薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
遊園地
事の発端は、ノアの一言だった。
昼休み、いつものように窓際で弁当を食べているとき、ノアが唐突に言った。
「遊園地行きたい」
沙耶は卵焼きを咀嚼しながら、ノアを見た。
「急に?」
「急にじゃないよ。前から思ってた。ユウキがリハビリ終わったらみんなで行こうって話してたんだけど、まだ先になりそうだから先にあたしが行っとこうかなって」
ノアの弟のユウキはリハビリ中だ。昏睡から目覚めて数ヶ月。歩けるようにはなったが、まだ長時間の外出は難しい。
「……で、行くとして、誰と」
「沙耶と」
「二人で?」
「あともう一人。カナエさん」
沙耶の箸が止まった。
「カナエさん?」
「うん」
ノアはウインナーを頬張りながら、当たり前のように言った。
「沙耶、カナエさんと学校以外で会ったことある?」
「……ない」
正確には、夜の結界で一緒に戦ったことはある。公園で話したこともある。でもそれは全部、魔法少女としてのカナエだ。普通の場所で、普通に一緒にいたことは──ない。
「だよね。あたしもない。っていうか屋上であの一回しかまともに顔見てない。でもさ、あの人ずっと一人じゃん。沙耶が気にしてるの知ってるし」
「別に気にしてない」
「嘘つき」
ノアは笑った。沙耶は黙って卵焼きを食べた。
「で、どうやって誘うの」
「沙耶から言ってよ。連絡先知ってるでしょ」
知っている。キュゥべえ経由でカナエの番号は持っている。でもその番号に「遊園地行きませんか」と送る自分を想像して、沙耶は頭を抱えた。
「……直接言う」
「え?」
「メッセージだと断られる。顔見て言った方がいい」
「沙耶がそこまで考えてるの珍しいね」
確かにそうだ。カナエは灰谷高校の三年生。沙耶は二年生。同じ校舎にいる。廊下ですれ違うことだってある。文面で「遊園地」と送ったら既読無視される未来しか見えない。
放課後、沙耶は三年生の教室の前の廊下に立っていた。
カナエが出てくるのを待っている。周りの三年生が沙耶を不思議そうに見ている。二年生がここに来ることは珍しいのだろう。
教室のドアが開いた。灰色の長い髪。背筋が伸びた歩き方。鞄を右肩にかけて、誰とも話さず出てくる。
「カナエさん」
カナエの足が止まった。灰色の目が沙耶を見た。
「何」
短い。いつも通り。
「あの……今度の日曜日、予定ありますか」
カナエの眉がわずかに上がった。
「ないけど」
「遊園地に行きませんか。私と、ノアと、三人で」
沈黙。廊下を歩く生徒たちの足音が遠くなる。カナエは沙耶を三秒ほど見つめてから、
「なぜ」
「なぜって……」
理由。理由か。楽しそうだから? 三人で出かけたことがないから? カナエが一人でいるのが心配だから? 全部本当だけど、全部カナエには刺さらない。
「ノアが行きたいって言って」
「それはあの子の都合でしょう。私が行く理由にはならない」
正論。沙耶は詰まった。
「……私が、行きたいんです。カナエさんと」
カナエの灰色の目が、一瞬だけ揺れた。
「遊園地」
「はい」
「私が、遊園地」
「はい」
カナエは壁に背をもたれて、天井を見た。長い沈黙。沙耶は待った。カナエが沙耶の泣くのを待ってくれたように。
「……何時」
「十時に灰谷駅で」
「わかった」
それだけ言って、カナエは歩き出した。三歩ほど進んで、振り返らずに言った。
「絶叫系は乗らないわよ」
沙耶は小さくガッツポーズをした。廊下で。二年生が一人、こぶしを握りしめていた。
日曜日。灰谷駅。十時。
沙耶が着いたとき、ノアはもう来ていた。白いブラウスにデニムのスカート。ポニーテール。いつもの制服姿とは違う。
「おはよ! 今日あたしテンション高いよ。覚悟して」
「覚悟って何」
「ジェットコースター三回は乗る」
「ノア、カナエさん絶叫系乗らないって」
「えっ、マジで?」
