京極宮邸大客室。
五月の若葉の光が障子越しに柔らかく差し込み、庭の楓が風に揺れて影を落としている。
大客室には慶仁と宮内省の侍従長、式部官長が控えていた。
側近である雅武はこの日、慶仁の名代として別の場所にいた。
慶仁は静かに座しているが、その指先はわずかに震えていた。
侍従長は気づかぬふりをして、ただ深く頭を下げた。
「殿下……西園寺様がお見えでございます」
慶仁は、わずかに息を整えた。
扉が開く。
白地に淡紅藤の絹を重ねた、控えめでありながら品格のある装い。
真理子は、深く頭を下げた。
その所作は華やかではない。
むしろ、静謐で、影のように控えめだった。
「西園寺真理子にございます。殿下にお目にかかれますこと……畏れ多く存じます」
慶仁はゆっくりと立ち上がり、礼を返した。
「……遠路、よくお越しくださいました、西園寺の姫」
「真理子とお呼びください」
「それでは、お言葉に甘えさせて頂こう。真理子様」
二人の視線が、初めて静かに交わる。
顔を上げた真理子の瞳は、驚くほど澄んでいた。
しかしその奥には、慶仁の歌を読んだ者だけが知る『痛みの色』が、淡く沈んでいた。
慶仁は、彼女の視線に気づいた瞬間、胸の奥がわずかに疼いた。
(……この人は、私の歌の意味を、深く読みすぎている)
それは、理解される喜びではなく、心の奥に触れられたような、静かな戸惑いだった。
慶仁は胸の奥に沈んでいた言葉を慎重に選びながら口を開いた。
「……歌会始の私の歌を……お読みくださったと伺いました」
真理子は静かにうなずいた。
「はい。殿下の御歌……胸に深く響きました。あの一首には……十五年分の御心が宿っておりました」
慶仁の指先がわずかに揺れる。
「……あの御歌に込められたお心を、私などが語ることは許されぬことと存じます。ただ……殿下が今日(こんにち)までの長きにわたり、雨の音に耳を澄ませておられたこと……その重さを思うと……胸が締め付けられました」
慶仁は、息を呑んだ。
(この人は……分かってしまうのか)
寛子の温もりを探し続けた十五年余。
その痛みを、真理子は『言葉ではなく感性で』受け止めてしまった。
「殿下……私は、殿下のお心に寄り添う資格があるとは思っておりません」
その言葉は、拒絶ではなかった。むしろ、深い敬意と、静かな優しさに満ちていた。
「殿下の御歌は……あまりにも美しく、あまりにも痛うございました。……殿下が、あの夜の記憶を抱えながら今日まで歩んでこられたこと……その強さに、深い敬意を抱いております。しかし、あの痛みを真正面から受け止めるには……私は、あまりに未熟でございます」
慶仁は、初めて真理子の瞳を正面から見た。
そこには、寛子の影を恐れるのではなく、慶仁の痛みそのものを『壊さぬように』抱きしめようとする、静かな覚悟があった。
慶仁は、自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
「……私は、強くなどありません。ただ……忘れられなかっただけです」
真理子は首を振った。
「忘れないことは、弱さではございません。殿下が歩んでこられた道は……寛子様が繋いだ『生』そのものです」
慶仁の胸に、松殿侯爵の言葉が重なった。
──寛子は殿下に『生きてほしい』と願ったのであり……
真理子の言葉は、その続きを静かに補うようだった。
慶仁は、真理子様の目を見つめる。
「……あなたは、私の歌を……恐れぬのか」
真理子は、ゆっくりと首を振った。
「恐れております。ですが……殿下が今日まで抱えてこられた痛みを、『軽々しく慰めること』の方が、何より恐ろしゅうございます」
その言葉に、慶仁の胸がわずかに震えた。
(この人は、深淵を見つめ、その暗さに呑まれぬよう、言葉という灯火を必死に守っている……)
真理子は深く頭を下げた。
「殿下。私は……殿下の痛みを『理解したつもりになる』ことだけは、決していたしません。ただ……殿下が前へ進まれるその日まで、静かに、遠くから……お祈り申し上げることしかできません」
「祈るだけでなく、私の傍らで、その『静けさ』を分けてはもらえないだろうか」
真理子は、殿下の言葉を聞いた瞬間、わずかに息を呑んだ。
しかし顔を上げたとき、その瞳は揺れていなかった。
深く、静かに、殿下へ向けられていた。
「……殿下。 そのようなお言葉を頂くこと……身に余る光栄にございます。けれども……いま、この場でお返事を申し上げることは、 私には……あまりに畏れ多うございます」
一拍置き、真理子は胸の前で両手を重ね、深く頭を垂れた。
