薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ)   作:LongLong

21 / 28
第五幕 第二十話『お母さんに会わせてあげる』

第二十話 お母さんに会わせてあげる

 

 通路が途切れた。

 

 その先に、空間が広がっていた。巣の最深部。灰色の──いや、もはや灰色ですらない。色という概念そのものが消えた世界。白でも黒でもない。目に映るものの全てから、意味が剥がれ落ちている。見ているのに、何も見えていないような感覚。目は開いているのに、風景が脳に届かない。

 

 天井がなかった。見上げると、どこまでも続く虚空。地面はあるが、足元の感触が曖昧で、立っているのか浮いているのかわからない。

 

 カナエが六つ目のグリーフシードを使った。残り一つ。ソウルジェムの紺色が、浄化してもすぐに濁り始める。ここでは時間が加速しているのかもしれない。

 

 「いるわ」

 

 カナエが剣を構えた。沙耶もネックレスを握る。

 

 最深部の中央に──何かがいた。

 

 少女だった。

 

 灰色の髪。灰色の肌。灰色の目。灰色のワンピース。年齢は沙耶と同じくらいか、もう少し下か。小柄で、痩せていて、裸足。

 

 でも「少女」と呼ぶには、何かが決定的に欠けていた。輪郭が揺れている。身体の端が常にほどけかけていて、灰色の粒子が肩や指先から零れ落ちては、空間に溶けている。人の形を保っているのがやっとだという印象。

 

 半魔女。

 

 灰色の少女が、沙耶を見た。

 

 目が合った瞬間、ネックレスが激しく震えた。今までのどの反応よりも強い。身体の奥底から引きずり出されるような感覚。半魔女がネックレスの魔力を引き寄せている。

 

 「……来てくれたんだ」

 

 声が聞こえた。半魔女の声。甘くて、柔らかくて、少し寂しげな声。巣に入ったとき聞いた「おいで」の声と同じ。でもこうして目の前で聞くと、もっと──人間の声に近かった。

 

 「ずっと待ってたの。あなたのその光。紫の、温かい光。ずっとずっと、ここから感じてた」

 

 半魔女が一歩、近づいた。カナエが剣を向ける。半魔女はカナエを見なかった。沙耶だけを見ていた。

 

 「あなたも、失くしたんでしょう? 大切な人を」

 

 沙耶は答えなかった。ネックレスを握る手に力を込めた。

 

 「わかるよ。あなたのこと、ずっと見てたから。ネックレスを通じて。あなたが泣いたことも、戦ったことも、怖かったことも。全部」

 

 キュゥべえが言っていた通りだった。半魔女はネックレスの魔力を通じて沙耶の感情を読み取っていた。何を恐れ、何を守りたいか。全部知っている。

 

 「お母さんのこと、愛してるんだよね」

 

 沙耶の心臓が跳ねた。

 

 「会いたいよね。もう一度」

 

 半魔女が手を差し伸べた。灰色の手。指先から粒子が零れている。その手のひらの上に、何かが浮かんでいた。

 

 紫の光。小さな、淡い光。

 

 それはネックレスの中にある光と同じ色をしていた。お母さんの魔力の色。

 

 「そのネックレスをちょうだい。お母さんの魔力を私にくれたら──私はあなたのお母さんを再現できるよ」

 

 沙耶の足が止まった。

 

 「記憶も、声も、温もりも。全部。あなたの知ってるお母さんを、そのまま作れる。もう一度会えるよ。もう一度、名前を呼んでもらえるよ。もう一度──」

 

 半魔女の声が、甘く、深く、沙耶の奥に沈んでいく。

 

 「──抱きしめてもらえるよ」

 

 沙耶の手が震えた。

 

 会いたい。

 

 それは嘘ではなかった。今さっき、母の記憶を全て見た。お母さんの仲間たち。お母さんの涙。お母さんの「もっと一緒にいたかった」。全部見た上で、まだ──会いたい。胸の奥が軋んでいる。身体がネックレスを差し出そうとしている。頭ではなく、身体が。

 

 お母さんに「ただいま」と言いたい。「おかえり」と返してほしい。髪を梳いてほしい。弁当を見て「きんぴらが多すぎた」と笑ってほしい。朝、あの低い声で「おはよう」と言ってほしい。一回だけでいい。もう一回だけでいい。

 

 ネックレスを渡せば、それが叶う。半魔女はそう言っている。

 

 「たった一つのネックレスと引き換えに、お母さんが戻ってくるの。悪い取引じゃないでしょう?」

 

 半魔女がもう一歩、近づいた。灰色の手が沙耶の胸元に──ネックレスに──伸びてくる。

 

 カナエが動こうとした。でも沙耶が左手を上げて、止めた。

 

 「……待って。カナエさん」

 

 「沙耶──」

 

 「大丈夫。自分で答える」

 

 カナエは剣を構えたまま動きを止めた。灰色の目が沙耶を見ている。

 

 長い沈黙。

 

