薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
第三話 夜の迷路
その日の帰り道は、いつもより遅かった。
ノアに名前で呼んでいいかと伝えたら、「じゃあ私も沙耶って呼ぶね」と返されて、その流れで放課後の教室で三十分ほど話し込んでしまったのだ。たいした話ではない。好きな食べ物とか、苦手な教科とか。でも沙耶にとっては久しぶりの「たいした話ではない会話」で、それが妙に心地よくて、つい時間を忘れた。
時刻は六時半を過ぎていた。五月の日はまだ長いが、住宅街を抜けて裏道に入ると街灯の間隔が広くなり、薄暗さが足元に忍び寄ってくる。
沙耶はいつもの道を歩いている。角を曲がって、古いアパートの前を通って、公園の横を抜ける。この道は一年以上毎日歩いている。目を瞑っていても帰れるぐらいには、身体が覚えている。
だから、気づいた。
角を曲がったはずなのに、同じアパートの前に出た。
「……?」
足を止める。見間違いだろうか。いや、間違いない。さっき通ったアパートだ。一階の郵便受けに新聞が挟まっているのまで同じ。
もう一度歩く。公園の横を抜けて、角を曲がって──
同じアパート。同じ郵便受け。同じ新聞。
沙耶の背筋に、冷たいものが走った。
三回目。今度はアパートの前を通らず、反対方向に曲がった。知らない路地に入る。狭い。壁と壁の間がやっと一人通れるぐらいの幅しかない。こんな路地、この通学路にあっただろうか。
足元を見る。アスファルトの色がおかしい。灰色だったはずの地面が、赤紫に滲んでいる。ペンキを零したのかと思ったが、違う。アスファルトそのものの色が変わっている。
壁に手をつく。ざらついたコンクリートの感触──のはずが、指先に触れたのは湿った、生温かい何かだった。ぬるりと指が滑る。
沙耶は手を引いた。指先には何もついていない。でも確かに、さっきの感触は──
顔を上げた。
路地の壁が、溶けていた。
コンクリートの表面が蝋のように歪み、垂れ下がり、ありえない色彩を帯びている。黄緑と紫と灰色が混ざり合った、吐き気を催すような色。壁だったものがゆっくりと形を変え、人の顔のような、花のような、何でもないような形になっては崩れていく。
空が見えない。路地の上にあったはずの空が、いつの間にか天井になっていた。歯車のようなものがゆっくり回転している。ギチギチと、古い機械が軋むような音が響く。
「なに、これ……」
声が震えていた。足が竦む。逃げなきゃ。その一語が頭の中を占めるのに、足が動かない。
振り返る。来た道はもうなかった。路地の入口があったはずの場所は、赤紫の壁に塞がれている。
閉じ込められた。
この空間そのものが、沙耶を逃がす気がない。そう直感した。理屈ではない。空気が、匂いが、温度が、全てがそう告げていた。
走った。行ける方向に、ただ走った。路地は曲がりくねり、広がったり狭まったりを繰り返す。足元の色が変わる。壁が脈打つように蠢いている。天井の歯車はいくつも増えて、ギチギチギチギチと、絶え間なく耳に刺さっている。
行き止まりだった。
壁。三方を囲まれている。戻ろうとしたが、来た方向の通路も壁に変わっていた。完全に箱の中。
そのとき、頭上から何かが降りてきた。
それは──何と呼べばいいのかわからなかった。
白と黒のまだら模様の、球体のような、蟲のような、目玉だけが浮いているような。大きさは犬ほどもある。輪郭が曖昧で、見つめていると視界がぐにゃりと歪む。それが一つ、二つ、三つ。壁の裂け目から滲み出すように現れた。
音が聞こえた。声ではない。鈴を割ったような、不協和音のような、金属を引っ掻いたような音。それが彼らの鳴き声なのだと、沙耶の本能が理解した。
一つが動いた。沙耶に向かって。
速い。反射的に横に跳ぶ。さっきまで沙耶がいた場所の壁に、何かがぶつかる凄まじい音がした。壁が抉れている。人間の身体なら──考えたくなかった。
「やだ、来ないで……っ」
背中が壁に当たる。逃げ場はない。二つ目がこちらを向いた。目玉のような模様が、沙耶を見ている。
首が、熱い。
ネックレスだ。ペンダントトップが灼けるように熱くなっている。肌を焼くほどではないが、今まで感じたことのない強い熱。心臓に直接手を当てられたような、内側から沸き上がる熱。
沙耶は無意識にネックレスを握った。
「助けて」
誰に言ったのかもわからない。お母さんに言ったのかもしれない。ネックレスに言ったのかもしれない。ただ、口から零れ落ちた。
紫の光が弾けた。
手の中にあったペンダントトップが溶けるように形を変え、伸び、硬質化し──気づいたとき、沙耶の右手には紫色の、細長いランスが握られていた。
