薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ)   作:LongLong

2 / 28
第一幕 第一話『遺しもの』

 お母さんは、いつか帰ってくる。そう信じていなければ、たぶん私は、今日も明日も生きていけない。

 

 目覚まし時計が鳴る前に、沙耶は目を覚ました。

 

 大きくはないが清潔な部屋に朝日が差し込んでいる。カーテンの隙間から漏れた光が、フローリングの上に一本の線を引いていた。ベッドの中で目だけを動かし、その光の線をしばらく眺める。

 

 六時十二分。アラームが鳴るまで、あと十八分。

 

 起き上がる理由を探すのに、少しだけ時間がかかった。

 

 暁美沙耶は、もう一年以上こうして朝を迎えている。隣の部屋に人の気配はなく、キッチンから味噌汁の匂いがすることもない。かつてこの家には二人分の朝があった。お母さんが先に起きて、沙耶が居間に出ていくと「おはよう」と短く言ってくれた。それだけで、一日が始まる理由になった。

 

 アラームが鳴った。沙耶は手を伸ばして止め、ベッドから足を下ろす。

 

 洗面所の鏡に映る自分の顔を見るのは、あまり好きではない。白い髪が肩を越えて背中に流れている。日本人離れした──というより、人間離れした白さ。瞳は黒。深い、底の見えない黒。お母さんの紫がかった瞳とは違う。お母さんの方がずっと綺麗だった。

 

 顔を洗い、髪を梳かして、制服に着替える。首元に手をやると、銀のネックレスが指先に触れた。昨夜もかけたまま眠った。ペンダントトップの中心に淡い紫の光が灯っていて、体温を吸ってほんのりと温かい。

 

 リビングに出ると、ダイニングテーブルの上に折り畳まれた便箋と財布が置いてある。

 

 便箋の角は擦り切れていた。何十回、何百回と開いて、読んで、また畳んだ跡。沙耶は今朝も便箋を開く。三行だけの、お母さんの字。

 

 ──これがあれば大丈夫。

 ──あなたは強い子。

 ──愛してる。

 

 筆圧が均一なのは、何度も書き直したからだろう、と沙耶は思っている。お母さんは字が綺麗だった。でもこの手紙は、綺麗というよりも丁寧だ。一画一画に時間をかけたような、そういう丁寧さ。

 

 「……うん」

 

 誰に返事をするわけでもなく小さく頷いて、沙耶は便箋を畳み直す。

 

 お母さんが残した、たった二つの遺しもの。手紙と、このネックレス。ネックレスは外さない。外すのは風呂に入るときだけだ。

 

 冷蔵庫を開ける。牛乳のパック、卵、作り置きのおかずが入ったタッパー。全部自分で買って、自分で作ったもの。お母さんの料理には及ばないけれど、死にはしない程度のものは作れるようになった。

 

 食パンをトースターに入れ、卵を焼く。一人分の朝食。この一年で完全に手に馴染んだ動作だった。慣れるべきではなかった、と思うこともある。慣れてしまうと、お母さんが帰ってきたときに二人分の朝食を思い出せなくなりそうで。

 

 食べ終えて、皿を洗って、歯を磨いて、鞄を持つ。玄関のドアを開ける前に振り返る。

 

 誰もいないリビング。テーブルの上の便箋。

 

 「行ってきます」

 

 返事はない。一年前からずっと、返事はない。

 

 灰谷高校までは、徒歩で二十分ほど。住宅街を抜けて、商店街を横切って、坂を上がる。春の終わりの空気は少し湿っていて、髪が重くなる。

 

 商店街の八百屋の軒先にトマトの赤が並んでいる。花屋の店頭では黄色いガーベラが朝日を浴びている。信号が青に変わる。横断歩道の白いラインを踏んで渡る。灰谷市の朝は、いつも色に溢れている。見慣れた色。当たり前にそこにある色。

 

 通学路を歩いていると、視線を感じることがある。

 

 白い髪は目立つ。それも、染めたわけではない自然の白髪は余計に。すれ違う人が二度見をする。同じ学校の生徒がひそひそ声で何か言う。

 

 「──あの子、暁美さんでしょ」

 「なんかさ、やっぱり変だよね。あの髪」

 「目も怖くない? 黒すぎて」

 

 聞こえている。聞こえているけれど、沙耶は歩調を変えない。

 

 気にしていないわけではない。でも、気にするだけの余裕が沙耶にはなかった。沙耶の頭の中にはいつも、お母さんのことがある。いつ帰ってくるのか。どこに行ったのか。なぜいなくなったのか。その三つの問いが、起きている時間のほとんどを占めている。クラスメイトの陰口が入り込む隙間は、ほとんど残っていなかった。

 

 教室に入る。自分の席は窓際の一番後ろ。隣の席は空いている。

 

 鞄を置いて、椅子に座る。窓の外を見る。校庭の桜はもう散っていて、葉桜が風に揺れている。お母さんがいなくなったのは、去年のちょうど今頃だった。桜が散って、葉桜になって、そして夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春が来た。一周した。お母さんは帰ってこなかった。

