京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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制度や歴史は【もしもこんな日本だったら】を参照。


慶仁王と伊勢湾の濁流
1 若き宮と白百合の記憶


 昭和三十四年、九月初旬。

 学習院中等科の廊下を、初秋の少し乾いた風が吹き抜けていく。

 一人の少年が旧館の窓辺に寄りかかり、校庭で球を追う同級生たちをぼんやりと見下ろしていた。

 学年章は中等科の三学年であることを示している。

 少年の名は慶仁。伏水宮系皇族の一人であった。

 慶仁は,成年後伏水宮系諸家を実務的に統制する「新世代の藩屏の長」となるべく、周囲の期待の中で育てられ、来月には由緒ある「京極宮」の宮号を継承することが既定路線となっていた。

 そのすぐ隣には、一人の少年が影のように控えていた。

 名を六条雅武と言い、旧羽林家の家格を有する六条子爵家の次男である。

 また、慶仁とは乳兄弟であり,幼保園以来の学友でもあった。

 

「……雅武。お前は本当に、伊勢には来ないのだな」

 

 慶仁が不機嫌そうに呟くと、雅武は困ったような、しかし申し訳なさそうな微笑を浮かべた。

 

「申し訳ございません、殿下。母が……六条の家の者が、『殿下の京極宮号継承の儀に、粗相があってはならない』と。父も兄も不在の折故、名代として私が残って、装束の寸法合わせや挨拶状の整理を手伝うことになっております」

 

 慶仁は窓枠を指先でなぞった。

 

「……京極宮か」

 

 彼の周囲には常に大人たちの期待と重圧が渦巻いていたが、当の本人にはまだその重みを咀嚼しきれていない、少年特有の未熟さと苛立ちがあった。

 

「私が居らずとも、五辻の正成をはじめ、何名か学友が同行いたしますから」

 

 と、雅武が宥めるように言葉を継いだ。

 

「ふん。正成は頭は良いのだが華奢だからな。お前がいた方が、剣道の稽古相手にも困らないのだが」

 

 慶仁は窓枠を指先で弾いた。雅武は、慶仁と同じ乳を分け合って育った、兄弟も同然の存在だ。厳しい期待と重圧に晒される慶仁にとって、雅武との時間は唯一、肩書きを忘れて「少年」に戻れる一時だった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「殿下。このような所においででしたか」

 

 背後からかけられた透き通るような声に、慶仁は肩をわずかに揺らして振り返った。

 そこに立っていたのは、中等科の最終学年に在籍する松殿寛子だった。十六歳の彼女は、九条公爵家の分家にして、清華家の家格を有する松殿侯爵家の長女であり、慶仁より四歳年上の「御学友兼教育係」であった。

 血統・教養・品格のすべてにおいて完璧と謳われる彼女は、慶仁の妃候補としても最有力な立場であり、正式な内定前にも関わらず、周囲からは慶仁の将来の妃として扱われていた。

 

「……寛子か。千代も一緒か」

 

 寛子の斜め後ろには、同じ制服に身を包んだ一人の少女が、影のように静かに控えていた。

 千代と呼ばれた少女は寛子の乳母の娘として寛子と同じ乳を分け合い、松殿家に仕える身となってからも、常に寛子の影となって寄り添ってきた。幼き日より姉妹同然に育ち、学業の成績も良かった彼女を、外部者の常駐を許さぬ学習院の規則を重んじた松殿家が、学費を負担して「生徒」として在籍させ、常に寛子の身の回りを支えさせているのだ。

 慶仁にとって、寛子のいる所には必ず千代がおり、彼女の控えめな微笑みもまた、「寛子の世界」の欠かせない一部であった。

 

「雅武さんもご一緒でしたのね。お二人で何をそんなに難しい顔をなさっていたの?」

 

「別に、どこにいようと何を話していようと私の勝手だろう」

 

 照れ隠しからわざとぶっきらぼうに返す慶仁に対し、寛子は優雅に微笑んだ。その微笑みには、未来の夫を導く教育係としての慈愛と、家格に裏打ちされた凛とした強さがあった。

