薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
番外編②『まどかとカナエ』
まどかと会うのは三度目だった。
一度目は電話。声を聞いただけで、どちらも泣いた。二度目は見滝原の喫茶店。お母さんの話をして、お母さんのネックレスを見せて、また泣いた。
三度目の今日は、灰谷市。沙耶の街。
前日の夜、沙耶はまどかにメッセージを送った。「会ってほしい人がいます」。返事は三秒で来た。「行くよ」。理由は聞かなかった。
沙耶は先にカナエにも連絡していた。「日曜日、灰谷駅に来てほしい。紹介したい人がいる」。既読はついた。返事はなかった。でも当日の朝、カナエから一通だけ。「何時」。
日曜日。灰谷駅。午前十一時。
沙耶が改札の外で待っていると、カナエが先に来た。黒いコートに黒いパンツ。灰色の長い髪を下ろしている。
「早いね」
「たまたまよ」
たまたまではないだろう。カナエは約束の時間より早く来るタイプではない。緊張しているのだと沙耶は思ったが、言わなかった。
「今日来てくれる人は、わたしのお母さんの──」
「聞いてない。来ればわかるでしょう」
カナエは改札の方を見ている。表情はいつも通り平坦だが、コートのポケットに入れた手が、微かに握られている。
十一時二分。改札から桃色の髪が見えた。カーディガンにワンピース。小さな紙袋を提げている。周りの人より頭一つ分小柄で、人波に紛れそうになりながら出てきた。
まどかは沙耶を見つけて、手を振った。
「沙耶さん」
「まどかさん。ありがとうございます、来てくれて」
まどかが沙耶の隣に目を移した。灰色の髪。黒いコート。表情のない顔。鋭い灰色の目。
まどかの足が、一瞬だけ止まった。
沙耶は気づいた。まどかが何かを感じ取ったのだと。目の前の少女の雰囲気に──お母さんに近い何かを。
「まどかさん、こちらは常磐カナエさん。わたしと一緒に巣の中を戦ってくれた人です」
カナエはまどかを見た。桃色の髪。柔らかい目。沙耶から聞いていたのだろう、少しも驚かなかった。数秒の間を置いて、軽く頭を下げた。
「常磐カナエよ」
短い。それだけ。
まどかは笑った。穏やかで、でもどこか切実な笑顔だった。
「鹿目まどかです。……沙耶さんから聞いてます。沙耶さんを助けてくれて、ありがとうございます」
カナエの眉がわずかに動いた。
「助けたつもりはないわ。あの子が鍵だったから連れて行っただけ」
あの子。沙耶のことを、カナエはまどかの前で「あの子」と呼んだ。沙耶は少しだけ驚いた。いつもは「あなた」か「沙耶」だった。
「それでも」
まどかは引かなかった。
「一人で行かせなかったんですよね。最後まで、隣にいてくれた」
カナエは答えなかった。視線を逸らして、駅前のロータリーを見ている。
駅から歩いて三分のカフェに入った。窓際の席。まどかがホットココアを頼み、沙耶が紅茶を頼んだ。カナエはメニューを開かずに「ブラックで」とだけ言った。
三つのカップがテーブルに並んだ。ココアと紅茶とブラックコーヒー。甘いのと普通のと苦いの。三人の性格がそのまま出ている。
まどかが最初に口を開いた。
「カナエさんは、灰谷市でずっと一人で戦っていたんですよね」
「沙耶から聞いたの」
「はい。巣のことも、お仲間のことも」
カナエの手がカップの取っ手に触れたまま止まった。仲間。その一語に反応した。
沙耶は黙っていた。この場で自分が話すべきではないと思った。まどかとカナエの間に、何かが通い始めている。それを邪魔してはいけない。
「……三人いたの。沙耶の前に」
カナエが言った。沙耶は驚いた。カナエが自分から仲間の話をするのは初めてだった。巣の中でも、訓練の夜でも、一度もなかった。
「一人目は巣の調査中に結界の奥で消えた。二人目はソウルジェムが限界を迎えた。三人目は──」
カナエの声が、ほんの少しだけ、揺れた。
「三人目は、私の目の前で魔女になった」
カフェの喧騒が遠くなった。沙耶は息を止めていた。三人目の話は、今初めて聞いた。
「止められなかった。手を伸ばしたけど、届かなかった。それだけ」
それだけ。カナエはそう言い切った。声は平坦だった。報告書を読んでいるような口調。でも──カップの取っ手を握る指の関節が、白くなっていた。
まどかは黙って聞いていた。泣いてはいなかった。ただ、カナエの目を真っ直ぐに見ていた。
「カナエさん」
「何」
「わたしも、手が届かなかった側の人間です」
カナエの灰色の目が、まどかを見た。
「ほむらちゃんがこの街で沙耶さんを育てていたこと、わたしは何も知りませんでした。何年も、手紙一通を握ったまま、電話をかけることもできなかった。ほむらちゃんが死んだことも、最近まで知らなかった」
まどかの声は震えていなかった。静かだった。何度も何度も自分の中で整理して、言葉にする準備ができていた声だった。
「届かなかったんです。わたしも。……だから、届く人が羨ましかった。カナエさんは、沙耶さんの隣に間に合った。わたしはほむらちゃんに間に合わなかった」
沙耶はまどかを見た。喫茶店で見た穏やかな表情とは違う。今のまどかは、自分の傷を開いている。カナエの前で。同じ傷を持つ相手の前でだけ見せる顔。
カナエがコーヒーを一口飲んだ。それから、カップをテーブルに戻した。
「……あなたがそう思うのは勝手よ。でも間に合ったかどうかなんて、結果論でしかない」
「そうかもしれません」
