薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
第二話 距離感
沙耶の隣の席は、ずっと空いていた。
年度が替わって席替えがあったとき、窓際の最後列という位置を引き当てた沙耶の隣には誰も座らなかった。正確に言えば、最初は女子生徒が座っていたのだが、一週間も経たないうちに担任に頼んで席を替えてもらったのだ。理由は聞いていない。聞く必要もなかった。
空いた席には誰の鞄も置かれず、誰の教科書も広がらない。窓から差す光がそのまま机の上を通り過ぎて、床に落ちている。沙耶はときどき、その光の四角形をぼんやり眺めていた。誰かがいれば影になるはずの場所に、影がない。
だから、ある朝教室に入って隣の席に鞄が置いてあったとき、沙耶は少しだけ驚いた。
「おはよっ」
声のした方を向くと、栗色の髪をゴムで無造作にまとめた少女が立っていた。小柄で、童顔で、制服のカーディガンの袖が手の甲まで余っている。琥珀色の目がこちらを見上げていた。少しだけ眠そうな目。
見覚えがあるようなないような。同じクラスだったか。沙耶がクラスメイトの顔をほとんど覚えていないだけかもしれない。
「……おはよう」
反射的に返していた。声に出して挨拶を返したのがいつ以来か、思い出せなかった。
「私、灰原ノア。今日からここ」
ノアは椅子を引いて、当然のように隣に座った。まるで一年前からそこが自分の席だったかのような自然さで。
「席替え、あったの?」
「ううん。先生に頼んで替えてもらったの」
さらりと言う。つまり、前の女子生徒と全く逆のことをしたわけだ。沙耶の隣から離れたがった生徒がいる一方で、自分から来た生徒がいる。沙耶は少し面食らって、言葉を探す。
「……なんで?」
「窓際が好きだから」
ノアは窓の外に目をやって、うん、と小さく頷いた。気に入った場所を確認するような仕草。
「あと、この席空いてたから。空いてる席ってもったいなくない?」
そういう理由なのか。沙耶は納得しかけたが、ノアはまだ話していた。
「ねえ、暁美さんって、お昼どこで食べてる?」
「教室」
「一人で?」
「うん」
「じゃあ一緒に食べよう」
「……え?」
会話の運びが速い。沙耶は返事をする前に次の質問が来ることに慣れていなかった。お母さんとの会話は、いつも静かだった。長い間があって、短い言葉を交わして、またしばらく黙る。それが普通だった。
「あ、嫌だったら全然いいんだけど」
ノアはそう言いながらも、別に引く気配はなかった。琥珀色の目がまっすぐ沙耶を見ている。嘲りも、好奇心も、同情もない。ただ見ている。
沙耶は少し困って、結局「……別にいいけど」と答えた。
その日の昼、ノアは本当に隣で弁当を広げた。
沙耶のは卵焼きとウインナーと昨夜の残り。ノアのはコンビニのおにぎり二つとパックのお茶。二人並んで窓際で食べている姿は、遠目には友達同士に見えただろう。
「暁美さんのお弁当、毎日手作り?」
「うん」
「えらいなあ。私はもうコンビニ頼りだよ」
「作らないの?」
「作れなくはないけど、朝はぎりぎりまで寝ていたいし」
ノアは笑う。くすっという小さな笑い方だった。声が大きいわけではないのに、妙に耳に残る。
「暁美さんの髪、すごいきれいだよね」
「……きれい?」
「うん。かっこいいっていうか。こういう色の人、見たことないから」
気味が悪い、と言われるのには慣れている。珍しがられるのにも慣れている。でも「かっこいい」は初めてだった。
「普通は、変って言われるけど」
「変かな? 別にいいじゃない? 私はきれいだと思うよ」
ノアは特に力を込めるでもなく、おにぎりを齧りながらそう言った。お世辞ではないと、声の温度でわかった。
「目もいいよね。深くて」
「……ありがとう」
沙耶は視線を落として、卵焼きを箸でつまんだ。褒められた経験が少なすぎて、どういう顔をすればいいかわからなかった。
ふと、聞いてみたくなった。
「ノアさんは、前の席はどこだったの」
「あっちの真ん中あたり。友達が周りにいて賑やかだったんだけどね」
「……それなのに、わざわざこっちに来たの?」
ノアはおにぎりの最後の一口を飲み込んで、お茶を一口飲んだ。
「暁美さんがさ、いつもここで一人でお弁当食べてるの、前の席から見えてたんだよね」
沙耶は箸を止めた。
「お弁当の蓋を開けるとき、いつもちょっとだけ止まるでしょ。一瞬だけ、何か思い出すみたいな顔するの。それから食べ始める。毎日毎日、同じ」
