京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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10 再会

 四月の終わり。

 京極宮邸の庭では遅咲きの山桜がまだわずかに花を残していた。

 慶仁は、書斎の窓辺に立ち、庭を渡る風の音に耳を澄ませていた。

 その風は、十六年前の雨の夜とは違い、冷たさではなく、どこか柔らかい匂いを含んでいた。 

 

(……寛子。私は、ようやく……) 

 

 そこまで思いかけた時、扉が静かに叩かれた。 

 

「殿下。宮内大臣より、妃選定に関するご報告がございます」

 

 雅武の声だった。

 慶仁は短く息を吸い、ゆっくりと振り返った。 

 

「……そうか。通してくれ」 

 

 侯爵との会談から一月半。

 胸の奥に沈めていた言葉を初めて外へ出したあの日から、彼の心はまだ揺れていた。

 だが、十六年もの間、胸の奥で凍りついていた何かが、いま、ほんのわずかに溶け始めている。その変化を、慶仁自身が最もよく分かっていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 五月中旬。

 西園寺真理子との接見を数日後に控えた慶仁は、かつて寛子や雅武と訪れたこともある奥多摩の山中へ、雅武と数名の側衛官を供にお忍びで足を向けていた。

 治水事業の視察という名目ではあったが、本当の目的は、雨が降るたびに生じる胸の疼きを、新緑溢れる山の空気で癒すためだった。

 幾分か荒れた林道を歩き、沢が合流する地点が近づくにつれ、周囲の空気が微かに張り詰めてきた。

 自然な動きで側衛官が二人を囲む。 

 

「殿下、お下がりを」 

 

 雅武がスッと慶仁を庇うように前に出る。木立の奥、あるいは巨岩の陰。姿こそ見えないが、確実にこちらを値踏みし、接近を阻もうとする剣呑な視線がいくつも潜んでいた。

 だが、息を呑むようなその緊張は、木立に潜む者たちが慶仁の顔を認めた瞬間に、明らかな「戸惑い」と「焦り」へと変わった。

 雅武も慶仁も即座に悟った。彼らは危害を加える刺客ではない。誰かを守るためにこの山中へ配されているのだ。と。

 張り詰めた空気を縫うように、山間に乾いたハンマーの音が響いた。

 

「この音は……?」

「殿下。あの者です」 

 

 警戒を解かぬまま雅武が視線を向けた先──前方の急斜面、岩が露出した露頭にへばりつく一つの人影があった。その姿は、かつて共に学問に励み、桑名に散った学友、五辻正成を彷彿とさせる華奢さだった。だが、繊細な筆を走らせる学生であった正成に対し、その影が振るうハンマーの軌道には、迷いのない力強さが宿っていた。 

 

(彼らは、あの者を守っているのか。何者だ?) 

 

 戸惑いを隠せない雅武や側衛官たち。 

 

「……危ういな。あのような場所で、何をしている」 

 

 慶仁はそう呟くと、雅武が制止する間もなく、その影に向かい歩を進めた。 

 

「六条様。どうやらあの者ども」 

 

 いつでも慶仁を庇える位置にいた側衛官が雅武に囁く。 

 

「ああ。あの者を守る護衛のようだが、油断は禁物。行くぞ」 

 

 背後に雅武達の気配を感じつつ、慶仁は、泥にまみれたその背中に近づいた。 

 

(なんと。男(おのこ)にしては華奢だと思えば女(めのこ)であったか) 

 

 そこにいたのは、使い込まれた登山用のキャラバンシューズに、厚手のニッカポッカという本格的な野外踏査の装いに身を包んだ女性だった。

 彼女は広げた地形図らしき図面と目の前の岩肌を交互に見比べながら、小さな方位磁針のような金属の計器を岩に押し当てて何かを測り、土色帖と思しき手帳を開いては細かく記録をつけている。

 足元には岩盤の強度を測る筒状の無骨なリバウンドハンマーが転がり、腰に提げた生成りの帆布の試料袋は、長年の調査で染み付いた泥ですっかり変色していた。

 カン、カンと岩肌を地質ハンマーで叩くたび、無造作に結ばれた乱れた髪が揺れ、頬にはねた泥が乾いてこびり付いている。 

 

「そこの者。そこは足場が脆い。危ういぞ」

 

 その声に彼女が振り向いた瞬間、慶仁は心臓を素手で掴まれたような衝撃を受けた。

 寛子とは似ていない。だが、その眼差しには、強烈な既視感があった。

 

「其方は……澄子……か?」

 

 慶仁の口から、嘗て寛子の後をついて周り、自身も寛子の妹分として可愛がっていた寛子の従妹の名が無意識にこぼれた。

 作業の手を止めた女性──九条澄子は、驚いたように目を見開いた。だが次の瞬間、彼女は泥の付いた手で、かつての妹分としての無邪気さとは程遠い、凛とした仕草で深々と一礼した。 

 

「殿下。……お久しゅうございます。六条様も。お目にかかるのは……十数年ぶりでございますね」 

 