 寛子の微笑みに雅武は居住まいを正して一礼した。

 

「私が伊勢に同行できないことを、殿下が惜しんでくださっていたのです」

 

「殿下。雅武さんは殿下の京極宮号継承の儀が恙無く執り行われるよう残られるのですから困らせてはなりませんよ。雅武さん、殿下をお支えするお役目宜しくお願い致しますね」

 

「畏まりました」

 

 寛子の言葉に一礼する雅武。

 

「わかっている」

 

 慶仁はそっぽを向いたが、寛子は少しも気分を害した様子を見せず、静かに歩み寄った。

 

「もうすぐ伊勢への御出立でございますね。来月の十三の誕生日を過ぎればすぐに継承の儀でございます。宮号継承を控える重要な御参拝。将来、諸家を束ねる立場となられる殿下にとって、神前での『立志』の誓いは重要でございます。お心の準備はよろしいでしょうか」

 

 そして、慶仁の少し歪んでいた詰襟のホックを、しなやかな指先で直す。

 その背後で、千代が手鏡とハンカチを胸元に抱いたまま、まるで姉が弟を愛でるのを見守るように、ふふっと微かに口元をほころばせた。

 

「大丈夫だ、寛子。お前も、まわりの大人たちと同じことを言うのだな」

 

「私は殿下のお供を仰せつかった身でございます。殿下が神宮にて立派に『志』を立てられるよう、お支えするのが務めですから」

 

 至近距離で漂うほのかな白檀の香りと、大人びた彼女の穏やかな視線、そして千代の忍び笑いに、慶仁は顔を赤らめて一歩後ずさった。

 

「……頼りにしてなどいない。私は一人でやれる」

 

 慶仁が照れ隠しからわざとぶっきらぼうに窓の外に視線を投げると、寛子は少しも気分を害した様子を見せず、わずかに悪戯げな表情を浮かべた。

 

「ふふっ。頼もしいお言葉でございます。殿下が初等科四年生の時、私の裾を翻す悪戯をなされましたが、あの頃から思えば、随分とご成長なされましたね」

 

 寛子の言葉に慶仁は瞬時に顔を赤らめた。

 

「あ、あの頃のことは言うな。あの時は……悪かった」

 

「申し訳ございません、ほんの戯言にございます。ですが殿下。時には私を頼ってくださるのも、殿下の御度量というものでございますよ」

 

 軽やかに笑う寛子の姿は、十二歳の少年にはあまりにも眩しく、圧倒的だった。数ヶ月後に彼女が卒業して社交界へ出て行けば、自分はこの学園に取り残される。その焦燥感が、慶仁を帝王学へと猛烈に駆り立てる原動力となっていた。

 

「……雅武がいないのは心細いが、寛子達の他にも学友達や気心知れた侍従たちがついてくるのだ。大仰に構える必要もないだろう」

 

 慶仁のぶっきらぼうな言葉に、寛子と千代、そして雅武が顔を見合わせ、楽しげな笑い声を上げた。

 

「左様でございますね。私も千代や、他の学友、気心の知れた侍女たちが同行致します。それに宮中から遣わされる妃教育の御指南役にも同行頂けるので安心しております」

 

 四人の間に流れていた時間は、間違いなく世界で最も清らかで、美しいものだった。

 慶仁を導く寛子の光。

 寛子を支える千代の献身。

 そして、慶仁の帰る場所を守る雅武の忠義。

 そのどれか一つでも欠けることなど、この時の彼らには想像すらできなかった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 九月二十三日。

 皇居において秋季皇霊祭の儀がしめやかに執り行われた後、慶仁はそのまま京極宮家継承にあたり「志」を立てるべく、伊勢の神宮へと向かった。

 雅武は赤坂の邸の玄関で、深く頭を下げて彼らを見送った。

 

「殿下。お気をつけて。東京で、最高の祝宴を準備してお待ちしております」

 

「ああ。土産話を楽しみにしておけ、雅武」

 