沙耶が頷くと、ノアは「じゃあ二人で乗ろう」と即座に切り替えた。適応力が異常に高い。
十時二分。灰色の髪が改札から出てきた。
黒いタートルネックに黒いパンツ。全身黒。私服でも変わらない。ただ、前に公園で会ったときとは違って、小さなショルダーバッグを斜めにかけていた。
「おはようございます、カナエさん」
沙耶が声をかけると、カナエは小さく頷いた。
ノアが一歩前に出た。
「改めまして、常盤ノアです。屋上ではちゃんと挨拶できなかったので」
「覚えてるわ。沙耶の隣にいた子でしょう」
カナエは短く返した。ノアは一瞬「え」という顔をして、
「あたしのこと知ってるんですか?」
「沙耶の隣にいつもいる子でしょう。廊下で見た」
ノアが沙耶を見た。沙耶は目を逸らした。カナエが自分たちのことを見ていたことを、沙耶は知らなかった。いや、以前カナエが廊下から教室を一瞥したのは覚えている。あのとき、ちゃんとノアのことも見ていたのだ。
「じゃあ行きましょう」
ノアが先頭を歩き出した。カナエは少し遅れてついてくる。沙耶は二人の間。
灰谷シーサイドパーク。灰谷市唯一の遊園地。規模は大きくないが、観覧車と海が見える立地で地元民には人気がある。
入場ゲートを通ったとき、ノアが園内マップを三部もらってきた。一部をカナエに渡す。カナエは受け取って、一瞥して、畳んでポケットにしまった。
「カナエさん、何か乗りたいのあります?」
ノアが聞いた。
「特にないわ」
「じゃあとりあえずコーヒーカップから行きましょう!」
「あれは回るだけでしょう」
「回るのがいいんですよ」
カナエの灰色の目がノアを見た。ノアはにっこり笑って、カナエの視線を真正面から受け止めた。沙耶はこの二人の間に挟まれて、妙な緊張を感じていた。
コーヒーカップ。三人で一つのカップに座る。ノアが中央のハンドルを握った。
「回しますよ」
「ちょっと待っ」
沙耶の制止を無視してノアが全力で回した。カップが猛烈に回転する。沙耶は壁に張り付いた。カナエは──無表情のまま座っていた。遠心力で髪が横に流れているのに、姿勢が一ミリも崩れない。体幹が異常に強い。
降りたとき、沙耶は目が回っていた。ノアは「あはは」と笑っている。カナエだけが平然としていた。
「カナエさん全然平気なんですね」
「結界の中の方がよほど揺れるわ」
ノアが「あー、そういうものなんだ」と納得した顔をした。魔法少女の話は沙耶から聞いているが、実感はまだない。
次にノアが選んだのはメリーゴーラウンドだった。
「これは乗らないわよ」
カナエが即座に言った。
「なんでですか」
「馬の背に乗る理由がない」
「理由がなくても乗るんですよ遊園地は」
ノアがカナエの腕を引っ張った。カナエが一瞬固まった。沙耶も固まった。ノアがカナエに触った。カナエに触れる人間を、沙耶は見たことがなかった。
カナエは腕を引かれるまま、三歩ほど歩いて、それから足を止めた。
「……離して」
声は冷たかったが、振り払いはしなかった。ノアは手を離した。
「ごめんなさい。でも、乗りましょうよ」
カナエは沙耶を見た。「なんとかしろ」と言いたげな目。沙耶は目を逸らした。助けない。
結局、三人でメリーゴーラウンドに乗った。沙耶は白い馬。ノアは茶色い馬。カナエは──馬ではなく、横の椅子型の席に座っていた。馬には乗らないという最後の抵抗。
ゆっくり回る。音楽が流れている。隣のカナエを見ると、窓の外の景色を眺めていた。海が見える。午前の光が水面に反射している。
カナエの横顔が、少しだけ柔らかく見えた。気のせいかもしれない。
昼食はフードコートで。ノアがカレー、沙耶がうどん、カナエがコーヒーだけ。
「カナエさん、それだけですか」
「朝食べた」
「お昼ですよ今」
「だから何」
ノアが自分のカレーからナンを一切れちぎって、カナエの前に置いた。カナエはそれを三秒ほど見つめてから、食べた。何も言わずに。
