薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ) 作:LongLong
第七話 邪魔
それは、今までとは明らかに違っていた。
結界に入って三十秒で、沙耶はそう悟った。
いつものように使い魔が現れると思っていた。蟲のような、魚のような、蝶のような──異形だが、いくつか戦ううちにパターンが見えるようになった小さな敵。ランスで突けば弾けて消える、あの程度のもの。
だが今夜の結界は、空気からして違った。
重い。息を吸うだけで胸が圧迫される。結界の色は黒に近い紫で、壁も地面も天井も、全てが脈動している。今までの結界にも脈動はあったが、これは桁が違う。心臓の鼓動に似たリズムで、空間全体がどくん、どくんと拡張と収縮を繰り返している。
使い魔が現れた。七匹。今まで一度に三匹以上と戦ったことはなかった。
ランスを構える。一匹目を突く。弾けて消える。二匹目に薙ぎ払い。三匹目が横から来た。左腕で庇うしかない。衝撃が走るが、倒れずに耐えて四匹目を突く。
五匹目の体当たりを肩で受けた。衝撃で後ろに跳ばされる。六匹目が追撃してくる。地面を転がって避け、起き上がりざまに突き上げる。
残り二匹。息が上がっている。腕が重い。
そのとき、結界の奥から、何かが来た。
使い魔ではなかった。
それは──巨大だった。天井に頭が触れるほどの大きさ。人型ではないが、植物でも動物でもない。強いて言えば、歪んだ燭台のような形をしていた。無数の腕がぬめぬめと蠢き、頂点には炎のようなものが灯っているが、その炎は光ではなく闇を放っていた。見つめているだけで意識が引きずり込まれそうになる。
使い魔とは格が違うと、身体が理解した。今まで戦ってきたのは雑兵で、これが本体なのだと。
魔女。
キュゥべえが言っていた。結界を生み出す存在。使い魔の親玉。魔法少女が絶望の果てに変わったもの。
残っていた使い魔二匹が、魔女の周囲に吸い寄せられるように退いた。まるで王の前に控える兵士のように。
魔女の腕の一本が、こちらに伸びた。
速い。沙耶が反応するより速かった。横っ腹に衝撃。身体が宙を浮いて、壁に叩きつけられた。
「がっ──」
背中と後頭部を同時にぶつけた。視界が明滅する。口の中に血の味が広がる。舌を噛んだ。
立て、と頭が命令する。立てない、と身体が答える。
魔女の腕がもう一本伸びてくる。今度はゆっくりと。仕留め損なった獲物をいたぶるように。
ランスを持ち上げようとする。右手が震えて、持ち上がらない。さっきの衝撃で肩が外れかけているのかもしれない。
腕が迫る。闇の炎が沙耶の顔を照らした。熱くはない。冷たい。凍えるような冷気が肌を撫でる。
死ぬ。
そう思った瞬間──
閃光。
沙耶の視界を、紺色の光が横切った。
魔女の腕が、根元から断ち切られていた。切断面から黒い霧が噴き出し、魔女が初めて声を上げる。金属を捻り潰したような、耳を劈く悲鳴。
紺色の光の正体は、一人の少女だった。
深い紺色の衣装を纏っている。魔法少女の変身衣装。灰色の長い髪をハーフアップにまとめ、切れ長の灰色の目が魔女を──魔女だけを見据えている。手には細身の長剣。刀身が紺色の光を帯びている。
少女は地面を蹴った。
一歩で魔女との距離を詰める。沙耶の目には残像しか映らなかった。剣が一閃。魔女の腕が一本、根元から落ちる。二閃。もう一本。三閃。三本目。動きに一切の無駄がなかった。どこを切れば魔女の動きが止まるか、完璧に把握している。まるで何百回もこの魔女と戦ったことがあるかのような精度。
沙耶は壁にもたれたまま、目を離せなかった。
これが、魔法少女。
沙耶がランスを滅茶苦茶に振り回して、傷だらけになって、辛うじて使い魔を倒してきた──その同じ世界で、この少女は踊るように戦っている。剣が軌跡を描くたびに紺色の光が尾を引く。美しかった。美しくて、恐ろしかった。自分とは何もかも違う。
魔女が後退しようとした。少女はそれを許さない。追撃の四閃目が魔女の胴体を縦に裂いた。
悲鳴。結界が揺れる。
少女は跳躍した。魔女の頭上──燭台の頂点、闇の炎が灯る場所に向かって。高い。人間に出せる跳躍ではない。重力を無視しているようにすら見えた。剣を逆手に構え、真上から突き刺す。
沈黙。
魔女は動きを止めた。少女の剣が深々と突き立てられた状態で、魔女の身体が端からほどけていく。黒い粒子になって、散って、消えていく。最後に小さな種のようなものが地面に落ちた。
結界が崩壊する。紫黒の壁が剥がれ、天井が消え、見慣れた灰谷市の裏路地が戻ってくる。
少女は地面に着地した。着地の音すらほとんどしなかった。落ちた種──グリーフシードだ、と沙耶は思った──を拾い上げ、自分のソウルジェムにかざした。僅かに濁っていた宝石が、少しだけ澄んだ。一連の動作が流れるように滑らかで、沙耶はそこにも差を感じた。自分がグリーフシードを拾ったときは手が震えていた。この少女には震えがない。
