薄紫のネックレス(魔法少女まどか⭐︎マギカ)   作:LongLong

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第二幕 第八話『弟』

第八話 弟

 

 きっかけは、些細なことだった。

 

 昼休み、いつものように窓際で弁当を食べていたとき、ノアのスマートフォンが鳴った。

 

 ノアは画面を見て、一瞬だけ表情を固くした。「ちょっとごめん」と言って教室を出ていく。沙耶はその背中を見送った。

 

 前にも同じことがあった。電話の後、目元を少しだけ赤くして戻ってきたことがあった。あのとき沙耶は踏み込まなかった。自分だって踏み込まれたくないことがあるから。

 

 五分ほどしてノアが戻ってきた。今日は目元は赤くなかった。でも、笑顔を作るまでの間が──あのときと同じコンマ数秒の空白が、あった。

 

 「ごめんね、お待たせ」

 

 「……大丈夫?」

 

 「うん。大丈夫だよ」

 

 いつもの言葉。いつもの笑顔。でも、ノアの手がスマートフォンを握りしめているのが見えた。指の関節が白くなるほど、強く。

 

 沙耶はおにぎりを一口食べて、それからゆっくりと口を開いた。

 

 「ノア。私、嘘つくの下手だって自分でわかってるんだけど」

 

 「うん。知ってるよ」

 

 「……ノアも、そうだよね」

 

 ノアの手が止まった。琥珀色の目が沙耶を見る。数秒の沈黙。教室の喧騒が遠くなる。

 

 「……バレてた?」

 

 「最初からなんとなく。電話の後、いつも少しだけ顔が違う」

 

 ノアはパックのお茶を一口飲んで、窓の外に視線を向けた。校庭では体育の授業をやっている。誰かの笑い声が聞こえる。

 

 「弟がいるの」

 

 沙耶は黙って聞いた。

 

 「中学一年生。半年前から、入院してる」

 

 「入院……」

 

 「目が覚めないの。ある日突然倒れて、そのまま。検査しても原因がわからないって。意識不明の──昏睡状態、って言われた」

 

 ノアの声は落ち着いていた。でも、落ち着かせているのだと沙耶にはわかった。何度もこの話を自分の中で反芻して、感情が溢れないようにパッケージングしてきたのだろう。

 

 「それで、お母さんが付きっきりで看病してて。お父さんは仕事しないと入院費が払えないし。だから私は、なるべく普通にしてようって」

 

 「普通に」

 

 「うん。学校に行って、ちゃんとご飯食べて、笑って過ごして。そうしてないと、全部崩れちゃいそうで」

 

 沙耶は何も言えなかった。ノアの言葉が、自分の中の何かと重なって痛かった。

 

 お母さんがいなくなった朝。手紙を読んで、「行ってきます」と言って、学校に行った。泣かなかった。普通にしていた。普通にしていないと、全部崩れてしまいそうだったから。

 

 「さっきの電話は?」

 

 「お母さんから。今日も変わりないって」

 

 変わりない。それは良いことなのか、悪いことなのか。悪化していないから良い。でも回復もしていないから悪い。そういう曖昧な報告を、ノアは毎日受けている。

 

 「ずっと一人で抱えてたの」

 

 「一人じゃないよ。家族がいるし。……でも、学校では誰にも言ってなかった。言ったら、心配されるから。心配されると、私が泣いちゃうから」

 

 ノアは笑った。いつもの穏やかな笑顔。でも今は、その笑顔が何を隠しているか沙耶には見えている。

 

 「沙耶に言ったのは初めて」

 

 「……なんで、私に」

 

 「だって沙耶も同じだから」

 

 沙耶は息を吸った。

 

 「沙耶も一人で何か抱えてて、笑わないし泣かないし、普通のふりしてる。私と一緒。だから……言えるかなって、思った」

 

 窓から差し込む光がノアの栗色の髪を透かしている。眠そうな目が、今だけ真っ直ぐに開いていた。

 

 「ありがとう。話してくれて」

 

 それしか言えなかった。でもノアは「うん」と頷いて、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。

 

 放課後。ノアと一緒に病院に向かった。

 

 「来てくれるの?」

 

 「うん。いい?」

 

 「……ありがとう」

 

 灰谷中央病院。五階建ての、古いが清潔な病院。ノアの弟──灰原ユウキ、十三歳──は四階の個室にいた。

 

 病室に入ると、白いベッドの上で少年が眠っていた。ノアに似た栗色の髪と、少し丸い輪郭。小柄な身体にパジャマが大きすぎる。点滴の管が一本、腕に繋がっている。

 

 眠っている、というより、止まっている──そう感じた。人が眠るときの微かな動き──寝返り、瞼の震え、呼吸のリズムの揺れ──そういうものが一切ない。心電図のモニターだけが、規則正しい電子音を刻んでいる。

 

 「ユウキ、来たよ。友達も一緒」

 

 ノアはベッド脇の椅子に座って、弟の手を握った。返事はない。

 

 「今日ね、学校でさ、沙耶って子のお弁当見たの。すっごい綺麗なの。卵焼きとウインナーと、きんぴら。毎日自分で作ってるんだって」

 

 ノアはユウキに話しかけ始めた。いつもこうしているのだろう。学校であったことを、返事のない弟に報告する。声はいつもの明るさを保っている。でも手は、ユウキの指をずっと握っている。

 

 「ユウキも卵焼き好きだったよね。甘いやつ。お母さんが作るのと、私が作るのと、どっちが好きって聞いたらお母さんって即答したんだよね。ひどいよね」

 

 笑いながら話している。ベッドの上のユウキは動かない。栗色の髪。丸い頬。ノアによく似た輪郭。この子が笑ったら、きっとノアと同じ穏やかな笑顔になるのだろう。

 

