薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ)   作:LongLong

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第五幕 第二十二話『色』

第二十二話 色

 

 地下通路に座り込んだまま、しばらくどちらも動けなかった。

 

 蛍光灯の白い光。コンクリートの壁。自分たちの荒い呼吸。それだけがある、普通の地下通路。結界の灰色はもうどこにもない。

 

 カナエのソウルジェムは真っ黒に濁っていた。変身が解けた制服姿のカナエは、壁にもたれかかって目を閉じている。

 

 「カナエさん。ソウルジェム──」

 

 「……巣が消えたから、濁りの速度は落ちた。すぐには大丈夫よ。見苦しいところを見せたわね」

 

 「見苦しくなんかなかった」

 

 カナエが薄く目を開けた。灰色の目が沙耶を見ている。

 

 長い沈黙があった。地下通路に二人の呼吸だけが響いている。

 

 「……一つだけ言っておくわ」

 

 カナエの声は静かだった。いつもの冷たさではない。疲労の底から絞り出された、飾りのない声。

 

 「あなたは、偽物なんかじゃなかった」

 

 沙耶は何も言えなかった。

 

 「ソウルジェムもない。契約もしていない。魔法少女ではない。それは事実よ。でも──あなたがやったことは、本物だった」

 

 カナエは目を逸らした。壁の方を見ている。

 

 「……それだけ」

 

 沙耶の目から、涙がまた零れた。嬉しいとか悲しいとか、そういう感情ではなかった。ただ、溢れた。

 

 「ありがとう、カナエさん」

 

 カナエは答えなかった。でも、壁にもたれたまま、ほんの僅かに──口角が上がった気がした。

 

 地上に出ると、朝だった。

 

 灰谷駅前の広場。始発の電車がホームに滑り込んでくる音が聞こえる。空は白み始めていて、東の方がオレンジ色に染まっている。

 

 朝焼け。

 

 沙耶は空を見上げた。お母さんが最後に見た空と同じ色。結界の天蓋の隙間から覗いた、あの朝焼け。

 

 スマートフォンが震えた。

 

 画面を見る。ノアからのメッセージ。三十分前に送られていた。結界の中にいる間は電波が届かなかったのだろう。

 

 『ユウキが目を覚ました。今病院にいる。来て』

 

 沙耶は走った。

 

 ボロボロの身体で。全身が痛いのに。走った。

 

 カナエが後ろから「走るな、傷が──」と言いかけたが、途中でやめた。

 

 灰谷中央病院。四階。ユウキの病室の前の廊下に、ノアが立っていた。

 

 ノアは泣いていた。

 

 沙耶がノアと出会ってから、ノアが泣いているのを見るのは初めてだった。弟が倒れてからもずっと泣かなかった。沙耶の前でも泣かなかった。笑顔で塗りつぶしてきた。ずっと。

 

 でも今、ノアは泣いていた。両手で顔を覆って、廊下の壁にもたれて、肩を震わせて。

 

 沙耶が廊下を走ってくる足音に気づいて、ノアが顔を上げた。泣き腫らした琥珀色の目が沙耶を見つけた。

 

 「沙耶──」

 

 ノアが駆け寄ってきた。沙耶の胸に飛び込むようにぶつかってきた。小さい身体。カーディガンの余った袖。栗色の髪。

 

 「目ぇ覚めた。ユウキが。目ぇ覚めたの」

 

 ノアの声がぐちゃぐちゃだった。泣きながら笑っている。笑いながら泣いている。

 

 沙耶はノアを抱きしめた。自分も泣いていた。ノアの弟のことだけじゃない。全部が混ざっていた。お母さんのこと。戦いのこと。ネックレスの光が消えたこと。帰ってこれたこと。ノアがここにいること。全部混ざって、もう何が何だかわからなくて、でもノアの腕の中は温かかった。

 

 「帰ってきたよ」

 

 沙耶が言った。

 

 「おかえり」

 

 ノアが言った。

 

 「ただいま」

 

 一年間、誰にも言えなかった言葉が、やっと届く場所に落ちた。

 

 ユウキは元気だった。半年間眠っていたとは思えないほど、目が澄んでいた。ノアに似た栗色の髪と丸い輪郭。ベッドの上で「お姉ちゃん、なんで泣いてるの」と困惑していた。

 

 沙耶は病室の外でノアの家族に挨拶をして、廊下のベンチに座った。しばらくして、ノアが出てきた。目はまだ赤いが、笑顔が戻っていた。

 

 ノアが隣に座った。

 

 「沙耶。話してくれる?」

 

 沙耶はノアを見た。

 

 「全部。沙耶が何と戦ってたのか。ユウキに何が起きてたのか。全部」

 

 沙耶は深呼吸をして、話し始めた。

 

