薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
第二十一話 一度だけ
灰色の嵐が、世界を呑んだ。
半魔女が少女の姿を捨てた。灰色の粒子が渦を巻き、膨張し、結界そのものと一体化していく。天蓋が落ちてくるように空が歪み、地面が波打ち、壁が生き物のように蠢く。世界全体が半魔女の身体になった。
巨大な灰色の手が、地面から生えた。五本の指が沙耶に向かって掴みかかる。
「来て──!」
沙耶がネックレスを握る。紫のランスが手の中に現れた。灰色の手をランスで突く。紫の穂先が灰色の指を貫いた──が、すぐに再生する。粒子が集まり、傷口が塞がる。
もう一本の手が横から来た。カナエが斬り裂く。紺色の剣光が灰色を切り開く。でもこちらも再生する。
「キリがないわ。本体を叩かなければ」
「本体って、どこ──」
「結界と融合してる。核がどこかにあるはず。探しなさい」
ネックレスが反応する方向を探す。熱は──全方向から来ている。半魔女が結界全体に拡散しているから、ネックレスの反応も拡散している。方角がわからない。
灰色の壁が迫ってくる。左右から挟まれる。沙耶は紫の盾を展開した。丸い盾が灰色の壁を押し返す。でも重い。押されている。
「カナエさん──!」
カナエが盾の上から跳躍し、迫る灰色の壁を剣で切り裂いた。着地と同時にもう一撃。二撃目で壁が崩れる。
でも三秒で再生した。
「駄目だ。全部再生する。核を見つけないと──」
沙耶は盾を解除してランスを構え直した。灰色の地面が割れて、下から触手のようなものが噴き出す。三本。沙耶がランスで一本を突き、カナエが二本を斬る。
カナエの動きが鈍い。ソウルジェムの濁りが限界に近いのだ。グリーフシードはもうない。浄化手段がない状態で、結界の濁りを浴び続けている。
「カナエさん、ソウルジェム──」
「黙って戦いなさい。私のことは私が管理する」
冷たい声。でも息が荒い。カナエが追い詰められている。
灰色の天井から、巨大な何かが降ってきた。拳。結界全体が半魔女の身体なのだから、天井が拳になることもできる。
避けられない。ランスを構えて防御──
衝撃。紫のランスが軋んだ。身体ごと地面に叩きつけられる。背中の衝撃で息が詰まる。口の中に血の味。
立て。立て。ランスを杖にして起き上がる。
カナエも別の方向から攻撃を受けていた。灰色の触手に足を捕まれ、壁に叩きつけられている。剣で触手を切り離すが、立ち上がるまでに時間がかかった。初めて見た。カナエが膝をつくのを。
「……核を見つけないと、じり貧よ」
カナエが額の血を拭いながら言った。
核。半魔女の核。結界に融合しているなら、結界の最も深い場所に──
沙耶はネックレスに意識を集中した。全方向から来る反応の中で、最も強い一点を探す。ノイズの中から信号を拾い上げるように。
──あった。
真下。地面の遥か下。結界の最深層に、ネックレスの反応が最も強い一点がある。
「下。地面の下にいる」
「届かないわよ。ランスのリーチでは──」
カナエが核に向かって跳躍した。地面を砕いて、剣を突き立てる。灰色の地盤が割れた──が、核までは届かない。灰色の壁が修復して、カナエの剣を弾く。
もう一度。弾かれる。三度目。罅が入った──カナエのソウルジェムに。
カナエが膝をついた。ソウルジェムが黒く濁っている。限界。
「カナエさん──!」
「……私は、ここまでよ」
カナエの声が掠れていた。剣を支えにして、膝をついたまま沙耶を見上げている。灰色の目に、初めて見る色があった。
「この街の魔法少女が三人、消えていくのを見てたの。一人ずつ。止められなかった。だから、一人で守ろうとした。……もう誰も失いたくなかったから」
沙耶は息を呑んだ。カナエが沙耶を「邪魔」と呼んだ理由。「偽物」と突き放した理由。全部──ここに繋がっていた。魔法少女ですらない人間が、目の前で死ぬのを見たくなかった。また誰かを失うのが、怖かった。