「私だって、三人には間に合わなかった。沙耶に間に合っただけ。次はわからない」
「次」
まどかが繰り返した。カナエは窓の外を見た。
「この先も私は戦い続ける。ソウルジェムがある限り。いつか濁りきって、私も──」
カナエはそこで口を閉じた。言葉を切ったのではなく、言う必要がないと判断したのだろう。沙耶にはわかった。カナエがどう終わるつもりでいるか、言わなくてもわかった。
沙耶が口を開こうとした。でも、まどかの方が早かった。
「カナエさん。一つだけ、聞いてもいいですか」
「何」
「今日ここに来てくれたのは、沙耶さんに頼まれたからですか」
カナエは黙った。長い沈黙。沙耶も答えを知らなかった。カナエがなぜ来たのか。連絡先を知っているとはいえ、カナエが断る可能性の方がずっと高かった。
「……沙耶が、会ってほしいと言ったから」
「それだけ?」
「それだけよ」
まどかは微笑んだ。
「ほむらちゃんと同じことを言うんですね」
カナエの灰色の目が、初めて揺れた。
「ほむらちゃんもね、理由を聞くと『まどかが会いたいと言ったから』って。自分が会いたかったとは絶対言わないの」
沙耶は息を呑んだ。カナエの表情が──ほんの一瞬だけ、崩れた。崩れたというより、固まっていたものが溶けたように見えた。一秒にも満たない変化。でも沙耶は見逃さなかった。
カナエはコーヒーを飲んだ。何も言わなかった。
沙耶がトイレに立った。本当は席を外したかった。二人だけの時間を作りたかった。
洗面台で手を洗いながら、鏡を見た。白い髪。お母さんとは違う色の目。でもまどかは「似てる」と言った。座り方が同じだと。
一分ほど待ってから席に戻ると、二人の間の空気が変わっていた。
変わっていた、というより──力が抜けていた。カナエが背もたれに身体を預けている。いつもの「壁にもたれる」ではなく、椅子に任せている。まどかはココアの残りを啜っている。
何を話したのかは聞かなかった。聞かなくていいと思った。
「沙耶さん。カナエさんと電話番号を交換したの」
まどかがにっこり言った。カナエは窓の外を見ている。
「……勝手に言わないで」
「カナエさんから『番号』って言ってくれたんですよ」
沙耶はカナエを見た。カナエは沙耶を見なかった。
お母さんがまどかに電話番号だけの手紙を送った。まどかが沙耶に電話をかけた。今、まどかがカナエの番号を受け取った。
電話番号が人を繋いでいく。お母さんが始めた連鎖が、まだ続いている。
「カナエさん」
まどかが言った。
「かけてきてくれたら嬉しいです。いつでも出ますから」
「……かけるかどうかは私が決めるわ」
「うん。待ってます」
カナエはコーヒーカップを持ち上げた。空だった。それに気づいて、静かにテーブルに戻した。
会計は沙耶が出した。まどかが「わたしが」と言ったが、沙耶は首を振った。
「今日は、私が二人を呼んだから」
まどかは少し驚いた顔をして、それから「そっか」と笑った。
カフェを出た。灰谷市の午後の街。お母さんが沙耶を育てた街。街路樹の葉が風に揺れている。
三人で駅まで歩いた。カナエが少し前を歩いている。まどかと沙耶が並んで後ろを歩いている。
まどかが沙耶にだけ聞こえる声で言った。
「あの子。三人目の仲間が魔女になったとき、自分もああなるかもしれないって、ずっと思ってるんだね」
沙耶は頷いた。
「だから誰にも近づかない。近づいたら、また失う。失うくらいなら最初から一人でいた方がいい。……ほむらちゃんが転校してきた頃と同じ目をしてた」
まどかの声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。真剣だった。
「でもね、沙耶さん。ほむらちゃんも変われたの。時間はかかったけど。さやかちゃんがしつこく話しかけて、マミさんがお茶会に引きずり込んで、杏子ちゃんが横でご飯食べて。全員がしつこかったの。……そしたらほむらちゃん、笑うようになった」
前を歩くカナエの背中。黒いコート。灰色の髪。背筋が真っ直ぐに伸びている。
「時間はかかるかもしれないけど」
まどかが言った。
「あの子にも、しつこい人が必要だよ」
沙耶は前を歩くカナエを見た。ノアならできる。遊園地にも引きずり出したノアなら。
改札の前で立ち止まった。まどかが切符を買っている間、カナエと二人になった。
「カナエさん」
「何」
「今日、来てくれてありがとう」
カナエは沙耶を見た。灰色の目。いつもの鋭さ。でも──底の方に、いつもとは違う光が見えた気がした。
「……余計なお世話よ」
カナエはそう言って、歩き出した。改札は通らず、駅の反対方向に。歩いて帰るらしい。
三歩。五歩。十歩。カナエの背中が遠くなる。
「カナエさん」
沙耶が呼んだ。カナエが足を止めた。振り返らない。
「また呼ぶから」
カナエは振り返らなかった。でも、一秒だけ立ち止まっていた。それから、また歩き出した。
まどかが切符を持って戻ってきた。カナエの背中を見て、沙耶を見て、笑った。
「あの子、ほむらちゃんに似てるね」
「え?」
「不器用なところが」
まどかは改札を通った。振り返って、手を振った。
「また来るね。今度はノアさんにも会いたい」
「はい」
桃色の髪が人混みに消えた。
沙耶は駅前に立っていた。カナエが去った方向と、まどかが去った方向を、交互に見た。
ポケットのスマートフォンが震えた。カナエからだった。
一行だけ。
「コーヒー代、今度返す」
沙耶は笑った。お母さんだったらきっと、同じことを言う。