薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
第二十話 お母さんに会わせてあげる
通路が途切れた。
その先に、空間が広がっていた。巣の最深部。灰色の──いや、もはや灰色ですらない。色という概念そのものが消えた世界。白でも黒でもない。目に映るものの全てから、意味が剥がれ落ちている。見ているのに、何も見えていないような感覚。目は開いているのに、風景が脳に届かない。
天井がなかった。見上げると、どこまでも続く虚空。地面はあるが、足元の感触が曖昧で、立っているのか浮いているのかわからない。
カナエが六つ目のグリーフシードを使った。残り一つ。ソウルジェムの紺色が、浄化してもすぐに濁り始める。ここでは時間が加速しているのかもしれない。
「いるわ」
カナエが剣を構えた。沙耶もネックレスを握る。
最深部の中央に──何かがいた。
少女だった。
灰色の髪。灰色の肌。灰色の目。灰色のワンピース。年齢は沙耶と同じくらいか、もう少し下か。小柄で、痩せていて、裸足。
でも「少女」と呼ぶには、何かが決定的に欠けていた。輪郭が揺れている。身体の端が常にほどけかけていて、灰色の粒子が肩や指先から零れ落ちては、空間に溶けている。人の形を保っているのがやっとだという印象。
半魔女。
灰色の少女が、沙耶を見た。
目が合った瞬間、ネックレスが激しく震えた。今までのどの反応よりも強い。身体の奥底から引きずり出されるような感覚。半魔女がネックレスの魔力を引き寄せている。
「……来てくれたんだ」
声が聞こえた。半魔女の声。甘くて、柔らかくて、少し寂しげな声。巣に入ったとき聞いた「おいで」の声と同じ。でもこうして目の前で聞くと、もっと──人間の声に近かった。
「ずっと待ってたの。あなたのその光。紫の、温かい光。ずっとずっと、ここから感じてた」
半魔女が一歩、近づいた。カナエが剣を向ける。半魔女はカナエを見なかった。沙耶だけを見ていた。
「あなたも、失くしたんでしょう? 大切な人を」
沙耶は答えなかった。ネックレスを握る手に力を込めた。
「わかるよ。あなたのこと、ずっと見てたから。ネックレスを通じて。あなたが泣いたことも、戦ったことも、怖かったことも。全部」
キュゥべえが言っていた通りだった。半魔女はネックレスの魔力を通じて沙耶の感情を読み取っていた。何を恐れ、何を守りたいか。全部知っている。
「お母さんのこと、愛してるんだよね」
沙耶の心臓が跳ねた。
「会いたいよね。もう一度」
半魔女が手を差し伸べた。灰色の手。指先から粒子が零れている。その手のひらの上に、何かが浮かんでいた。
紫の光。小さな、淡い光。
それはネックレスの中にある光と同じ色をしていた。お母さんの魔力の色。
「そのネックレスをちょうだい。お母さんの魔力を私にくれたら──私はあなたのお母さんを再現できるよ」
沙耶の足が止まった。
「記憶も、声も、温もりも。全部。あなたの知ってるお母さんを、そのまま作れる。もう一度会えるよ。もう一度、名前を呼んでもらえるよ。もう一度──」
半魔女の声が、甘く、深く、沙耶の奥に沈んでいく。
「──抱きしめてもらえるよ」
沙耶の手が震えた。
会いたい。
それは嘘ではなかった。今さっき、母の記憶を全て見た。お母さんの仲間たち。お母さんの涙。お母さんの「もっと一緒にいたかった」。全部見た上で、まだ──会いたい。胸の奥が軋んでいる。身体がネックレスを差し出そうとしている。頭ではなく、身体が。
お母さんに「ただいま」と言いたい。「おかえり」と返してほしい。髪を梳いてほしい。弁当を見て「きんぴらが多すぎた」と笑ってほしい。朝、あの低い声で「おはよう」と言ってほしい。一回だけでいい。もう一回だけでいい。
ネックレスを渡せば、それが叶う。半魔女はそう言っている。
「たった一つのネックレスと引き換えに、お母さんが戻ってくるの。悪い取引じゃないでしょう?」
半魔女がもう一歩、近づいた。灰色の手が沙耶の胸元に──ネックレスに──伸びてくる。
カナエが動こうとした。でも沙耶が左手を上げて、止めた。
「……待って。カナエさん」
「沙耶──」
「大丈夫。自分で答える」
カナエは剣を構えたまま動きを止めた。灰色の目が沙耶を見ている。
長い沈黙。