それから、ようやく少女は沙耶の方を見た。
灰色の目。感情がないわけではない。はっきりと、不快感がある。
「……何、あなた」
声は冷たかった。刃物のように薄く、硬い声。
沙耶は壁に背を預けたまま、ランスを──もうペンダントに戻っている──握って答えた。
「暁美沙耶……灰谷高校の二年」
「聞いてないわよ、名前は。あなたが何者かって聞いてるの。ソウルジェムがない。変身もしていない。なのにどうして結界の中にいるの」
「このネックレスが──」
「見ればわかるわよ。ソウルジェムの残滓でしょう。誰のかは知らないけれど」
少女はネックレスを一瞥しただけで見抜いた。そして沙耶の傷だらけの身体──壁にぶつけた背中、血が滲む口元、まともに動かない右肩──を見下ろした。
「それで魔女と戦おうとしていたの」
「……うん」
「馬鹿じゃないの」
短く、断定的に言い放たれた。
「ソウルジェムもない人間が結界で戦う? 治癒もできない、変身もできない、魔力もない。使い魔相手にどうにかなっても、魔女には勝てない。今のを見ていたでしょう。一撃で壁に叩きつけられて動けなくなる──それが、あなたの限界よ」
沙耶は何も言えなかった。全部正しかった。
少女は剣を消し、変身を解いた。紺色の衣装の下から現れたのは──灰谷高校の制服だった。
「……同じ学校?」
「三年の常磐カナエ。あなたのことは知らない。知る必要もなかったから」
カナエは沙耶から視線を外して、裏路地の出口に向かって歩き始めた。灰色の長い髪が背中で揺れる。背が高い。姿勢がいい。歩き方に一切の無駄がない。
「邪魔よ」
背中を向けたまま、カナエは言った。
「あなたが結界に入ると、魔女の注意が分散する。私が仕留めるタイミングがずれる。それだけで効率が落ちるの。ソウルジェムもないのに戦場をうろつく偽物は、はっきり言って迷惑以外の何でもない」
偽物。
その言葉が、沙耶の胸に刺さった。
反論しようとした。でも、何を言えばいいのかわからなかった。カナエの言うことは全部正しい。沙耶は魔法少女ではない。ソウルジェムもない。治癒もできない。今日だって、カナエが来なければ死んでいた。
偽物。魔法少女の真似事をしている、ただの人間。
「……」
カナエが路地の角を曲がろうとした。
「待って」
声が出た。掠れていたが、出た。
カナエが足を止めた。振り返りはしない。
「偽物で結構。でも──私はこれしか持ってない」
ネックレスを握った。紫の光がくすんでいる。お母さんの命の色。
「お母さんが遺してくれたこのネックレスしか、私には何もないの。魔法少女じゃないのはわかってる。邪魔だってこともわかってる。でも──」
カナエがようやく振り返った。灰色の目が、沙耶を射抜いている。
「これを使わないなら、私は何のために生きてるかわからない」
長い沈黙があった。
路地裏に風が通り抜けた。五月の終わりの、少しだけ蒸した夜風。
カナエは鼻で笑った。嘲りとも、呆れとも取れる短い息。
「死にたいなら勝手にすればいいわ。でも私の邪魔だけはしないで」
それだけ言って、カナエは角を曲がった。足音が遠ざかる。やがて聞こえなくなる。
沙耶は裏路地に一人残された。
壁に背を預けて、空を見上げた。星は見えない。街の明かりが邪魔をしている。
身体中が痛い。背中、肩、口の中。右肩は自分で動かせる程度には大丈夫そうだが、明日は確実に腫れる。
偽物。
その言葉がまだ、耳の奥に残っている。
否定はできなかった。否定する材料がない。沙耶はソウルジェムを持たない。契約もしていない。魔法少女ではない。ネックレスの力を借りて戦場に立っているだけの、ただの人間。
でも──退くつもりはなかった。
退いたら、ネックレスの意味がなくなる。お母さんがこれを遺した理由が、消えてしまう。
沙耶はゆっくりと立ち上がった。足を引きずりながら家に向かう。途中、自動販売機でスポーツドリンクを買った。冷たい液体が切れた口の中に沁みて、顔をしかめる。
帰宅して、「ただいま」。返事はない。
洗面所で傷を洗って、湿布を貼って、包帯を巻く。もうこの作業にも慣れてしまった。慣れたくなかったけれど。
ベッドに倒れ込む。天井を見る。
カナエ。常磐カナエ。灰谷高校の三年生。キュゥべえが言っていた「残りの一人」は、彼女のことだったのだろう。あの強さ。あの速さ。あの正確さ。沙耶とは比べものにならない。
本物の魔法少女と、偽物の自分。
その差を、今夜はっきりと思い知らされた。
でも、沙耶はネックレスを握ったまま目を閉じた。偽物でもいい。これしかないのだから。
これしかないのだから、これで行く。