 立ち上がった彼女の腰には、重そうに膨らんだ数枚のキャンバス地の標本袋と、手には図面が握られている。 

 

(九条公爵家の澄子様であったとは。では、あれは九条公爵家の護衛か) 

 

 雅武は微かに力を抜いた。 

 

「其方、ここで何をしておる」 

 

 そう声をかける慶仁が、澄子の図面に目を留めた。 

 

「それは……随分と細かい図面だな。市販の地図ではないのか?」 

 

 彼女が握っている地図が市販の地図ではない事は、遠目からでもわかった。

 慶仁の問いに、澄子は図面の端を指先でなぞった。 

 

「はい。これは市販の地図を、さらに私が現場で歩測して修正した地形図です。市販の地図には載らないような、数メートルの岩の綻びが、山の命運を分けることもございますから」 

 

 日光に晒されて微かに退色した、独特の青みをおびた複写図面だ。そこには、等高線の隙間を埋めるように、彼女自身の筆跡でびっしりと地質記号が書き込まれている。

 澄子が修正したという『地形図』の上には、パステルのような淡い色鉛筆で、パッチワークのように色が塗られていた。 

 

(……やはり、子供の遊びの延長か)

 

 慶仁はそう思ったが、よく見るとそれが堆積岩や火成岩の分布を示す専門的な「地質図」であることに気づいた。 

 

(あれは岩石の分布か? 子供の遊びとは違うという事なのか?) 

 

 図面に興味を抱いた慶仁は、それを見せてもらおうと澄子に尋ねた。

 

「……少し、近くで見せてもらってもよいか」 

 

 澄子は泥のついた指先を気にするように一度手袋でぬぐい、ためらいがちにその図面を彼の方へと傾けた。

 顔を近づけた青焼きの図面からは、古い紙の匂いと、ひんやりとした土の香りがした。慶仁の視線が、淡く塗られた色彩の境界線を追う。ただの塗り絵ではない。尾根と谷の起伏に沿って、地層の境界が恐ろしいほどの緻密さでトレースされている。走向と傾斜を示す小さな記号が、まるで山脈の骨格を透視するように無数に打ち込まれていた。

 慶仁は、彼女の図面に踊る「頁岩」「破砕帯」といった無骨な漢字の羅列と、等高線を無視して引かれた赤い「断層線」の書き込みを凝視した。それは、およそ深窓の令嬢が嗜む遊びとはかけ離れた、山の解剖図だった。

 

「澄子、其方は……これを一人で?」

 

「私ができることは、石を調べ、土を測ることだけですから」

 

 澄子は淡々と答えた。

 慶仁は、彼女の作業着の裾に付いた、湿った黒い土をじっと見つめた。 

 

「其方は……九条の姫が、なぜこのような場所で泥にまみれている。妃選定の資料には『石蹴り遊び』とあったが、これがそうなのか」

 

 慶仁の問いに、澄子はわずかに苦笑いを浮かべた。その表情は、かつて寛子の後ろで笑っていた、あの8歳の少女の面影を微かに残していた。 

 

「遊びと呼ぶには、少々体力が要ります。私は……ここの露頭を調べております。この地域の地層は蛇紋岩が混入したメランジュ構造を呈しています。風化が激しく、地下水の通り道となる水みちが形成されやすいのです。一見、安定しているように見えても、内部はすでに崩壊の臨界点にあります。この山がどのように水を抱え、どの臨界点を超えれば崩れるのか。それを知らねば、次に『あの日』のような雨が来たとき、また誰かが泥流に呑まれてしまいますから」

 

 慶仁は絶句した。

 自分はあの日以来、雨の音を聞くたびに「過去」を探していた。

 だが、この女性は。かつて自分と一緒に寛子の背中を追っていたこの少女は、同じ泥を見つめながら、未来を救うための「武器」を掘り起こしていたのだ。

 

「……其方も、あの夜を忘れていないのだな」

 

「忘れるはずがございません、殿下。……そして、お詫びせねばならぬことも」

 

 澄子は汚れを厭わず自らの膝を折った。 

 

「十六年前。寛子姉様の葬儀の後……私は、殿下のご様子を案じて、幼いながらも九条家の者として、寛子姉様の従妹としてご機嫌伺いに参りました。姉様と千代様を失われ、どれほどお悲しみかと……八歳の私は、それしかできませんでした」 

 

 澄子の声が、微かに震える。

 

「ですが……あの時の殿下は、まるで魂を抜かれた人形……。いえ、幽鬼のようで……私の知る優しい殿下ではございませんでした。あの空虚なお姿が、幼い私には恐ろしくて……泣きながら逃げ出してしまったのです」

 

 それは慶仁も覚えている記憶だった。

 幼い澄子が心配気に花を持ち、自分を訪ねてきた姿。そして心を閉ざし、亡霊のように生きていた自分を見て、手にしていた花を投げ捨て泣きながら走り去った後ろ姿。

 以来、彼女は慶仁を避けるようになっていた。

 