 枕元に本が一冊置いてあった。冒険小説。栞が途中に挟まっている。

 

 沙耶は少し離れた場所に立っていた。病室の空気は冷たく、消毒液の匂いが薄く漂っている。

 

 ──そのとき、首元が熱くなった。

 

 ネックレスだ。ペンダントトップが、微かに──でも確実に熱を帯びている。

 

 結界の近くで感じるのと同じ熱。この病室に、あの空間と同じものがある。

 

 沙耶は息を殺した。ノアに気づかれないように、ネックレスに触れる。熱は弱いが、持続している。波があるのではなく、ずっと一定の温度で灯っている。何かが、この場所に留まっている。結界のように展開しているわけではないが、その種のようなものが──

 

 ユウキの周囲に、ある。

 

 「沙耶? どうしたの」

 

 ノアが振り返った。沙耶は手をネックレスから離した。

 

 「ううん。何でもない」

 

 嘘をついた。嘘が下手な自分が、嘘をついた。

 

 でも今、ノアにこの話はできない。「弟さんの昏睡は、たぶん魔女の結界が関係している」なんて、どう言えばいいのか。そもそも沙耶自身、確信があるわけではない。ネックレスが反応した。それだけだ。

 

 ただ──直感は告げていた。この少年は、普通の病気で眠っているのではない。

 

 「ノア。ユウキくんが倒れたのって、半年前って言ってたよね」

 

 「うん。去年の十一月」

 

 「倒れた場所って、覚えてる?」

 

 「学校の帰り道だったって。通学路の──ちょっと外れた路地裏」

 

 路地裏。沙耶の頭の中で、何かが繋がりかけた。路地裏。結界は人の恐怖や絶望が溜まる場所に発生しやすい。薄暗い路地裏は、まさにそういう場所だ。

 

 「急にどうしたの?」

 

 「ごめん、ちょっと気になっただけ」

 

 ノアは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

 

 帰り道、二人は並んで歩いた。夕暮れの灰谷市。遠くでカラスが鳴いている。

 

 「沙耶。来てくれてありがとう」

 

 「ううん」

 

 「なんか、一人で行くよりずっと楽だった。弟の顔見るの、いつもちょっとだけ怖くて。今日と昨日で何も変わってないって確認するのが怖くて」

 

 変わらないことの怖さ。それは沙耶にも痛いほどわかった。お母さんの靴がずっと下駄箱にあること。便箋がずっとテーブルの上にあること。何も変わらないまま時間だけが過ぎていく恐怖。

 

 「ユウキくん、冒険小説好きなの」

 

 「え? ああ、枕元のやつ見た? うん。ああいう冒険ものが好きで、いっつも読んでた。宝を探しに行く話。秘密基地を作る話。倒れる前の日も、寝る前に読んでたって。──栞、あの日のまま」

 

 ノアの声が少し小さくなった。

 

 「目が覚めたら、続き読めるかなって。だから動かさないでって、お母さんに言ってるの」

 

 沙耶は何も言えなかった。栞が半年間、同じページに挟まっている。それはユウキの時間が止まっているということ。沙耶のテーブルの上の便箋と同じ。動かせないもの。動かしたくないもの。

 

 「また一緒に行こうか」

 

 「……いいの?」

 

 「うん」

 

 ノアは笑った。今日初めての、肩の力が抜けた笑顔だった。

 

 でも──その笑顔の直前、ほんの一瞬だけ、ノアの琥珀色の目に別の光が走ったのを沙耶は見た。期待。病室でネックレスが反応したことに、ノアは気づいていたのかもしれない。沙耶の首元のペンダントが、ユウキの傍で光ったことに。

 

 もしそうなら──ノアは今、沙耶に何かを期待している。弟を助けてくれるかもしれない、と。

 

 沙耶はそれを責める気にはなれなかった。半年間眠り続ける弟を持つ姉が、目の前の友達に希望を見てしまうのは当然だ。

 

 でもノアは、それを口にしなかった。「沙耶のネックレス、さっき光ってたよね」とは聞かなかった。聞けばよかったのに。聞かなかったのは──たぶん、その期待が自分勝手だと、ノア自身がわかっているからだ。

 

 友達の不思議な力を、弟のために使おうとしている自分を、ノアは好きになれないのだろう。

 

 沙耶は隣を歩くノアの横顔を見た。笑っている。でもその笑顔の底に、ほんの少しだけ──自分を許せない何かが沈んでいる気がした。

 

 夜。自室のベッドに座って、沙耶はネックレスを見下ろしていた。

 

 病院で感じた熱。あれは間違いない。結界と同じ反応。ユウキの昏睡は、魔女──あるいはそれに類するものが原因だ。

 

 半年前から昏睡。半年前から灰谷市の魔女が増え始めた。キュゥべえが言っていた。この街の異変はここ一ヶ月で加速しているが、兆候自体はもっと前からあったのかもしれない。

 

 ユウキは、その最初の被害者なのかもしれない。

 

 ネックレスを握る。紫の光がくすんでいる。お母さんの命の色。使えば減る。戦えば薄くなる。

 

 でも──ノアの弟は、今もあのベッドの上で止まっている。

 

 沙耶の中で、何かが変わった。

 

 これまで戦っていたのは、お母さんの遺したものの意味を知りたいから。自分のためだった。でも今は、もう一つ理由がある。

 

 ノアの弟を助けたい。ノアに、弟が目を覚ましたところを見せたい。

 

 それは義務感ではなかった。ノアが沙耶の隣に座ってくれたから。「かっこいい」と言ってくれたから。弟のことを、沙耶にだけ話してくれたから。

 

 沙耶はネックレスを握ったまま、目を閉じた。

 

 明日から、もっと強くならなきゃいけない。

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