薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
エピローグ 朝焼け
数日後の早朝。
灰谷高校の屋上に、沙耶は立っていた。
六月の半ば。空気はもう夏の匂いを含んでいる。始業前の校舎は静かで、階下から微かに吹奏楽部の朝練の音が聞こえてくる。
東の空が白み始めていた。地平線の上に、オレンジ色の光が広がっていく。
朝焼け。
お母さんが最後に見た色。結界の天蓋の隙間から覗いた、あの色。沙耶はそれを見たくて、始発で学校に来た。
フェンスにもたれて空を見上げている。首元のネックレスに触れる。冷たい銀。紫はもう灯らない。でも、ここにある。
屋上の扉が開いた。
「こんな早くに呼び出さないでよ……」
ノアが出てきた。目が半分閉じている。いつもの眠そうな顔が、いつもの三倍ぐらい眠そうになっている。カーディガンの袖が余ったまま、欠伸を噛み殺しながら沙耶の隣に来た。
「朝焼け見たいって言うから付き合ってあげてるんだからね」
「ありがとう」
「……うん」
ノアはフェンスにもたれて、沙耶の肩に頭を預けた。栗色の髪が沙耶の白い髪と混ざる。
「きれいだね。空」
「うん」
「ユウキも今朝はよく食べたって。退院、来週になるかも」
「よかった」
「沙耶のおかげだよ」
「……私だけじゃないよ」
ノアが小さく笑った。肩にもたれたまま、目を閉じている。半分寝ている。
朝焼けの色が濃くなっていく。オレンジから赤へ。赤から金色へ。雲の端が光を受けて、淡い紫に染まっている。
屋上の扉が、もう一度開いた。
沙耶が振り返ると、灰色の髪の長い少女が立っていた。制服をきっちり着こなし、背筋が伸びている。灰色の目。
カナエだった。
カナエは扉の前で立ち止まっていた。何か言おうとして口を開いて──閉じた。また開いて──また閉じた。
沙耶はその様子を見て、少しだけ笑った。カナエは言葉を選ぶのが下手だ。冷たいことを言うのは得意なのに、そうじゃないことを言おうとすると、途端にぎこちなくなる。
カナエは結局、ため息を一つついて、歩いてきた。沙耶の反対隣──ノアがいない方──に腰を下ろした。フェンスに背中を預けて、足を伸ばす。
「……おはよう」
それだけだった。それだけで十分だった。
「おはよう、カナエさん」
肩にもたれているノアが薄目を開けた。
「……おはようございます、常磐先輩」
カナエがノアを一瞥した。ノアはにっこり笑って、また目を閉じた。カナエは視線を空に戻した。
三人で、無言で、朝焼けを見ている。
白い髪の少女と、栗色の髪の少女と、灰色の髪の少女。フェンスにもたれて、並んで。たいした話はしない。ただ空を見ている。
お母さんが最後に見た空と同じ色が、三人の顔を照らしている。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
沙耶は取り出した。画面に表示されているのは、知らない番号。
こんな早朝に。誰だろう。
少し迷ってから、出た。
「……もしもし」
沈黙があった。二秒。三秒。相手の呼吸が聞こえる。それから──声。
「──沙耶さん、ですか」
女の声だった。若いような、そうでもないような。柔らかい声。でもどこか疲れている。長い時間をかけて磨り減ったような疲労が、声の底に沈んでいた。
「はい。暁美沙耶です」
電話の向こうで、息を呑む音がした。小さな、短い沈黙。
「……暁美」
声が震えていた。その二文字を繰り返しただけで、声が震えていた。
「あなたのお母さんに……」
一度止まって、深呼吸の音が聞こえて、続きが来た。
「ずっと会いたかったの。会えなくなってしまったけれど」
沙耶の心臓が跳ねた。
お母さんに、会いたかった。この人は、お母さんを知っている。
「わたしは鹿目まどか。──あなたのお母さんの、友達だったの」
鹿目まどか。
お母さんの記憶の中では、桃色の髪の少女だった。「ほむらちゃん」と呼んでいた人。全員を見送った後も、最後まで残った人。お母さんが沙耶のことを託した人。あの少女が、大人になって──電話の向こうにいる。
「お母さんに頼まれていたの。……もっと早く連絡すべきだった。でもなかなか──勇気が出なくて。ごめんね」
声が震えている。泣いている。電話の向こうで、この人は泣いている。
「あなたに、会えますか」
沙耶は朝焼けの空を見上げた。オレンジと赤と金色と紫。お母さんが最後に見た色。
ネックレスに触れた。冷たい銀。でも──今だけ、ほんの一瞬だけ、指先が温かかった気がした。
気のせいかもしれない。お母さんの魔力はもう尽きている。でも──温かかった。
隣でノアが目を開けて、沙耶を見ている。反対隣でカナエが横目で沙耶を見ている。
沙耶は電話に向かって言った。
「──はい。会いたいです」
朝焼けの光が、屋上に座る三人を照らしていた。白い髪と、栗色の髪と、灰色の髪が、同じ光の中で揺れている。
お母さんはもういない。
でも、お母さんが遺してくれたものは、ここにある。
銀のネックレスと、三行の手紙と、そして──沙耶がこれから生きていく、この朝の色。