「その日から、私は殿下のお傍に立つ資格を失いました。殿下が最もお苦しみの時に、私は……寛子姉様の従妹でありながら、殿下に妹のように可愛がって頂いた身でありながら、殿下から逃げたのです」 

 

 澄子は深く頭を垂れた。

 

「今さらお傍に近づくことなど叶いません。せめて、寛子姉様が守った殿下を陰ながらお支えすること。それだけが、私の生きる理由にございます。寛子姉様が守った殿下の未来に、もし私の学んでいるこの知識が役立つ日が来るのなら……。私はどれほど泥にまみれても構いませぬ。これはあの時、殿下から逃げてしまった私の……姉様への『贖罪』にございます」

 

 慶仁は、彼女の泥だらけの掌を見た。

 妃選定会議で「情緒に欠ける」と切り捨てられたその手は、かつて寛子が慶仁を押し上げた、あの泥だらけの手と同じ誇り高さで、今も未来を支えようとしていた。

 

「……澄子。顔を上げなさい」

 

 慶仁の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

 

「逃げたのは、私の方だ。私は治水の宮と呼ばれながら、其方が向き合おうとしているこの『泥』を見るのが恐ろしかった。……私が目を背けている間も、其方は一人で、この冷たい土を掘り続けていたのだな。……よいか、くれぐれも無茶をするでないぞ。其方に何かあれば寛子も悲しもう」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 奥多摩から赤坂の京極宮邸へ戻る車中、慶仁は終始無言だった。

 窓の外を流れる東京の街並みが、どこか遠い世界の出来事のように感じられる。脳裏に焼き付いて離れないのは、泥を拭いもせず、自分の研究を語った澄子の瞳だ。

 

(……私は、何をしていたのだ)

 

 慶仁は自嘲気味に目を伏せた。

 

(私は、長い間寛子との想い出という繭の中に閉じこもり、和歌を詠んで、悲しみを美しい思い出に昇華しようとしていた……。だが澄子は、その悲劇の種を物理的に掘り起こし、二度と芽吹かぬよう根を断とうとしているのだ) 

 

 慶仁は、自らの白い手を見つめた。政務に明け暮れ、書類をめくるだけの、綺麗な手。対して、澄子の手は泥にまみれ、傷だらけだった。彼女は自らその泥に飛び込み、地層を暴き、科学という言葉で「あの日」に引導を渡そうとしている。 

 

「雅武」

 

「はい、殿下」

 

 助手席で控えていた雅武が、慶仁の沈痛な気配を察して応じる。

 

「……澄子のことを、よく知りもせず、これまで風変わりな姫君に育ったものだと思っていた。だが、違った。彼の者は、痛みに耐え、誰よりも寛子の死を無駄にせぬよう戦っていた」 

 

 雅武は、バックミラー越しに主の瞳を見た。そこには、長年凍りついていた「京極宮」の冷徹な仮面の奥に、一人の青年としての激しい情熱が灯り始めているのが見えた。 

 

「あれほどに気高く、あれほどに情緒に溢れた『泥』を、私は他に知らぬ」

 

 慶仁は、胸元に忍ばせた菊結びのお守り──桑名の泥にまみれて戻ってきた寛子の菊結びのお守り──を、服の上から強く握りしめた。

 これまでは、これを見るたびに寛子の指を思い出していた。

 だが今は、不思議と、澄子がハンマーを振るっていた手が重なって見える。

 

(澄子……其方とならば、私は「あの日」を背負ったまま、前へ進めるのではないか)

 

 それは、慶仁が初めて抱いた、未来への具体的な渇望だった。

 しかし、その確信が強まれば強まるほど、別の苦悩が彼を襲う。

 澄子が言った言葉──私は寛子姉様の影を踏んではならない。

 彼女が慶仁を拒むのは、嫌悪からではない。あまりにも深い寛子への敬愛と、慶仁への「申し訳なさ」ゆえだ。

 彼女を妃に選ぶということは、彼女を一生「寛子の代わり」という世間の好奇の目に曝させ、彼女自身の志を「皇族の公務」という枠に閉じ込めることにならないか。

 そして数日後には、予定通り、西園寺真理子との接見が控えている。 

 

「雅武。……西園寺の姫君は、どのような方だったか」

 

「……資料によれば、和歌を愛し、静寂を重んじる、たおやかなお方と聞き及んでおります」

 

 慶仁は再び目を閉じた。

 泥の中に真理を見た澄子と、言葉の中に真理を求める真理子。

 運命の歯車が、激しく音を立てて回り始めていた。

 




小さな方位磁針のような金属の計器は、クリノメーターです。地層や断層の傾斜(角度)と走向(面が伸びる方向)を一度に測定する、地質調査に欠かせない傾斜計です。




伊勢湾台風、昭和34年9月だから、昭和50年4月だと厳密には16年経っていない……のか?
15年と7ヶ月だから、15年あまり か 16年弱 か。

……面倒な事は考えまい。

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