 

 授業が始まる。ノートを開いて、板書を写す。数学。二次関数。手は動いているが、頭の半分は別のことを考えている。

 

 お母さんは、何も持たずに出ていった。財布も、服も、靴も、全部残っていた。持っていったものは何もない。──いや、一つだけあった。お母さんがいつも左手の中指にはめていた、紫色の宝石のついた指輪。あれだけが見当たらなかった。

 

 沙耶は警察にも届けた。学校にも相談した。でも手がかりはなく、捜索は形だけのものになり、やがて誰も探さなくなった。親戚はいない。身寄りはない。児童相談所の人が何度か来たが、沙耶が一人で生活できていることを確認すると、来なくなった。お母さんの口座に残っていたお金は、高校を卒業するまでは持つ計算だった。

 

 誰かに「お母さんは死んだのかもしれない」と言われたことがある。担任だったか、相談員だったか。沙耶は首を振った。死んでいない。だって、遺体がない。遺書もない。あるのは三行の手紙とネックレスだけで、それは遺書ではなく──お母さんがまた会えると思って書いたものだと、沙耶は信じていた。

 

 信じるしかなかった。

 

 昼休み。沙耶は教室で一人、持参した弁当を食べる。卵焼きとウインナーと、昨夜の残りのきんぴら。お母さんが作る弁当はもっと品数が多くて、彩りも良かった。白いご飯の上に、ふりかけで沙耶の頭文字を書いてくれたことがあった。「さ」の字は崩れてほとんど読めなかったけれど。

 

 そういう些細なことばかり、思い出す。

 

 午後の授業。英語、古典、化学。沙耶の成績は悪くない。お母さんが勉強を見てくれていたおかげだ。お母さん自身はあまり多くを語らなかったが、どんな教科を質問しても即答できた。数学も、理科も、英語も。ときどき、高校の範囲を超えたことまで教えてくれた。「これは知っておいた方がいい」と言って。まるで、自分がいなくなった後のことを見据えていたみたいに。

 

 ──そんなわけ、ないけど。

 

 放課後、沙耶は真っ直ぐ帰路につく。部活には入っていない。寄り道もしない。

 

 帰宅して、鍵を開けて、「ただいま」と言う。

 

 靴を揃える。お母さんの靴は下駄箱の中にある。一年前からずっと、同じ場所に。

 

 リビングに入って、鞄を置いて、制服を着替える。夕食の支度をして、一人で食べて、食器を洗って、宿題をする。テレビはつけない。お母さんもテレビをあまり見ない人だった。二人で過ごす夜は、だいたい静かだった。お母さんは本を読んでいて、沙耶は宿題をしていて、ときどきどちらかがお茶を淹れた。何でもない夜だった。でも、それが全部だった。

 

 風呂に入り、髪を乾かす。ドライヤーの温風が白い髪を揺らす。長い。お母さんの髪も長かった。背中の真ん中あたりまで、真っ直ぐに流れていた。真っ直ぐな黒い髪。沙耶の白い髪とは正反対の色。この髪の色がどこから来たのか、沙耶は知らない。物心がついたときにはもうお母さんがいて、それ以前のことは何も覚えていない。

 

 小さい頃、お母さんに髪を梳かしてもらっていた。風呂上がりに沙耶がリビングの床に座って、お母さんが後ろからゆっくりと櫛を通してくれた。お母さんの手は少し冷たくて、でも丁寧だった。「じっとしてて」と短く言うだけで、それ以上は何も喋らなかった。櫛の音と、お母さんの呼吸だけが聞こえる時間。あれが好きだった。

 

 今は一人で梳かす。後ろ側がいつもうまくいかない。

 

 ベッドに入る。枕元のスマートフォンを確認する。着信履歴はない。メッセージもない。

 

 布団の中で、ペンダントトップを指で挟む。銀の表面は滑らかで、小さな傷一つない。中心で紫の光が微かに脈打っている。お母さんがいつ、どこでこれを用意したのかもわからない。ただ、あの朝、手紙と一緒に残されていた。

 

 首にかけていると安心する。しばらく触っていると、紫の光が温かくなる。それが、お母さんの体温みたいに感じられて。

 

 ふと、思い出す。お母さんは夜中に、ときどき窓の外をじっと見ていた。沙耶が寝たふりをして薄目を開けると、お母さんはリビングの窓際に立って、外の暗闇を見つめていた。何を見ていたのだろう。何かを探していたのか。何かを警戒していたのか。聞いたことはない。翌朝になれば、いつも通りのお母さんに戻っていたから。

 

 「お母さん」

 

 暗い部屋で、小さく呼ぶ。返事はない。

 

 目を閉じる。明日も朝が来る。明日も手紙を読んで、「行ってきます」と言って、返事のない家を出る。そして帰ってきて、「ただいま」と言って、返事のない家に入る。

 

 それを繰り返す。お母さんが帰ってくるまで。

 

 いつか必ず帰ってくると信じて──暁美沙耶は、今日も一人で眠りについた。




翌日、隣の席に誰かが座った。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。