薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ)   作:LongLong

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第一幕 第四話『痕』

第四話 痕

 

 翌朝、鏡の前で沙耶は途方に暮れた。

 

 左腕の裂傷はガーゼで覆ったが、包帯が制服の袖からはみ出す。右手の指は紫色に変色していて、握ると痛い。膝の擦り傷は絆創膏で隠せるとして、問題は顔だった。逃げ回っている最中に頬を擦ったらしく、右の頬骨のあたりが赤く腫れている。

 

 化粧で誤魔化す技術は沙耶にはない。お母さんは化粧をほとんどしない人だったから、教わる機会もなかった。

 

 結局、左腕はカーディガンの袖で隠し、顔は「転んだ」で押し通すしかないと判断して家を出た。

 

 教室に入った瞬間、ノアの目が沙耶を捉えた。

 

 「おはよ──」

 

 言いかけたノアの声が途切れた。琥珀色の目が沙耶の顔、腕、手を順番に見ていく。沙耶は視線を逸らして、いつも通り席に着いた。

 

 「沙耶」

 

 ノアは沙耶の机の横に来て、声を落とした。

 

 「その顔、どうしたの」

 

 「転んだだけ」

 

 「転んで頬にあんな傷つく?」

 

 「暗いところで転んだから。階段で」

 

 嘘が下手だという自覚はある。お母さんには「あなたは嘘をつくと声が平坦になるからすぐわかる」と言われたことがあった。

 

 ノアは沙耶の顔を覗き込むようにして見た。いつもの眠そうな目ではなかった。まっすぐで、静かで、引かない目。

 

 「腕も?」

 

 「……うん。同じとき」

 

 「見せて」

 

 「大丈夫だって」

 

 「大丈夫な人はカーディガンの左袖だけ不自然に引っ張らないよ」

 

 沙耶は口を閉じた。ノアは穏やかな顔をしているが、引き下がる気配がない。普段の「あっさり引く」ノアとは違っていた。

 

 「……ノア、本当に大丈夫だから。ちょっとした怪我」

 

 「ちょっとした怪我で右手の指あんな色になる?」

 

 沙耶はノアの目を見た。ノアもまっすぐに見返してくる。

 

 教室はまだ生徒がまばらで、二人の会話を聞いている者はいない。でもこれ以上ここで押し問答を続けるわけにもいかなかった。

 

 「説明できないの。嘘じゃなくて、本当に、説明できない」

 

 それだけ言った。嘘はつかない。でも本当のことも言えない。何が起きたのか自分でも理解できていないのだから。

 

 ノアはしばらく沙耶を見ていた。五秒か、十秒か。それから小さくため息をついて、自分の席に戻った。

 

 「……わかった。でも、もしまた怪我してきたら、絶対聞くからね」

 

 その声は怒っているのではなかった。心配している声だった。沙耶はそれに気づいて、胸の奥がきゅっと痛んだ。腕の傷とは違う痛み。

 

 午前中の授業は集中できなかった。

 

 身体が痛い。左腕を動かすたびに傷口が引き攣れて、鉛筆を握る右手も指が腫れているせいで力が入らない。ノートの字がいつもより汚い。

 

 それよりも、頭の中は昨夜のことでいっぱいだった。

 

 あの空間は何だったのか。溶ける壁、変わる色、まだら模様の何か。あれは現実だったのか。夢にしては傷が残りすぎている。幻覚にしては痛みが具体的すぎる。

 

 そしてネックレス。お母さんの遺したネックレスが、ランスに変わった。紫色の、長い槍のようなものに。呼んだら応えてくれた。「助けて」と言ったら、形を変えてくれた。

 

 なぜ。

 

 お母さんは何を知っていたのか。このネックレスが変形することを知っていたのか。あの空間のことを知っていたのか。

 

 知っていたはずだ、と沙耶は思った。知らないものを遺すわけがない。「これがあれば大丈夫」──あの一行は、このことを指していたのかもしれない。お母さんは知っていた。沙耶がいつかあの空間に巻き込まれることを。だからネックレスを遺した。

 

 でも、だとしたら。

 

 なぜ何も教えてくれなかったのか。なぜ説明の一つもなく消えたのか。

 

 答えは出ない。ぐるぐると同じ場所を回る思考は、あの夜ループした路地と似ていた。

 

 昼休み、ノアは何事もなかったかのように隣で弁当を広げた。

 

 コンビニのサンドイッチとパックの野菜ジュース。沙耶の弁当は今日も卵焼きとウインナーだが、右手がうまく使えないので箸が滑る。

 

 ノアはそれを見ていたが、何も言わなかった。代わりに、

 

 「沙耶って、料理はお母さんに教わったの?」

 

 「うん。基本的なものだけだけど」

 

 「お母さん、料理上手だったんだ」

 

 「……すごく上手だった。何でも作れる人だった」

 

 お母さんは無駄のない動きで料理をした。包丁の使い方が異様に正確だったのを覚えている。まるで何か別のものを扱い慣れた人の手つきだった。

 

 「他には何か教わった?」

 

 「怪我の手当て。……あと、走り方」

 

 「走り方?」

 

 「逃げるときは直線で走るなって。ジグザグに走れって」

 

 言ってから、奇妙なことを教わっていたな、と思った。当時は疑問に思わなかった。お母さんが言うことは全部正しいと信じていたから。でも今振り返ると、あれは日常の知恵ではない。もっと切迫した、実戦的な何かだった。

 

 「変わったお母さんだね」

 