 それが、少年たちが交わした「日常」における最後の会話となった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 九月二十五日。

 神宮は、荘厳な静寂と微かな雨の匂いに包まれていた。

 正装に身を包んだ慶仁は、玉串を捧げ、深々と頭を下げた。皇族の藩屏として新時代の日本を背負うという重大な覚悟を神前に誓うその後ろ姿を、寛子は少し離れた場所から見守っていた。

 儀式の最中、慶仁の横顔からは学園で見せていた幼さが消え去り、皇族としての確かな威厳の片鱗が立ち上っていた。寛子は、その小さな背中に国家の未来を重ね、胸の奥で静かに祈りを捧げた。

 

 儀式を終えた夜、行在所として用意された宿舎の部屋の前で、慶仁は寛子を呼び止めた。

 

「寛子。……これを」

 

 慶仁が不器用に差し出したのは、首から提げられるよう紐の付いた、小さな菊結びのお守り袋だった。そこには、彼が継承する京極宮家の御印が誇り高く刺繍されていた。

 

「殿下……これは?」

 

「お前は、いつも私の世話ばかり焼いているからな。……その、礼だ。持っておけ」

 

 目を逸らしたまま口にする慶仁に対し、寛子は小さく息を呑み、やがてその目元を柔らかく和ませた。両手で大切にそれを受け取り、胸元に抱く。

 

「まあ……」

 

 千代も感嘆の吐息を漏らすと、我が事のように目を輝かせた。寛子は千代と顔を見合わせて幸せそうに頷き合うと、再び慶仁へと向き直った。

 

「殿下からの初めての賜り物……。生涯、肌身離さず大切にいたします」

 

 嬉しそうに微笑む寛子を見て、慶仁は「大げさな奴だ」と呟きながら、少しだけ得意げに鼻を鳴らした。

 穏やかな夜の、ささやかで幸せなひととき。

 しかし、運命の歯車はすでに狂い始めていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 明けて二十六日。

 伊勢での参拝を終えた一行を待っていたのは、巨大化する台風十五号の凶報であった。

 

「殿下、既に風雨が強まっております。これ以上の移動は危険です。伊勢に御逗留頂くか、あるいは京都の大宮御所か華族邸へ一旦避難されるべきかと」

 

「気象台もこれほどのものは前例がないと……」

 

 随行の侍従たちは、青ざめた顔で慶仁を説得した。しかし、十二歳の少年の瞳には、宮家としての強い自覚が宿っていた。

 

「いや、予定通り帰京する。国民が台風の恐怖に晒され、各地で被害が出ようとしている時に、私だけが安全な場所で足を止め、休むわけにはいかない。一刻も早く東京へ戻り、陛下の御手伝いをしなければならないのだ」

 

 その断固たる決意に、傍らにいた寛子が静かに口を開いた。

 

「殿下。御志は尊く存じますが、今は御身の安全こそが陛下の御心にかなうものかと。どうか、御再考くださいませ」

 

 聡明な彼女が窘めるように諭したが、慶仁はこれだけは首を縦に振らなかった。

 

「寛子、お前は私についてくれば良い。私は京極宮の宮号を継ぐ者として、なすべきことを成す。汽車の速度も以前より上がっていると聞く。ラジオの情報を基に私が計算したところ、今から向かえば台風が襲来する前に名古屋を抜けられる。名古屋さえ抜ければあとは一路東京に戻るだけだ」

 

 この強い責任感が、一行を未曾有の死地へと向かわせることになる。

 

 

 自然の猛威は少年の気高き志をあざ笑うかのように異常な速度で台風を発達させていた。

 




学齢

6→7が初1(7歳になる年)
7→8が初2(8歳になる年)
8→9が初3(9歳になる年)
9→10が初4(10歳になる年)
10→11が中1(11歳になる年)
11→12が中2(12歳になる年)
12→13が中3(13歳になる年)
13→14が中4(14歳になる年)
14→15が中5(15歳になる年)
15→16が中6(16歳になる年)
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