見ていたのだ。沙耶のことを。前の席から、ずっと。
「別にかわいそうだとか思ったわけじゃないよ。ただ、もったいないなって」
「もったいない?」
「うん。あんなに綺麗なお弁当作れる人が、毎日一人で食べてるのは、もったいない」
ノアはパックのお茶をストローで吸いながら、窓の外に目をやった。
「お弁当って、誰かに見てもらった方がおいしくない?」
沙耶は何も言えなかった。お母さんがいた頃は、二人で向かい合ってご飯を食べていた。沙耶が作ったおかずを見て「今日はきんぴらが多すぎたわね」とお母さんが小さく笑っていた。あの頃は、見てくれる人がいた。
「……そうかもしれない」
声が小さくなった。ノアはそれ以上は何も言わず、パックのお茶を飲み干して、「ごちそうさま」と手を合わせた。
そこから、ノアは毎日隣にいるようになった。
朝、教室に来ると「おはよ」と言う。昼は隣で弁当を食べる。放課後、帰り支度をしながら「またね」と言う。沙耶が返事をしてもしなくても、ノアは変わらない。自然に隣にいて、自然に話しかけてくる。
押しが強いわけではない。沙耶が黙っていれば、ノアも黙って窓の外を見ている。でも沙耶が少しでも口を開くと、ノアはそこに言葉を返してくる。会話のキャッチボールというよりは、沙耶が落とした言葉をノアが拾っている、という感覚に近かった。
数日が経ったある日の昼休み。ノアがいつもより少し遅れて教室に来た。
「ごめん、ちょっと電話してた」
何でもないように言って席に着くが、沙耶はノアの目元が少しだけ赤いことに気づいた。泣いた後のような。
「……大丈夫?」
「え? うん、大丈夫だよ」
ノアは笑った。いつもの笑顔。でも、ほんの一瞬だけ間があった。笑顔を作るまでの、コンマ数秒の空白。
沙耶はそれ以上踏み込まなかった。自分だって、踏み込まれたくないことがあるのだから。
でも、少しだけ思った。ノアが沙耶の弁当を「前の席からずっと見ていた」ように、沙耶もノアの笑顔の奥を見始めている。お互いに何かを抱えていて、お互いにそれを見せないでいる。その距離感が、不思議と心地よかった。
放課後。
帰り支度をする沙耶に、ノアが声をかけた。
「ねえ、暁美さん。今日ちょっとうちに寄らない?」
「うち?」
「うん。この前引っ越してきたばかりで、まだ誰も呼んでないから。お茶ぐらいは出せるよ」
ノアの声はいつも通り軽かったが、その奥に微かな期待があるのを沙耶は感じ取った。断るのは簡単だ。いつもそうしている。誰かの誘いを断ることに、罪悪感を覚えなくなってから久しい。
でも、今日は少しだけ迷った。
「……ごめん。今日は帰る」
「そっか。残念」
ノアはあっさりと引き下がる。沙耶はそこで口を閉じればよかったのに、なぜか理由を口にしていた。
「お母さんが、帰ってくるかもしれないから」
言ってから、しまった、と思った。こんなことを人に話すつもりはなかったのに。
ノアは一瞬、動きを止めた。
鞄の紐に手をかけたまま、沙耶をじっと見ている。琥珀色の瞳が僅かに揺れて──それから、表情が変わった。ほんの一瞬だけ。沙耶がこれまで見たことのない顔。それは同情ではなかった。もっと生々しい、何か身に覚えのある痛みを映したような顔だった。
でもそれは本当に一瞬で、次にはいつもの穏やかな笑顔に戻っていた。
「そうだよね。じゃあ、また今度ね」
ノアは手を振って、先に教室を出ていった。カーディガンの袖が揺れて、廊下の角を曲がって見えなくなる。
沙耶は窓際に立ったまま、少しのあいだ動けなかった。
ノアのあの顔。あの一瞬の揺れ。何だったのだろう。「お母さんが帰ってくるかもしれない」という言葉に反応した、あの表情。
──帰ってこない誰かを、待っている顔。
沙耶はそう思って、すぐに打ち消した。考えすぎだ。ノアのことは何も知らないのに、自分の事情を投影するのは失礼だ。
鞄を持って、教室を出る。通学路を歩いて、帰宅して、鍵を開けて。
「ただいま」
返事はない。靴箱の中の、お母さんの靴は動いていない。
沙耶はネックレスに触れた。温かい。今日はずっと温かかった。授業中も、昼休みも。ノアと話しているあいだも。
「……暁美さん、じゃなくて沙耶、の方がいいかな」
誰もいないリビングで、沙耶は小さく呟いた。明日、ノアに名前で呼んでいいと言ってみようか。言えるだろうか。
テーブルの上の便箋に目をやって、今日は開かずに、夕食の支度を始めた。