長さは沙耶の背丈ほど。刃先は鋭く、柄は掌に吸いつくように馴染んでいる。重さがない。いや、重さはあるはずなのに、まるで自分の腕の延長のように軽い。
紫のランスが薄闇の中で淡く光を放っている。その光に照らされて、蟲のようなそれらが僅かに怯んだように見えた。
身体が動いた。
考えるより先に、足が地面を蹴っていた。ランスを構え──構え方など知らないのに、身体が勝手に動いている──目の前の一匹に向かって突き出す。
紫の穂先が、まだら模様の球体を貫いた。
手応えがあった。生き物を刺した感覚ではない。風船に針を刺したような、ぱんと弾ける手応え。それは黒い粒子になって霧散し、消えた。
残り二つ。振り向きざまにランスを薙ぐ。一つに掠ったが、倒すには至らなかった。掠められた方が甲高い音を発して後退する。もう一つが横から突っ込んできた。
「くっ……!」
避けきれなかった。左の二の腕を何かが抉るように掠めた。灼熱。痛い。切れたのだとわかったのは、制服の袖が赤く滲んだのを見てからだった。
痛みで視界が白く飛ぶ。それでも倒れなかったのは、右手がランスを離さなかったからだ。握りしめたランスが、沙耶の身体を支えていた。
二匹が同時に来た。
沙耶は叫びながらランスを振った。技術も型もない、ただ力任せの一振り。腕の傷が裂けて血が飛ぶ。でも、紫の軌跡が二匹を同時に捉えた。
弾けて、散って、消えた。
静寂が降りた。
あの不気味な金属音が止んでいる。壁の脈動が収まっている。天井の歯車が動きを止め──そして、世界が剥がれ始めた。
赤紫の壁が端からめくれ上がり、その下からコンクリートの灰色が顔を覗かせる。天井がなくなり、夕暮れの空が広がる。歯車は光の粒になって溶けていく。
気がつくと、沙耶は見慣れた路地に立っていた。あの古いアパートの裏手。さっきまでの異常な空間は跡形もなく消えて、普通の、何の変哲もない裏路地に戻っている。
手の中のランスが光を失い、縮み、元のペンダントトップに戻った。首にかかったネックレスの一部として、何事もなかったかのように。
膝が折れた。
アスファルトに両手をついて、沙耶は荒い息を吐いた。左腕が燃えるように痛い。袖をまくると、二の腕に斜めの裂傷があった。深くはないが血が止まらない。制服は血と汚れでひどい有様だった。
身体中が痛い。走ったせいで足が震えている。ランスを振り回したせいで右手の指が痺れている。転んだのか膝を擦りむいていて、スカートのストッキングが破れている。
全部、自分の身体に残っている。あの空間での出来事が夢ではなかった証拠が、傷として刻まれている。ネックレスはあの不思議な槍に変わってくれたけれど、傷を治す力はくれなかった。沙耶にはこの傷を消す手段がない。
痛い。怖い。何が起きたのかわからない。
ネックレスに触れた。ペンダントトップは──もう冷たかった。さっきまでの灼けるような熱は嘘のように消えていた。でも確かに応えてくれた。呼んだら、応えてくれた。
「お母さん、これ……何なの」
血が滲む左手で銀のペンダントを握りしめて、沙耶は路地裏に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
頭上には夕焼けの残滓。薄紫に変わりつつある空に、一番星が光っていた。沙耶の白い髪が血と泥で汚れて、もう白くなかった。
立ち上がれたのは、十分以上経ってからだった。足を引きずりながら家に帰り、玄関を開けて、「ただいま」と言った。
返事はない。いつも通り。
洗面所で傷を洗って、ガーゼと包帯で自分で巻いた。お母さんに教わった、簡単な手当ての方法。まさかこんな使い方をする日が来るとは思わなかった。制服は血を水で流してから洗濯機に入れた。落ちるかわからない。替えのブラウスはあるけれど、スカートは一枚しかない。
風呂に入る気力はなかった。汚れたまま、ベッドに倒れ込む。左腕がずきずきと脈打つように痛む。目を閉じると、あの空間が瞼の裏に蘇る。溶けた壁。脈動する色彩。まだら模様のそれら。
──でも、ランスが手の中に現れた瞬間の感覚も、同じくらいはっきりと覚えていた。
あの紫の光。軽くて、温かくて、まるで誰かに手を引かれているような。
ネックレスを握る。冷たい銀。紫の光はもう消えている。
でも、お母さんが遺したこれは、ただのネックレスではなかった。沙耶を助けてくれた。呼んだら、応えてくれた。
なぜ。どうして。お母さんは何者だったのか。このネックレスは何なのか。
答えは出ない。身体は限界だった。
痛みと疲労の中で意識が遠のいていく。最後に思ったのは、明日の朝ノアに傷を見られたらなんて言おうか、ということだった。