「殿下が歩んでこられた十五年の御心を、私のような者が軽々しく受け止めてよいはずがございません。 殿下のお傍らに立つということは……寛子様の御遺しになった祈りの続きを、共に背負うということでございます」
その声は震えていない。
しかし、言葉の一つひとつが、殿下の痛みに触れぬよう、まるで薄氷の上を歩くように慎重だった。
「……殿下。 私は、殿下のお心を癒す力を持ちませぬ。 ただ、殿下が前へ進まれるその日まで…… 遠くより、静かにお祈り申し上げることしかできません」
そして、ほんのわずかに顔を上げ、殿下の瞳をまっすぐに見つめる。
「ですが…… 殿下がいま仰せくださったお気持ちだけは、決して、軽んじたりはいたしません。その重さを……胸に深く刻ませていただきます」
最後に、真理子は静かに結んだ。
「どうか……いまは、このお言葉にてお許しくださいませ」
真理子は深く頭を下げた姿勢のまま、しばし動かなかった。
殿下の言葉の重さを胸に受け止め、その重さを乱さぬよう、呼吸を整えているようだった。
やがて、真理子が静かに顔を上げた。
「……殿下。 本日は、このような機会を賜り……まことに、恐れ多く存じました」
その声音は、先ほどよりもさらに柔らかく、しかしどこか祈りのように澄んでいた。
真理子は後ずさりせず、一歩一歩、礼法に則った歩みで下がる。
殿下から視線を逸らさないまま、最後の一歩で静かに膝を折り、深く礼をした。
庭の若葉の光が一瞬だけ差し込み、真理子の淡紅藤の衣がほのかに揺れた。
そして、音もなく扉が閉じる。
大客室には、風に揺れる楓の影だけが残った。
扉が閉じた瞬間、慶仁は、胸の奥に張りつめていた何かがふっとほどけるのを感じた。
(……拒まれたのではない。けれど、受け入れられたわけでもない)
その曖昧さが、なぜか苦しくなかった。
むしろ、十五年ぶりに呼吸ができるという感覚が胸の奥に静かに広がっていく。
指先の震えは、いつの間にか止まっていた。
侍従長と式部官長は、殿下の変化に気づきながらも、あえて何も言わず、深く頭を下げた。
慶仁は、閉じた扉を見つめたまま、誰に聞かせるでもなく、かすかに呟いた。
「……あの人は…… 私の痛みを……壊さなかった……」
その言葉は、寛子の影に向けたものでも、真理子に向けたものでもなかった。
ただ、自分自身が初めて理解した安らぎの形を確かめるような、静かな独白だった。
京極宮邸の石畳を、真理子はゆっくりと歩いていた。
春の風が衣の裾をわずかに揺らす。
だが、その歩みは乱れていない。
むしろ、先ほどの大客室よりも静かだった。
門を出て、供の者が距離を取ったのを確かめると、真理子はようやく小さく息を吐いた。
(……殿下のお言葉……あれほどの重さを、私に)
胸の奥が、じんと熱くなる。
喜びではない。
恐れでもない。
そのどちらとも違う、名のつけようのない感情だった。
(あれは……求められたのではない。殿下は……寄りかかる場所を、ようやく見つけようとしておられた)
そのことが、真理子には痛いほど分かった。
殿下の瞳に宿っていた十五年の影。
寛子の名を出さずとも、その影がどれほど深く、どれほど長く殿下を縛ってきたか──
真理子は、殿下の御歌を読んだ瞬間から知っていた。
(……私などが、あの影の傍らに立ってよいのだろうか)
歩みが一瞬だけ止まる。
しかし、すぐにまた進み出す。
真理子は、殿下の言葉を思い返した。
──祈るだけでなく、私の傍らで、その『静けさ』を分けてはもらえないだろうか。
その声音は、求婚のように華やかではなかった。
むしろ、痛みを抱えた人が、ようやく誰かに手を伸ばしたときの、かすかな震えを帯びていた。
(……あの方は、強くあろうとしておられる。 けれど、本当は……ずっとお一人で)
真理子は胸に手を当てた。
そこに残っているのは、殿下の言葉の重さ。
そして、自分が返した言葉の責任。
(軽々しく受けてはならない。けれど……逃げてもならない)
寛子の影を恐れず、殿下の痛みを壊さず、ただ静かに寄り添うということが、どれほど難しいか。
真理子は、それを誰よりも理解していた。
だからこそ、慶仁の言葉を、いまは受け取らないという選択をした。
しかし──
(……殿下のお気持ちを、軽んじたわけではございません)
その一点だけは、胸の奥で強く、確かに灯っていた。
真理子は空を見上げた。
若葉の光が揺れ、その向こうに薄い雲が流れていく。
(殿下が……もう一度、前へ進まれる日が来るのなら。その日まで……私は、静かに祈り続けましょう)
その祈りは、殿下のためであり、寛子のためであり、そして──
自分自身のためでもあった。
真理子は、再び歩き出した。
その背筋は、先ほどよりもわずかに強く、しかし変わらず静かだった。
淡紅藤:#e6cde3