を逸らした。窓の外の夕暮れを見ている。

 

 桃色の髪の女性は、真っ直ぐお母さんを見た。

 

 「約束する。必ず」

 

 お母さんは微笑んだ。沙耶が知っている微笑み。静かで、少しだけ寂しげな。

 

 映像が切り替わる。

 

 夜。沙耶の家──今の沙耶が住んでいる、あの部屋。

 

 お母さんがダイニングテーブルに座っている。テーブルの上に紫の宝石のついた指輪──ソウルジェム。その横に、細い銀の鎖のネックレス。

 

 ソウルジェムには罅が入っていた。何本もの罅が、卵型の表面を蜘蛛の巣のように走っている。紫の光が罅の隙間から漏れ出している。

 

 お母さんはソウルジェムを手に取り、ネックレスに近づけた。

 

 紫の光がソウルジェムからネックレスに移っていく。糸を引くように。細く、ゆっくり、途切れそうになりながら。

 

 お母さんの顔が歪んだ。痛みを堪えている。ソウルジェムは魔法少女の魂そのもの。そこから魔力を抽出するのは、自分の血管から血を抜いているようなものだ。指先が白くなっている。歯を食いしばっている。呼吸が荒い。

 

 それでもお母さんは手を止めなかった。

 

 「……ランスは、迷わず進みなさい、という形」

 

 お母さんが呟いた。ネックレスに語りかけるように。

 

 「盾は、大切なものを守りなさい、という形」

 

 紫の光がネックレスの中に形を刻んでいく。沙耶には見えた。お母さんの魔力が、ネックレスの内部に「型」を作っているのが。ランスの型。盾の型。

 

 「それと──もう一つ。時間。どうしようもないときに、一度だけ」

 

 三つ目の型が刻まれる。沙耶がまだ知らない、三つ目の力。

 

 お母さんはソウルジェムをテーブルに戻した。罅がさらに増えている。紫の光は先ほどより弱くなっていた。命を削った分だけ、残り時間が減っている。

 

 「……それから」

 

 お母さんは目を閉じた。集中している。ネックレスの内部に、もう一つの仕組みを組み込んでいる。

 

 「あの子は、私のようにならなくていい」

 

 契約拒絶機構。キュゥべえとの契約を弾く仕組み。お母さんはそれを、最後に組み込んだ。

 

 お母さんの目が開く。疲労で顔色が悪い。でも、目だけは澄んでいた。

 

 ネックレスを手のひらに載せて、見つめている。銀の鎖。小さなペンダントトップ。紫の光を湛えている。自分の命の大部分を注ぎ込んだ、たった一つの遺しもの。

 

 お母さんは立ち上がって、沙耶の部屋に行った。

 

 沙耶が眠っていた。幼い沙耶。十五歳か、十六歳か。白い髪がベッドに広がっている。安心しきった寝顔。

 

 お母さんはベッドの横に座った。眠る沙耶の顔を見ている。白い髪を、そっと指で梳いた。櫛ではなく、指で。何度も何度も、同じ場所を、壊れものに触れるように。

 

 「……もっと一緒にいたかった」

 

 声が震えていた。喉に何かが詰まっているような、押し出すだけで精一杯の声。

 

 お母さんの頬を涙が一筋伝った。沙耶が知らない涙。お母さんが泣いているのを、沙耶は一度も見たことがなかった。十六年間。一度も。

 

 でもこの夜、お母さんは泣いていた。音を立てずに。涙だけが、止められない水のように頬を伝っていた。眠る沙耶の隣で。

 

 「もっと、あなたのご飯を作りたかった。もっと、あなたの髪を梳いてあげたかった。もっと──あなたの話を、聞きたかった」

 

 涙が落ちる。沙耶の白い髪の上に。

 

 「ごめんね」

 

 お母さんはそう言って、立ち上がった。テーブルに戻り、便箋を取り出し、ペンを持った。

 

 何度も書いては消し、書いては消した。沙耶は知っていた。あの便箋の角が擦り切れていたのは、何度も読み返したからだけではない。何度も書き直したからだ。

 

 最後に残ったのは、三行だった。

 

 ──これがあれば大丈夫。

 ──あなたは強い子。

 ──愛してる。

 