沙耶はうどんを啜りながら、その光景を見ていた。ノアの弁当を初めて食べたときのことを思い出した。「おいしい」しか言えなかった自分。今、カナエも同じことをしている。ナンを食べて、何も言わない。でも食べた。それが答え。
「おいしいですか?」
ノアが聞いた。
カナエはコーヒーを一口飲んで、
「普通」
ノアは「それカナエさんの『おいしい』でしょ」と笑った。沙耶は吹き出しそうになった。カナエの灰色の目がノアを射抜いたが、ノアは全く怯まなかった。
午後。ノアと沙耶はジェットコースターに二回乗った。カナエはベンチで待っていた。戻ってきたとき、カナエは本を読んでいた。鞄の中に文庫本を入れてきていたらしい。
「カナエさん、何読んでるんですか」
ノアが覗き込んだ。
「……触らないで」
「あ、ミステリーだ。カナエさんミステリー読むんですね」
カナエは本を閉じて、鞄にしまった。耳が少し赤い。
「行くわよ。次は何」
「え、カナエさんから『次は何』って言ってくれるんですか」
「早く終わらせたいだけよ」
ノアが沙耶に「ねえ聞いた?」と小声で言った。沙耶は頷いた。聞いた。カナエが「次は何」と言った。自分から次を求めた。
最後は観覧車だった。
三人で一つのゴンドラに乗る。沙耶とノアが向かい合って座り、カナエがノアの隣に座った。ゴンドラがゆっくり上がっていく。
灰谷市が見える。海が見える。午後の光が街全体を照らしている。お母さんと暮らした街。ノアの弟が目を覚ました街。カナエが一人で戦い続けた街。
ノアが窓に張り付いて「うわ、あたしの家あっちだ」と指を差している。沙耶も窓の外を見た。灰谷中央病院の白い建物が見える。
カナエは窓の外を見ていなかった。
沙耶がカナエを見ると、カナエは自分の手を見ていた。膝の上に置いた手。剣を握る手。人を守る手。その手が、今は何も握っていない。
「カナエさん」
「何」
「楽しい?」
長い沈黙。ゴンドラが頂上に近づいていく。街が小さくなる。空が広くなる。
「……わからない」
カナエが言った。
「わからないけど、不快ではないわ」
ノアが振り返った。「それカナエさんの『楽しい』でしょ」とは今回は言わなかった。ただ笑った。
沙耶も笑った。
ゴンドラが頂上を過ぎて、ゆっくり降りていく。夕暮れが近い。赤と橙が混ざり始めた空。お母さんが最後に見た色と同じ色が、三人のゴンドラを照らしていた。
帰り道。灰谷駅に向かう三人。ノアが真ん中、沙耶が右、カナエが左。
「また行こうね」
ノアが言った。
カナエは答えなかった。沙耶も答えなかった。
改札の前で、カナエが先に切符を通した。振り返らずに、歩いていく。
三歩目で、足が止まった。
「……次は、もう少しマシな場所にして」
それだけ言って、改札の向こうに消えた。
ノアと沙耶は顔を見合わせた。
「次、あるって」
ノアが笑った。沙耶も笑った。
帰り道、ノアが言った。
「カナエさんって、ナン食べたとき美味しそうな顔してたよ」
「してなかったよ。無表情だったよ」
「いや、してた。口の端がちょっとだけ上がってた。あたし見逃さなかったから」
沙耶は思い出そうとした。カナエの口元。ナンを食べた瞬間。思い出せない。でも、ノアが言うなら、そうだったのかもしれない。
ノアはそういう人だ。沙耶が「おいしい」しか言えなかったとき、「よかった」と笑ってくれた人。カナエが「普通」と言ったとき、それが「おいしい」だと読み取れる人。
言葉にならない9割を、拾ってくれる人。
沙耶は家に帰って、テーブルの上の便箋に目をやった。三行の手紙。
お母さんだったら、遊園地に行ったと言ったら何て言うだろう。
たぶん、何も言わない。でも翌朝の弁当に、いつもより一品多くおかずが入っている。
──楽しかったの、よかったわね。
そういう意味の、無言の一品。
沙耶はネックレスに触れた。冷たい銀。光はもうない。でも、今日は三人分の体温が残っている気がした。