 灰色の世界に、沙耶の呼吸だけが響いている。半魔女の手が、ネックレスの数センチ手前で止まっている。灰色の指先から零れる粒子が、ネックレスの銀に触れそうで触れない。

 

 沙耶の右手がネックレスを握っている。指が白い。爪が食い込んでいる。離したくない。でも──渡したい自分がいる。渡して、偽物でもいいからお母さんの声を聞きたい自分が、確かにいる。

 

 沙耶は目を閉じた。

 

 お母さんの顔を思い出す。黒い髪。静かな微笑み。少しだけ低い声。朝、「おはよう」と言ってくれた声。夜、隣で本を読んでいた横顔。

 

 ──そして、あの記憶。何度も便箋を書き直して、三行にした夜。泣きながら沙耶の髪を梳いた夜。「もっと一緒にいたかった」と言った夜。

 

 お母さんは「また会える」と書かなかった。

 

 帰ると書かなかった。待っていてと書かなかった。偽物のお母さんを作ってもらえと書かなかった。

 

 三行だけ書いた。「これがあれば大丈夫」「あなたは強い子」「愛してる」。

 

 それだけで十分だと信じて、消えた。

 

 沙耶は目を開けた。

 

 「お母さんは、偽物を望まない人だった」

 

 半魔女の灰色の目が、僅かに揺れた。

 

 「お母さんは嘘が嫌いだった。ごまかしが嫌いだった。だから手紙も三行しか書かなかった。余計なことを書かなかった。本当のことだけを、三行で」

 

 沙耶はネックレスを握った。紫の光がくすんでいる。薄くなった紫。でも、まだここにある。

 

 「お母さんが命を削って私にくれたものを──偽物と取引するわけないでしょ」

 

 半魔女の手を、払いのけた。

 

 紫の光が弾けた。ネックレスから放たれた光が、半魔女の灰色の手を弾いて、距離を作った。

 

 半魔女が後退した。灰色の顔に、初めて感情が浮かんだ。驚きではない。悲しみ。

 

 「……どうして。お母さんに会えるのに」

 

 「会えない。あなたが作るのはお母さんじゃない。お母さんの形をした別の何か。お母さんは──もういないの。それは変わらない」

 

 声が震えた。でも言い切った。

 

 言い切った瞬間、胸の奥で何かが割れた。「お母さんに会えるかもしれない」という、最後の希望の欠片。それを自分の手で割った。もう二度と拾えない。

 

 お母さんはもういない。その事実を、ようやく、声に出して言えた。

 

 半魔女の灰色の目から、何かが零れた。涙ではなかった。灰色の粒子が目元から流れ落ちていく。泣いているのだと思った。色のない涙で。

 

 「わたしも……会いたかっただけなの。失くしたものに。もう一度」

 

 半魔女の声が震えていた。少女の声。誰かを失った少女の声。

 

 「おねえちゃんが……いなくなっちゃったの。わたし、ひとりになっちゃったの」

 

 半魔女の灰色の手が、自分の胸を押さえた。

 

 「でもね、あなたのネックレスの力があれば……戻れるかもしれないの。おねえちゃんがいた頃に。あの頃に。全部、やり直せるかもしれないの」

 

 沙耶の胸が痛んだ。姉を失った少女。ノアとユウキが頭をよぎった。もしユウキがあのまま目覚めなかったら、ノアは──。

 

 同じだった。沙耶と同じ。大切なものを失って、取り戻したくて、でも取り戻せなくて。灰色に塗りつぶすしかなかった少女。ネックレスの中の「時間」の力に、最後の希望を見た少女。沙耶がほんの少し道を違えていたら、ここにいたのは自分だったかもしれない。

 

 でも──

 

 「それでも、偽物じゃだめなの。本物じゃないと、意味がないの」

 

 半魔女の顔が歪んだ。悲しみが怒りに変わっていく。

 

 「……くれないなら、奪うよ」

 

 空間が震えた。半魔女の身体が膨張し始める。少女の姿が崩れ、灰色の粒子が渦を巻いて広がっていく。天蓋のない空が灰色の渦に飲まれる。地面が割れる。壁が崩れる。

 

 結界全体が、半魔女の怒りで揺れていた。

 

 カナエが沙耶の横に立った。剣を構えている。最後のグリーフシードでソウルジェムを浄化した。残りゼロ。もう後がない。

 

 「よく言ったわ」

 

 カナエが言った。短く。声が小さかった。でも沙耶は聞き逃さなかった。それは今まで聞いたカナエの声の中で、一番温かかった。偽物と本物の話をずっとしてきた二人の間で、この一言だけは、間違いなく本物だった。

 

 沙耶はネックレスを握った。

 

 「来て」

 

 紫のランスが手の中に現れた。最後の戦い。お母さんがくれたもの全部を、ここで使い切る。

 

 灰色の世界が咆哮する。半魔女が完全に形を崩し、巨大な灰色の嵐となって二人に襲いかかってきた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。