灰色の世界に、沙耶の呼吸だけが響いている。半魔女の手が、ネックレスの数センチ手前で止まっている。灰色の指先から零れる粒子が、ネックレスの銀に触れそうで触れない。
沙耶の右手がネックレスを握っている。指が白い。爪が食い込んでいる。離したくない。でも──渡したい自分がいる。渡して、偽物でもいいからお母さんの声を聞きたい自分が、確かにいる。
沙耶は目を閉じた。
お母さんの顔を思い出す。黒い髪。静かな微笑み。少しだけ低い声。朝、「おはよう」と言ってくれた声。夜、隣で本を読んでいた横顔。
──そして、あの記憶。何度も便箋を書き直して、三行にした夜。泣きながら沙耶の髪を梳いた夜。「もっと一緒にいたかった」と言った夜。
お母さんは「また会える」と書かなかった。
帰ると書かなかった。待っていてと書かなかった。偽物のお母さんを作ってもらえと書かなかった。
三行だけ書いた。「これがあれば大丈夫」「あなたは強い子」「愛してる」。
それだけで十分だと信じて、消えた。
沙耶は目を開けた。
「お母さんは、偽物を望まない人だった」
半魔女の灰色の目が、僅かに揺れた。
「お母さんは嘘が嫌いだった。ごまかしが嫌いだった。だから手紙も三行しか書かなかった。余計なことを書かなかった。本当のことだけを、三行で」
沙耶はネックレスを握った。紫の光がくすんでいる。薄くなった紫。でも、まだここにある。
「お母さんが命を削って私にくれたものを──偽物と取引するわけないでしょ」
半魔女の手を、払いのけた。
紫の光が弾けた。ネックレスから放たれた光が、半魔女の灰色の手を弾いて、距離を作った。
半魔女が後退した。灰色の顔に、初めて感情が浮かんだ。驚きではない。悲しみ。
「……どうして。お母さんに会えるのに」
「会えない。あなたが作るのはお母さんじゃない。お母さんの形をした別の何か。お母さんは──もういないの。それは変わらない」
声が震えた。でも言い切った。
言い切った瞬間、胸の奥で何かが割れた。「お母さんに会えるかもしれない」という、最後の希望の欠片。それを自分の手で割った。もう二度と拾えない。
お母さんはもういない。その事実を、ようやく、声に出して言えた。
半魔女の灰色の目から、何かが零れた。涙ではなかった。灰色の粒子が目元から流れ落ちていく。泣いているのだと思った。色のない涙で。
「わたしも……会いたかっただけなの。失くしたものに。もう一度」
半魔女の声が震えていた。少女の声。誰かを失った少女の声。
「おねえちゃんが……いなくなっちゃったの。わたし、ひとりになっちゃったの」
半魔女の灰色の手が、自分の胸を押さえた。
「でもね、あなたのネックレスの力があれば……戻れるかもしれないの。おねえちゃんがいた頃に。あの頃に。全部、やり直せるかもしれないの」
沙耶の胸が痛んだ。姉を失った少女。ノアとユウキが頭をよぎった。もしユウキがあのまま目覚めなかったら、ノアは──。
同じだった。沙耶と同じ。大切なものを失って、取り戻したくて、でも取り戻せなくて。灰色に塗りつぶすしかなかった少女。ネックレスの中の「時間」の力に、最後の希望を見た少女。沙耶がほんの少し道を違えていたら、ここにいたのは自分だったかもしれない。
でも──
「それでも、偽物じゃだめなの。本物じゃないと、意味がないの」
半魔女の顔が歪んだ。悲しみが怒りに変わっていく。
「……くれないなら、奪うよ」
空間が震えた。半魔女の身体が膨張し始める。少女の姿が崩れ、灰色の粒子が渦を巻いて広がっていく。天蓋のない空が灰色の渦に飲まれる。地面が割れる。壁が崩れる。
結界全体が、半魔女の怒りで揺れていた。
カナエが沙耶の横に立った。剣を構えている。最後のグリーフシードでソウルジェムを浄化した。残りゼロ。もう後がない。
「よく言ったわ」
カナエが言った。短く。声が小さかった。でも沙耶は聞き逃さなかった。それは今まで聞いたカナエの声の中で、一番温かかった。偽物と本物の話をずっとしてきた二人の間で、この一言だけは、間違いなく本物だった。
沙耶はネックレスを握った。
「来て」
紫のランスが手の中に現れた。最後の戦い。お母さんがくれたもの全部を、ここで使い切る。
灰色の世界が咆哮する。半魔女が完全に形を崩し、巨大な灰色の嵐となって二人に襲いかかってきた。