薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
第六話 灰谷の異変
キュゥべえとの会話から数日が経った。
沙耶の日常は、表面上は変わっていなかった。朝起きて、手紙を読んで、学校に行って、ノアと昼を食べて、帰宅する。でも内側は──全く違うものになっていた。
お母さんは魔法少女だった。このネックレスにはお母さんの魂の欠片が入っている。あの空間は魔女の結界で、あの化け物は使い魔で、沙耶がそれを見えるのはネックレスのおかげ。
名前がついた。今まで「あの空間」「あれ」としか呼べなかったものに、全部名前がついた。それだけで世界の見え方が変わる。
そしてもう一つ、変わったことがある。
ネックレスの熱を、以前より頻繁に感じるようになった。
登校中、商店街を抜ける途中で微かに熱くなる。スーパーの裏手を通ったとき、じわりと温度が上がる。公園の隅、古い雑居ビルの前、線路の高架下。ネックレスが反応する場所が、日に日に増えている。
結界の痕跡だった。完全に展開していなくても、その兆候──空間の歪みの種のようなもの──があちこちに散らばっている。以前は気づかなかっただけなのか、それとも本当に増えているのか。
キュゥべえに訊いた。学校からの帰り道、いつの間にか塀の上に座っていた白い生き物に。
「ねえ。最近、結界が増えてない?」
──増えているよ。この街の魔女の発生頻度は、ここ一ヶ月で三倍以上になっている。
「三倍……なんで?」
──原因はまだ特定できていない。ただ、一つ言えるのは、この街を守っていた魔法少女たちが機能しなくなっていることだ。
「守っていた魔法少女?」
──灰谷市には、僕と契約した魔法少女が四人いた。いや、いたんだ。
「いた?」
──一人は二ヶ月前に失踪した。二人は精神的に不安定になって戦えなくなった。残りの一人は──まだ戦っているけれど、一人では手が回らないようだね。
沙耶は足を止めた。四人いた魔法少女が、実質一人になっている。その一人も限界に近い。だから結界が処理されないまま増え続けている。
「失踪した子は、どうなったの」
──わからない。ソウルジェムの反応が消えた。死んだか、この街を離れたか。
キュゥべえは淡々と言った。人の生き死にを語る声とは思えない平坦さだった。
「精神的に不安定って、どういうこと?」
──魔法少女は精神状態がソウルジェムに直結する。恐怖、不安、絶望──そういった感情がソウルジェムを濁らせる。濁りきれば、魔女になる。
「魔女に……なる?」
──そうだよ。魔法少女が絶望すれば、魔女になる。それがこのシステムの仕組みだ。
沙耶は言葉を失った。
魔法少女が、魔女になる。戦っている相手に、自分がなる。お母さんも、その可能性があったということか。
「お母さんも……そうなる可能性があったの」
──もちろん。全ての魔法少女にその可能性がある。暁美ほむらも例外じゃない。
足が重くなった。歩いているはずなのに、前に進んでいる気がしなかった。
その夜、沙耶は結界に入った。
自分から、だ。ネックレスが熱を持ったのは午後九時過ぎ。場所は自宅から十分ほど歩いた先の、閉館後のコミュニティセンターの裏手。
もう何度目かわからない。結界の入口を見つけて、ネックレスを握って、「来て」と呼ぶ。紫のランスが手の中に現れる。この一連の動作は、もう身体が覚えていた。
今夜の結界は黄色だった。粘着質な黄色い壁と、蜂蜜のように粘る空気。使い魔は蝶の形をしていた──ただし、羽の模様が人間の顔になっている。
三匹。
一匹目は突きで仕留めた。ランスの穂先が正確に核を捉える。以前よりも「どこを突けば倒せるか」がわかるようになっていた。
二匹目は羽から粉のようなものを撒いてきた。吸い込みそうになるのを息を止めて回避し、横薙ぎで叩き落とす。