カナエは短く笑った。自嘲のような、諦めのような。
「……なのに、あなたはここまで来た。偽物のくせに」
その声は、冷たくなかった。
「あとは──あなたが、やりなさい」
沙耶はランスを握った。紫の光が──弱まっていた。魔力が尽きかけている。
ランスの表面に、罅が走った。
細い罅。紫の穂先に、蜘蛛の巣のような罅が広がっていく。お母さんのソウルジェムと同じ罅。
魔力が尽きる。もう、ほとんど残っていない。盾の光が薄れていく。ランスの罅が広がっていく。
あと一撃。あと一撃分の魔力が、あるかどうか。
沙耶はランスを両手で握った。罅だらけの紫。くすんだ光。でもまだ──ほんの僅かに──温かい。
「お母さん」
声に出した。結界の底で。灰色の世界の真ん中で。
もう応えてくれないと知っている。もうこの世にいないと知っている。あの朝焼けの中で、結界と一緒に消えたと知っている。
半魔女が最後の一撃を放った。灰色の奔流が沙耶に向かって──
──世界が、止まった。
灰色の粒子が空中で静止していた。半魔女の腕が、振り下ろされた姿勢のまま凍りついている。カナエの髪が風に揺れかけた形で止まっている。
音が消えた。色が消えた。時間が止まっていた。
ネックレスの最深部から、最後の力が浮かび上がってきた。お母さんが封じていた、三つ目の力。時間。どうしようもないときに、一度だけ。
沙耶だけが動けた。止まった世界の中で、沙耶だけが。
罅だらけのランスを握って、走った。
止まった灰色の世界を、紫の光の残滓を纏って駆け抜けた。半魔女の静止した腕の隙間をすり抜け、割れた地面の裂け目に飛び込み、核に向かって──
全てを込めた一突きを放った。
紫の穂先が、灰色の球体を貫いた。
時間が動き出した。
紫と灰色がぶつかり、混ざり、渦を巻いて──紫が、灰を押し返していく。灰色の球体の中心から罅が走り、光が漏れ出す。灰色ではない光。色のある光。赤。青。黄。緑。紫。全ての色が、灰色の中から溢れ出してくる。
半魔女が──泣いていた。
崩壊していく核の中から、あの少女の声が聞こえた。
「……ありがとう。やっと、終われる」
灰色の球体が砕け散った。
結界が崩壊を始めた。灰色の天蓋が剥がれ落ち、壁が崩れ、地面が割れていく。その下から──色が戻ってくる。灰色に塗りつぶされていた世界に、一つ一つ、色が戻っていく。
沙耶の手の中で、ランスが光を失った。罅だらけの紫が消えていき、縮み、銀のペンダントトップに戻った。
ネックレスは沈黙した。
もう光らない。熱もない。形も変わらない。握っても温かくならない。
ただの銀のネックレスに、戻った。
お母さんの魔力が──全て、尽きた。
沙耶は崩壊する結界の中に立っていた。ランスのない手。光のないネックレス。全身が痛い。涙が止まらない。
でも──立っている。
カナエが傍に来た。ソウルジェムが真っ黒に濁っている。もう変身を維持する力もない。紺色の衣装が解けて、制服姿に戻る。
「出るわよ。結界が崩れる前に」
カナエが沙耶の腕を掴んだ。初めて、カナエの方から沙耶に触れた。
二人は走った。崩壊する灰色の世界の中を。色が戻っていく世界の中を。壁が崩れ、天井が落ち、地面が割れる中を、紫の光の道しるべの残滓を辿って。
光が見えた。
灰色ではない光。フェンスの向こう──旧地下街の入口──蛍光灯の白い光。
二人はフェンスを越えて、地下通路に飛び出した。
背後で、巣の結界が完全に崩壊した。灰色の粒子が霧散していく。もう何も残っていない。
地下通路の蛍光灯が白く光っている。コンクリートの壁。灰色──いや、コンクリートの灰色は、最初からこの色だ。結界の灰色とは違う。現実の色。
沙耶は地下通路の床に座り込んだ。隣にカナエも座った。二人とも息が荒い。二人ともボロボロ。
沙耶はネックレスに触れた。冷たい銀。紫の光はもう消えている。
でも──ここにある。首にかかっている。お母さんが遺してくれたネックレスが、ここにある。
光はなくても。魔力はなくても。
ここにある。