薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
第五話 白い獣
二度の夜を越えて、沙耶の身体はひどい有様だった。
左腕の裂傷は瘡蓋になりかけていたが、二度目の戦闘で開いた分がまだ塞がりきっていない。背中の打撲は広範囲に紫色になっていて、仰向けに寝ると痛みで目が覚める。右手の指の腫れはようやく引き始めたが、握力が戻らない。肩の痣は触れるだけで鈍く響く。
学校は休まなかった。休めば余計な注意を引く。包帯とカーディガンと絆創膏で武装して、いつも通りの顔で教室に入る。ノアは沙耶の顔を見るたびに唇を引き結んでいたが、あの日以来、無理に聞き出そうとはしなくなっていた。その代わり、昼休みになると黙って沙耶の隣にいた。
「沙耶、はいこれ」
ノアが差し出したのは、コンビニの袋だった。中身はスポーツドリンクと、栄養補助のゼリー飲料。
「ちゃんと食べてる? 顔色悪いよ」
「……食べてるよ」
「嘘。目の下のクマ、日に日に濃くなってるじゃない」
否定できなかった。夜の戦闘の後は興奮と痛みで眠れず、眠れても数時間で目が覚める。疲労が蓄積していくのを自分でも感じていた。
「ありがとう」
受け取って、ゼリーを開ける。甘い。疲れた身体に染み込んでいく感覚がわかる。
ノアは沙耶がゼリーを飲み終わるのを見届けてから、何でもないように言った。
「私にできることがあったら言ってね。何もできないかもしれないけど」
沙耶は少しだけ笑った。ノアの言い方は、お母さんに似ていると思った。押し付けがましくなく、でも確実にそこにいる。
「うん。ありがとう」
放課後、帰宅する。鍵を開けて、「ただいま」。返事はない。
制服を着替えて、脇腹の包帯を換える。ガーゼに染みた血は乾いて茶色くなっていた。新しいガーゼを当てて、テープで留める。消毒液が沁みて、小さく息を吐く。
リビングのソファに座って、天井を見上げる。
二晩で二回、あの空間に入った。二回とも、異形の何かが現れて、二回ともネックレスがランスに変わって、二回とも辛うじて生き延びた。
パターンが見えてきた。あの空間は毎晩どこかに発生している。場所は一定ではない。発生しているとき、ネックレスが熱を持つ。近づけば巻き込まれる。中にいるものを全部倒せば空間は消える。
でもそれだけだ。あの空間が何なのか、なぜ発生するのか、中にいるものが何なのかはわからない。ネックレスがなぜランスに変わるのかもわからない。
わからないことだらけの中で、沙耶は毎晩傷だらけになっている。
──お母さんなら、答えを知っているはずだ。
そう思って、また胸が痛くなる。帰ってきてくれれば全部わかるのに。
夕食を作って食べて、食器を洗って、風呂に入る。ネックレスを外して、洗面台の上に置く。一日の中で、ネックレスが身体から離れる唯一の時間。
湯船に浸かると、全身の傷が一斉に悲鳴を上げた。沁みる。痛い。でも温かさが身体の芯に届くと、少しだけ楽になる。お母さんがいた頃は、湯船に花の入浴剤を入れてくれた。沙耶はラベンダーの匂いが好きだった。
風呂から上がり、髪を乾かし、ネックレスを首にかけ直す。銀のペンダントトップが、湯上がりの肌にひやりと触れる。中心の紫の光が、暗い部屋で微かに灯っている。
窓の外を見た。
今夜はネックレスに熱がない。あの空間は発生していないのかもしれない。少し安堵して──同時に、僅かな落胆も感じた。答えに近づく機会が一日遠のいたような気がして。
自分が何を考えているのか、沙耶自身よくわからなかった。怖いのに、また行きたいと思っている。痛いのに、ネックレスが応えてくれる感覚をもう一度味わいたいと思っている。
ベッドに腰をかけたとき、ふと視線を感じた。
窓の外。二階の窓の外に、何かがいる。
沙耶は息を止めた。
カーテンの隙間から覗く。電柱の上──いや、電線の上に、白い小動物が座っていた。
猫、ではない。猫に似た体型だが、耳が異様に長い。尻尾のようなものが背中から伸びている。白い体毛に覆われた、見たことのない生き物。そして、その赤い目が、まっすぐに沙耶を見ていた。
沙耶はカーテンを閉めた。心臓が速い。あれは何だ。野生動物か。こんな街中に。あんな目をした動物がいるのか。
数秒迷ってから、もう一度カーテンを開けた。
まだいた。同じ場所に、同じ姿勢で。赤い目がこちらを見ている。
窓を開けた。五月の夜風が頬を撫でる。白い生き物は微動だにしない。
そのとき、声が聞こえた。
──やあ。
口が動いていない。声は空気を通ってではなく、頭の中に直接響いていた。
──驚かせてしまったかな。僕はキュゥべえ。君に話があって来たんだ。
沙耶は窓枠を掴んだまま固まった。テレパシー。そんな言葉が浮かんだが、信じたくなかった。でもあの空間を二度経験した今の沙耶には、「ありえない」と切り捨てる余裕がなかった。
「……あなたは、何」