 ノアはそう言って微笑んだ。馬鹿にしている声色ではなかった。

 

 「……うん、変わった人だった」

 

 沙耶も少しだけ笑った。

 

 その夜。

 

 宿題を終えて、風呂に入ろうと立ち上がったとき、沙耶は足を止めた。

 

 窓の外。暗い住宅街の奥で、何かが歪んでいる気がした。

 

 目を凝らす。街灯の光が一箇所だけ不自然に揺れている。陽炎のように。五月の夜にありえない揺れ方。あれは──昨夜と同じだ。空間が歪んでいる。

 

 ネックレスが熱を持ち始めていた。昨夜ほどではないが、確かな熱。

 

 沙耶は窓辺に立ち尽くした。

 

 行かなくていい。あれに近づかなければ、巻き込まれないかもしれない。昨夜は帰り道でたまたま遭遇しただけだ。家の中にいれば安全なはずだ。たぶん。

 

 でも、あの空間の中に人がいたら?

 

 考えたくなかった。でも考えてしまった。昨夜沙耶が巻き込まれたように、通りすがりの誰かが今あの中に閉じ込められていたら。あの蟲みたいなものに襲われていたら。

 

 沙耶は立っている。ネックレスは熱い。傷はまだ痛い。左腕を動かせば血が滲むかもしれない。右手の指はまだ紫色で、明日は包帯がもう一箇所増えているだろう。ノアにまた心配される。今度はもっと強く聞かれる。

 

 怖い。

 

 それは事実だった。あの空間は怖かった。あのまだら模様のものは怖かった。痛かった。死ぬかと思った。

 

 でも──ネックレスは応えてくれた。

 

 お母さんが遺したこれは、あの空間で戦えるものだった。お母さんは知っていた。そして、沙耶に遺した。「使うな」とは書かなかった。「これがあれば大丈夫」と書いた。

 

 まだ理由はわからない。お母さんが何者だったかもわからない。あの空間が何かもわからない。わからないことだらけだ。でも、ネックレスの意味を知りたい。お母さんがこれを遺した意味を知りたい。

 

 そのためには、逃げていてはだめだ。

 

 沙耶はスニーカーを履いて、家を出た。

 

 空間の歪みは、家から五分ほど歩いた先の、廃業したガソリンスタンドの裏にあった。

 

 近づくと、空気が変わった。温度が下がり、匂いが消え、街の音が遠ざかる。境目を越えた瞬間、世界が塗り替わった。

 

 今度は青かった。暗い、深海のような青。壁も地面も天井も、全てが青い鱗のようなもので覆われている。昨夜とは別の空間。でも、根底にある「異常さ」は同じだった。

 

 ネックレスが熱くなる。沙耶は握った。

 

 「──来て」

 

 昨夜は「助けて」だった。今夜は違う。紫のランスが手の中に現れる。光は昨夜と同じ、淡い紫。

 

 使い魔が現れた。今度は蟲ではなく、魚のような形をした、半透明の何か。三匹。

 

 昨夜よりは落ち着いていた。とはいえ技術があるわけではない。相変わらず振り回すだけだ。だが、昨夜一度経験したことで、身体の動かし方が少しだけわかっていた。ランスの重さ、リーチ、振ったときの慣性。相手がどのぐらいの速度で来るか。一度見ているのと見ていないのとでは、天と地の差がある。

 

 一匹を突き、一匹を薙ぎ、最後の一匹は向こうから体当たりしてきた。肩に衝撃。後ろに吹き飛ばされて背中を壁に打ちつける。

 

 「がっ……」

 

 息が詰まる。肺が潰れたかと思った。立て直すまでの数秒が致命的に長く感じられた。最後の一匹がもう一度突っ込んでくる。沙耶は地面を転がって避け、体勢を整える間もなくランスを下から振り上げた。

 

 紫の光が蒼い空間を切り裂いた。半透明の魚が弾け、散って、消えた。

 

 結界が崩壊する。青い鱗が剥がれ落ち、廃業したガソリンスタンドの裏手に戻る。

 

 沙耶はコンクリートの地面に座り込んだ。背中が痛い。肩が痛い。昨日の左腕の傷が開いたらしく、包帯に赤い染みが広がっている。

 

 息を整えて、立ち上がって、家に帰る。玄関を開けて、「ただいま」。返事はない。

 

 洗面所で服を脱いで、鏡を見た。

 

 左腕の裂傷。右手の紫色の指。頬の擦り傷。そこに加わった背中の打撲と、肩の痣。

 

 ひどい有様だった。十七歳の少女の身体ではなく、何かの事故に遭った人間の身体みたいだった。

 

 怖い、と思った。

 

 昨夜も怖かった。でもあのときは無我夢中で、恐怖を感じる暇がなかった。今は違う。冷静に、自分の傷だらけの身体を鏡で見ている。次はもっとひどい怪我をするかもしれない。次は避けられないかもしれない。次は──。

 

 鏡に映る自分の目を見た。黒い、深い目。お母さんに似ていない目。

 

 でも、鏡の中の自分は、泣いていなかった。

 

 怖い。でもネックレスは応えてくれる。お母さんが遺したこれは、戦うためのものだ。お母さんがなぜこれを遺したのか、その意味を知りたい。

 

 知りたいという気持ちは、怖いという気持ちよりも、ほんの少しだけ強かった。

 

 新しい包帯を巻いて、着替えて、ベッドに入る。ネックレスを握る。今夜は──ほんの僅かに、温かい気がした。

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