最初の接見を翌日に控えた夜、京極宮邸は深い静寂に包まれていた。
書斎の机に向かう慶仁の指先には、一通の身上書がある。
西園寺真理子──旧清華家の名門、西園寺公爵家の三女。
添えられた写真の中の彼女は、吸い込まれるような涼やかな瞳をしており、その佇まいは、どこか遠い時代の和歌の世界から抜け出してきたかのような、古風な気品を湛えていた。
「……西園寺の姫か」
慶仁は短く息を吐き、椅子の背もたれに深く身を沈めた。
彼女については、以前から耳にしていた。和歌の道において若くして非凡な才を示し、宮中の披講の場でも、その立ち居振る舞いの美しさは群を抜いていると。
何より、歌会始の選者たちが「殿下の御歌を、最も深く理解されたお方」と評したことが、慶仁の心に重く、そして奇妙なざわめきを残していた。
「……理解、か」
自嘲気味な呟きが漏れる。
あの歌の後半──『雨の音聞く 夜半に探して』──に込めたのは、あの日以来の孤独な執着だ。それを「理解した」と言われることは、自分の魂の最も暗く、湿った部分に触れられるような、ある種の気恥ずかしさと恐ろしさを伴っていた。
(数日前、奥多摩の山中で見たあの澄子の瞳とは、また違う種類の「光」がそこにはあるのだろうか……)
窓の外では、春の夜の雨が、音もなく庭の木々を濡らしている。
慶仁は無意識に、左の二の腕を右手で強く掴んだ。
「あの日、私を押し上げた寛子の腕は、もっと細かったはずだ」
今、自分の手の中にあるのは、鍛えられた大人の男の肉体だ。
だが、目を閉じれば、濁流の轟音と共に、あの細く、しかし鉄のような強さで自分を支え抜いた温もりが蘇る。
(寛子……私は、明日、別の女性の前に座る)
松殿侯爵から贈られた「生きてほしい」という言葉。天皇から授かった「忘れぬことは苦しみではない」という免状。
それらが慶仁の背を押しているのは確かだった。だが、それでもなお、新しい一歩を踏み出そうとする足元は、泥濘に足を取られているかのように重い。
ノックの音が響いた。
「殿下、雅武でございます。お茶をお持ちいたしました」
「……入れ」
雅武は、音を立てずに室内へ入り、慶仁の傍らに茶を置いた。
主君の沈黙と、その視線が身上書に注がれているのを見て、雅武は静かに言葉を添えた。
「西園寺様は、明日の接見のために、一月(ひとつき)前から水垢離をとり、身を清めておられたと聞き及んでおります」
「身を清めて、だと?」
「はい。殿下の御心に触れるには、それ相応の覚悟が必要であると……。あのお方は、そう仰ったそうです」
慶仁は、茶碗から立ち昇る湯気の向こう側を見つめた。
身を清める。それは、単なる儀礼上の準備ではない。自分の「痛み」という名の戦場に、彼女もまた自らを研ぎ澄ませた一振りの太刀のような覚悟で踏み込もうとしているということか。
「……雅武。私は、彼女の中に『代わりの花』を求めてしまうのではないか。あるいは、彼女の静けさを、寛子を忘れるための隠れ蓑にしてしまうのではないか。それが、怖いのだ」
雅武は深く頭を垂れ、慎重に、しかし力強く応じた。
「殿下。西園寺様は、代わりになるようなお方ではございません。あの方はあの方として、殿下の隣に立つお方です。明日、ただ真っ直ぐに、あのお方をご覧になればよろしいかと存じます」
慶仁は、雅武の言葉を噛みしめるように、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな。色眼鏡で見ることは、彼女に対しても、そして寛子に対しても、最も不誠実なことだ」
慶仁は立ち上がり、机の隅の遺影に一瞥をくれた。
そこには、十六年前のままの寛子が、優しく微笑んでいる。
「明日は、雨は上がるだろうか」
「予報では、雲ひとつない晴天にございます」
「……そうか」
慶仁は、身上書を丁寧に閉じた。
奥多摩の泥の中にあった「未来への祈り」と、明日向き合う「静寂の理解」。
明日、自分がどのような顔をして「静寂の理解」と向き合うべきか、まだ答えは出ない。
ただ、十六年間、決して手放すことのなかった「過去」という名の腕を、今夜だけは少しだけ緩めてみようと思った。
春の夜気は、冷たくもあり、どこか新しい芽吹きを予感させる柔らかな湿り気を帯びていた。
運命の歯車が、一人の女性との出会いに向かって、静かに、そして劇的に回り始めようとしていた。