三匹目を仕留めた瞬間、結界が崩壊した。
コミュニティセンターの裏手に戻る。今夜は軽傷だ。右の手首を捻っただけ。以前と比べれば上出来だった。
ランスがペンダントトップに戻る。沙耶はネックレスを見下ろした。
──そして、気づいた。
ペンダントトップの紫の輝きが、ほんの僅かに薄くなっている。
最初は気のせいかと思った。街灯の加減か、汗で曇ったのか。指で拭ってみる。変わらない。以前はもう少し鮮やかに紫が灯っていたはずなのに、今はどこか鈍い。くすんだ、という程ではない。でも確実に、何かが減っている。
帰宅して、洗面所の照明の下で確かめた。やはり薄い。一ヶ月前の紫と今の紫──その違いは僅かだが、毎日肌に触れているものだから、沙耶にはわかった。
嫌な予感がした。
翌日の放課後、沙耶は帰り道でキュゥべえを探した。探すまでもなかった。校門を出て三分も歩かないうちに、電柱の上にいた。
「ネックレスの光が薄くなってる気がする」
──気のせいじゃないよ。
キュゥべえは電柱から飛び降りて、塀の上を歩きながら答えた。
──そのネックレスに込められている魔力は有限だ。使うたびに消費される。ランスに変形するとき、身体能力を向上させるとき、結界を感知するとき。全部、魔力を消費している。
「消費って……元に戻らないの?」
──グリーフシードで修復はできる。ソウルジェムの浄化と同じ原理だ。倒した魔女が落とすグリーフシードを使えば、ある程度は回復する。
「ある程度?」
──器に入っている魔力の「純度」までは戻せない。暁美ほむらのソウルジェムから移し替えられた魔力は、使えば薄まる。グリーフシードで量は補充できても、質は元に戻らない。
沙耶は立ち止まった。
「つまり……使えば使うほど、お母さんの魔力が薄くなっていくってこと?」
──そういうことだね。
風が吹いた。五月の風はもう初夏の匂いを含んでいた。沙耶の白い髪が揺れる。
使えば、減る。戦えば、薄くなる。お母さんが命を削って注ぎ込んだ魔力が、一回の戦闘ごとに失われていく。グリーフシードで量は補えても、お母さんの魔力そのものは戻らない。
つまり──戦えば戦うほど、お母さんの遺したものが消えていく。
「……」
沙耶は黙ってネックレスに触れた。紫の光がくすんでいる。昨日まではもう少しだけ明るかった紫。
じゃあ、使わなければいい。戦わなければ、お母さんの魔力は減らない。ネックレスはこのまま、お母さんの欠片を抱えたまま、沙耶の首に下がっていてくれる。
──でも、この街では魔女が増え続けている。魔法少女が機能しなくなって、結界が処理されないまま放置されている。放置された結界に一般人が迷い込めば、命を落とす。
使わなければお母さんの遺したものが守れる。使わなければ誰かが死ぬ。
沙耶は歩き出した。キュゥべえは何も言わずについてくる。
「ねえ」
──なんだい?
「お母さんがこれを遺したのは、『使うな』って意味じゃないよね」
──さあ。僕には彼女の意図はわからないよ。
「聞いてない。私が言ってるの」
キュゥべえは沙耶を見上げた。赤い、感情のない目。
沙耶はネックレスを握った。紫の光が薄くなっている。でもまだ温かい。
「お母さんは『これがあれば大丈夫』って書いた。大丈夫っていうのは、しまっておけば大丈夫って意味じゃないと思う」
キュゥべえは何も答えなかった。答えを求めてもいなかった。
沙耶は家に帰った。夕食を作って、食べて、食器を洗って。風呂に入って、ネックレスをかけ直して。
窓の外を見た。ネックレスが微かに熱を持っている。どこかで結界が生まれようとしている。
スニーカーを履いた。
使えば減る。戦えば薄くなる。でも──お母さんがこれを遺してくれた意味を、しまい込んで守ることはできない。
沙耶は夜の灰谷市に出た。