声に出して問う。白い生き物──キュゥべえは、ぴょんと電線から跳んで、窓枠に着地した。近くで見ると、目には感情がなかった。瞳孔がない。赤い宝石がはまっているような、作り物じみた目。
──僕はインキュベーター。魔法少女を生み出す存在だよ。
「魔法少女」
沙耶は繰り返した。馴染みのない言葉のはずなのに、唇がすんなりとその音を形にした。
「……魔法少女って、何」
──願いと引き換えに力を得た少女たちのことだよ。僕と契約して、魔女と戦う存在だ。
「魔女」
──君がここ数日、入り込んでいた空間を作っているのが魔女だよ。
心臓が跳ねた。あの空間に名前がある。あれを作っているものがいる。
「あの空間には、名前があるの?」
──魔女の結界、と呼ばれている。魔女が生み出す異空間だ。普通の人間には見えないし、入ることもない。
「じゃあなんで、私には見えたの」
キュゥべえの赤い目が、すっと沙耶の首元に向いた。
──そのネックレスだよ。
沙耶の手が、反射的にペンダントトップを握った。
「これが……?」
──それには、ソウルジェムの残滓が使われている。
「ソウルジェムって、何」
──魔法少女の魂だよ。
短い言葉だった。でもその意味が頭に届くまでに、数秒かかった。
魂。このネックレスに、誰かの魂が。
「……誰の」
──君の母親のものだね。
息が止まった。
──暁美ほむら。かつて僕が知る中でも、最も特異な魔法少女だった。
暁美ほむら。お母さんの名前が、この作り物のような目をした生き物の口から出てきた。沙耶の心臓が、肋骨を叩くように鳴っている。
「お母さんが……魔法少女だった……」
──そうだよ。
「このネックレスが、お母さんの魂から作られたってこと?」
──正確には、ソウルジェムの残滓だね。その残滓が君に反応して、身体能力の向上と魔女を感知する力を与えている。
沙耶は黙って、ネックレスを見下ろした。銀の、小さなペンダントトップ。紫の光が体温で温かい。この中に、お母さんの魂の欠片がある。
「……お母さんは、どうしてこれを作ったの」
──自分のソウルジェムを削って、別の器に移し替えたんだ。それは命を削るのと同じことだよ。並の魔法少女にできることじゃない。
命を削る。お母さんは、命を削って、このネックレスを作った。
「なんで、そこまで……」
──さあ。彼女の意図までは僕にはわからないよ。ただ、一つ面白い設計がある。このネックレスには、意図的に契約機構を阻害する仕組みが組み込まれている。
「契約機構……?」
──君には魔法少女の素質がある。本来なら僕と契約して魔法少女になれるはずだ。でも、そのネックレスがある限り契約は成立しない。
沙耶は眉を寄せた。言葉を噛み砕く。ネックレスが、契約を弾いている。お母さんがわざわざそういう仕組みを入れた。つまり──
「お母さんは、私を魔法少女にしたくなかったってこと?」
──そういうことになるね。
キュゥべえは尻尾を揺らした。感情のない声で、まるで天気の話をするように。
沙耶はペンダントトップを握りしめた。紫の光が、いつものように温かい。でも今、この温かさの意味が変わった。これはただの光ではない。お母さんの命の欠片が、ここにある。
お母さんは知っていた。この世界のことを。魔女のことを。結界のことを。全部知っていた上で、沙耶には何も言わず、ただこのネックレスだけを遺した。魔法少女にはさせない。でも戦える手段は与える。
「なんで……何も言ってくれなかったの」
声が掠れた。キュゥべえに向けた言葉ではなかった。
キュゥべえは感情のない赤い目で沙耶を見ていた。
──僕としては、君に契約してもらいたいところなんだけどね。現状では不可能だ。そのネックレスを外せば契約はできる。
「しない」
即答だった。考える必要もなかった。
──だろうね。
キュゥべえは窓枠から電線に飛び移った。
──しばらく君のことは観察させてもらうよ。魔法少女でもないのに結界で戦う人間、というのは初めてだからね。
白い体が夜の闇に溶けていく。最後に赤い目だけがちらりと光って、それも消えた。
沙耶は窓を閉めて、カーテンを引いた。
ベッドに座る。足が震えていた。寒いわけではない。
お母さんは魔法少女だった。あの長い黒髪の人は、あの空間と同じ世界に生きていた人だった。魔女を知っていた。結界を知っていた。使い魔を知っていた。
そして──自分の魂を削って、沙耶のためにネックレスを作った。沙耶が魔法少女にならなくても戦えるように。あるいは、戦わなくても大丈夫なように。「これがあれば大丈夫」。あの一行は、そういう意味だった。
沙耶はテーブルの上の便箋を手に取った。今日何度目かわからない。三行の手紙。角の擦り切れた便箋。
──これがあれば大丈夫。
──あなたは強い子。
──愛してる。
今なら、一行目の意味が少しだけわかる。
二行目と三行目の意味は──まだ、わからなかった。
沙耶はネックレスを握ったまま、目を閉じた。涙は出なかった。泣くにはまだ、知らないことが多すぎた。