薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
第十九話 立ち上がる
どのくらい泣いたのかわからない。
灰色の床が涙で濡れていた。膝をついた姿勢のまま、顔を上げられない。手はネックレスを握りしめている。銀のペンダントは、沙耶の体温を吸ってほんのりと温かかった。でもそれはもう、お母さんの温もりではない。沙耶自身の熱でしかない。
──お母さんはもういない。
この一年間、沙耶を支えていた柱が折れた。
「いつか帰ってくる」。毎朝起きるたびに、それだけを信じて生きてきた。テーブルの便箋を読んで、ネックレスに触れて、「行ってきます」と言う。帰ってきて、「ただいま」と言う。返事がなくても、いつか返事がある日が来ると信じていた。
嘘だった。
──いや。
沙耶は目を閉じたまま、思い直した。
嘘ではない。
お母さんは嘘をついていない。手紙にも、どこにも、「帰ってくる」とは書いていなかった。「待っていて」とも書いていなかった。
三行。たった三行。
──これがあれば大丈夫。
──あなたは強い子。
──愛してる。
「帰る」とは、一言も書いていない。
沙耶が勝手に、帰ってくると信じたのだ。帰ってきてほしいと願っていたから、手紙の行間にそれを読み込んだ。でもお母さんは──最初から、帰れないとわかっていた。結界の中に入ったら出られないことを知っていた。
知っていて、沙耶を結界の外に出して、一人で入った。
あの夜のことを思い出す。沙耶は玄関先で目を覚ました。毛布がかかっていた。家の中に入ると、お母さんはいなかった。テーブルの上に便箋とネックレス。
毛布をかけてくれたのは、お母さんだ。結界に入る前に、沙耶を運んで、毛布をかけて。そして手紙とネックレスを用意して──いや、手紙はその前の夜に書いたのだ。何度も書き直して。ネックレスも、その前に作っていた。全部、準備していた。
お母さんは、あの夜が最後だとわかっていた。
「……ずるいよ、お母さん」
声が掠れていた。泣きすぎて、喉が焼けたように痛い。
全部準備して、全部用意して、何も言わずに消えた。「もっと一緒にいたかった」と泣いたのに。沙耶に聞かせなかった。一人で泣いて、一人で決めて、一人で逝った。
──でも。
沙耶はネックレスを見下ろした。紫の光がくすんでいる。記憶が流れ出した分、さらに薄くなっている。
お母さんがこれを作ったのは、沙耶のためだ。命を削って。残り時間を削って。「もっと一緒にいたかった」のに、一緒にいる時間を犠牲にして、ネックレスに魔力を注いだ。
なぜ。
答えは、あの記憶の中にあった。
「ランスは、迷わず進みなさい」。沙耶が前を向けるように。
「盾は、大切なものを守りなさい」。沙耶が誰かを守れるように。
「時間。どうしようもないときに、一度だけ」。沙耶にはまだ、その意味がわからなかった。でもお母さんがそう言って刻んだのなら、いつか必要になるときが来る。
そして──「あの子は、私のようにならなくていい」。魔法少女にならなくても生きていけるように。戦うことを選ぶ必要がないように。でも、もし戦うことを選ぶなら、その手段を。
お母さんは沙耶を縛らなかった。「戦え」とも「戦うな」とも書かなかった。ネックレスを遺して、手紙を三行書いて、あとは沙耶に委ねた。
信じたのだ。沙耶が自分で決められると。
「あなたは強い子」。
二行目の意味が、今わかった。お母さんが言った「強い」は、魔法の強さでも、戦闘の強さでもない。自分で決めて、自分で立てる強さ。何を選んでも、何を失っても、そこから立ち上がれる強さ。
お母さんは信じてくれていた。沙耶がそういう子だと。
「……お母さん」
涙はもう枯れていた。目が腫れて、視界がぼやけている。でも、胸の奥にあった空洞が、少しだけ──本当に少しだけ──形を変えた。空洞は消えない。お母さんがいない穴は埋まらない。でもその穴の底に、何かが光っている。
ネックレス。お母さんが命を削って作った、銀のネックレス。
三行目。
──愛してる。
お母さんが手紙にこの三文字を書いたとき、何を思っていたのだろう。三人の仲間を看取って。ソウルジェムに罅が入って。もう長くないとわかっていて。それでも、最後に書いた言葉が「愛してる」だった。
それは遺言ではなかった。
遺言なら、もっと長い手紙を書くはずだ。説明を書くはずだ。ネックレスの使い方を。魔法少女のことを。魔女のことを。何も書かなかった。三行だけ。
「これがあれば大丈夫」──道具を遺した。
「あなたは強い子」──信頼を遺した。
「愛してる」──これは、何を遺したのだろう。
沙耶は考えた。泣き腫らした目で、灰色の世界の底で。
「愛してる」は、何も遺していないのかもしれない。道具でも、信頼でも、教訓でもない。ただ、お母さんが沙耶に伝えたかったこと。十六年間一緒にいて、一度も言葉にしなかったこと。最後の最後に、手紙に書いたこと。
それだけで──十分だった。
沙耶はゆっくりと顔を上げた。
カナエが立っていた。同じ場所に。ずっと。何も言わず、視線を逸らさず、沙耶が泣くのを──そして泣き止むのを──見ていた。
沙耶はカナエの目を見た。灰色の目。冷たくはなかった。
「……カナエさん。グリーフシード、あと何個」
「二つ」
「時間は」
「三十分もない」
「足りる?」
「さあ。行ってみないとわからないわよ」
カナエの声は平坦だった。でもその平坦さの奥に、微かな──本当に微かな何かがあった。期待、ではない。信頼に近いもの。「この子は立ち上がる」と知っている人間の静かさ。
沙耶は立ち上がった。
膝が震えていた。目は腫れている。声はまだ掠れている。身体のあちこちが痛い。ネックレスの紫はさらに薄くなっている。
でも、立っている。
「行く。お母さんがくれたものを、最後まで使い切る」
カナエは何も言わなかった。ただ、剣を構え直した。それが答えだった。
二人は歩き出した。灰色の世界の最も深い場所へ。半魔女が待つ場所へ。
ネックレスが微かに温かかった。お母さんの温もりではない。沙耶自身の温もりが、銀の金属に移っているだけだ。
でも──それでいい。
お母さんの魔力はもうすぐ尽きる。ネックレスはただの銀のアクセサリーに戻る。それでも、三行の手紙は残る。「愛してる」は消えない。
ネックレスの力が尽きても、お母さんが沙耶を愛していたことは変わらない。
だから、使い切る。最後の一滴まで。お母さんがくれたもの全部を、ここで全部使う。
惜しまない。もう惜しまない。
沙耶は前を向いた。灰色の通路の先に、色のない光がある。半魔女が待っている。
行こう。