 魔女のこと。結界のこと。お母さんが魔法少女だったこと。ネックレスがお母さんの魂から作られていたこと。灰谷市の地下に巣があったこと。半魔女がネックレスの魔力を狙っていたこと。ユウキの昏睡が巣の影響だったこと。

 

 そして──常磐カナエも魔法少女で、一緒に戦ってくれたこと。

 

 ノアは黙って聞いていた。時々目を瞬かせて、時々首を傾げて。魔女とか結界とかソウルジェムとか、たぶん半分も理解できていないだろう。でも沙耶の目を見て、最後まで聞いた。

 

 全部話し終わった後、ノアは少し考えてから言った。

 

 「常磐先輩──カナエさん、だっけ。あの人、やっぱり沙耶のこと心配してたんだ」

 

 「え?」

 

 「前に学校の廊下で会ったとき、沙耶の傷を数えてる目をしてたでしょ。あれ、ずっと気になってたんだよね。嫌いな相手のことあんなに見ないもん」

 

 沙耶は少し笑った。ノアはあのとき既に気づいていたのだ。

 

 「あの人が魔法少女で、沙耶と一緒に戦ってくれてたんだね。──ありがとうって言わなきゃ」

 

 「……うん。今度、紹介するよ。ちゃんと」

 

 ノアは笑った。泣いた後の、少しだけ腫れた目で。でもいつもの穏やかな笑顔だった。

 

 それから──笑顔が少しだけ曇った。

 

 「……ひとつだけ、謝りたいことがある」

 

 「なに」

 

 「あの日、病院で、沙耶のネックレスが光った気がしたの。ユウキのそばで。あのとき何かはわからなかったけど──今の話聞いて、全部繋がった」

 

 ノアの声が小さくなった。琥珀色の目が、沙耶から逸れている。

 

 「あの日からずっと、沙耶なら弟を助けてくれるかもって、どこかで期待してた。理由もわからないまま。友達なのに、沙耶に何かを期待してた。最低だよね」

 

 ノアの声が小さくなった。琥珀色の目が、沙耶から逸れている。

 

 「知ってたよ」

 

 沙耶は言った。

 

 「え」

 

 「あの日の帰り道、ノアの顔見てわかった。期待してるんだなって」

 

 ノアの目が見開かれた。

 

 「怒ってないの」

 

 「怒らないよ。私だって、お母さんが帰ってくるかもしれないって一年間期待してた。大切な人を取り戻したいって思うのは、最低なんかじゃない」

 

 ノアの目から、また涙が零れた。今度は声を出さなかった。ただ唇を噛んで、沙耶の袖を掴んだ。

 

 「沙耶」

 

 「うん」

 

 「おつかれさま」

 

 その一言が、沙耶の全身に染みた。

 

 夜。自宅。

 

 帰宅して、「ただいま」と言った。

 

 返事はない。お母さんはいない。もういない。帰ってこない。

 

 でも──「ただいま」を言える家がある。そして今日、「おかえり」と言ってくれた人がいた。

 

 リビングに入る。テーブルの上の便箋。角の擦り切れた便箋。

 

 沙耶は便箋を手に取った。開く。三行の手紙。お母さんの字。

 

 ──これがあれば大丈夫。

 ──あなたは強い子。

 ──愛してる。

 

 一行目。ネックレスの力はもうない。でも大丈夫だった。ネックレスがなくても、沙耶はここに立っている。

 

 二行目。強い子。弱いまま立ち上がれる子。自分で決められる子。お母さんはそう信じてくれた。その通りだった、と思いたい。

 

 三行目。愛してる。それだけで十分だった。

 

 便箋を畳んで、テーブルに戻す。

 

 ネックレスに触れた。冷たい銀。紫はもう灯らない。光らない。形も変わらない。

 

 でも、ここにある。

 

 お母さんが命を削って作ってくれたネックレスが、ここにある。魔力は尽きた。力は消えた。でもネックレスそのものは消えていない。手紙も消えていない。

 

 力がなくなっても、お母さんが沙耶を愛していたことは消えない。

 

 沙耶はネックレスをかけたまま、ベッドに入った。冷たい銀が鎖骨の下に触れる。紫はもう灯らない。それでも、明日もこれをかけて眠る。明後日も。その先も。

 

 目を閉じる。明日の朝、学校に行けば、ノアがいる。「おはよ」と言ってくれる。カナエも同じ学校の廊下を歩いている。もしかしたら、「おはよう」と言ってくれるかもしれない。

 

 お母さんはいない。でも沙耶は一人じゃない。

 

 それが、お母さんが遺してくれたもう一つの「大丈夫」なのかもしれない。

 

 暁美沙耶は、今日も一人で──いや、一人ではない朝を待ちながら、眠りについた。

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