 お母さんはペンを置いた。便箋を畳んで、ネックレスの横に並べた。

 

 その手が──止まった。

 

 お母さんは窓の外を見た。沙耶は知っている。お母さんが夜中に窓の外をじっと見ていたことを。あれは──これだったのだ。

 

 ソウルジェムの罅から魔力が漏れ出している。それに引き寄せられた魔女が、家のすぐ近くに結界を展開した。

 

 結界の影響が部屋にまで及んでいる。壁が揺れ、空間が軋む。このままでは眠っている沙耶が結界に呑まれる。

 

 お母さんは沙耶を抱き上げて、結界の影響が及ばない玄関まで運んだ。沙耶はまだ眠っている。玄関先に静かに寝かせて、毛布をかけた。

 

 そしてお母さんは──一人で、結界に入った。

 

 罅だらけのソウルジェム。変身しようとした。でも──できなかった。変身に必要な魔力すら、もう残っていない。ネックレスに移し替えたから。

 

 結界の中。黒い、影のような魔女が待っている。小さいが、素早い。

 

 お母さんは素手だった。武器もない。変身もできない。ただ、ソウルジェムの最後の一欠片だけが残っている。

 

 魔女が襲いかかる。

 

 紫の光が──最後の一欠片が──お母さんの身体を包んだ。変身ではない。もっと原始的な、魔力の放出。命そのものを燃やす光。

 

 一瞬の閃光。

 

 魔女が消えた。結界が崩壊を始める。

 

 そしてお母さんのソウルジェムが──砕けた。

 

 お母さんは崩壊する結界の中に立っていた。もう動けない。結界が消えれば、中にいるものも現実世界には戻れない。魔女の結界とはそういうものだ。

 

 お母さんは空を見上げた。結界の天蓋が剥がれ、その隙間から──朝焼けが覗いていた。赤と橙と紫が混ざり合った空。お母さんの紫と、同じ色が空にあった。

 

 お母さんの唇が動いた。声は出なかったかもしれない。でも沙耶には、読めた。

 

 ──おはよう。

 

 それは沙耶に向けた言葉だった。毎朝、沙耶が居間に出ていくと「おはよう」と短く言ってくれた。あの声と同じ口の動き。最後の最後に、お母さんが選んだ言葉は、おはよう、だった。

 

 結界が崩壊した。お母さんの姿は消えた。遺体は残らなかった。

 

 玄関先で眠っていた沙耶が目を覚ましたとき、家の中にお母さんはいなかった。テーブルの上に、便箋とネックレスだけが残っていた。

 

 記憶が終わった。

 

 紫の世界が薄れていく。灰色の大広間に戻る。四番目の扉が閉じる。

 

 沙耶は立っていられなかった。膝が折れて、灰色の床に崩れ落ちた。

 

 お母さんは失踪したのではなかった。

 

 帰ってくる可能性など、最初からなかった。

 

 一年間待ち続けた。毎朝「行ってきます」と言って、毎夜「ただいま」と言って、いつか帰ってくると信じて。靴箱の中のお母さんの靴を見るたびに、「まだ帰ってきていない」と確認して。便箋を何百回も読み返して。

 

 全部、無意味だった。お母さんは──もう、この世にいない。

 

 知っていたはずだった。心のどこかでは。靴が一年間動かないこと。手紙が「愛してる」で終わっていること。それは「また会えるね」ではなく「さようなら」だったのだと、気づかないふりをしていただけだった。

 

 声が出た。

 

 声と呼べるものではなかった。喉の奥から押し出された、形のない音。それが泣き声になった。嗚咽になった。銀のネックレスを握りしめて、灰色の床の上で、沙耶は声を上げて泣いた。

 

 お母さん。

 

 お母さん。

 

 帰ってきて。嘘でもいいから。一回だけでいいから。

 

 「ただいま」って言わせて。

 

 カナエが横に立っていた。何も言わなかった。手を差し伸べもしなかった。ただ立って、沙耶が泣くのを見ていた。視線だけは、一度も逸らさなかった。

 

 泣いた。

 

 灰色の世界の底で、声が枯れるまで、泣いた。

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