京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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12 西園寺の姫

 京極宮邸大客室。

 五月の若葉の光が障子越しに柔らかく差し込み、庭の楓が風に揺れて影を落としている。

 大客室には慶仁と宮内省の侍従長、式部官長が控えていた。

 慶仁は静かに座しているが、その指先はわずかに震えていた。

 侍従長は気づかぬふりをして、ただ深く頭を下げた。 

 

「殿下……西園寺様がお見えでございます」 

 

 慶仁は、わずかに息を整えた。

 扉が開く。

 白地に淡紅藤の絹を重ねた、控えめでありながら品格のある装い。

 真理子は、深く頭を下げた。

 その所作は華やかではない。

 むしろ、静謐で、影のように控えめだった。 

 

「西園寺真理子にございます。殿下にお目にかかれますこと……畏れ多く存じます」 

 

 慶仁はゆっくりと立ち上がり、礼を返した。 

 

「……遠路、よくお越しくださいました、西園寺の姫」

 

「真理子とお呼びください」

 

「それでは、お言葉に甘えさせて頂こう。真理子様」 

 

 二人の視線が、初めて静かに交わる。

 顔を上げた真理子の瞳は、驚くほど澄んでいた。

 しかしその奥には、慶仁の歌を読んだ者だけが知る『痛みの色』が、淡く沈んでいた。

 慶仁は、彼女の視線に気づいた瞬間、胸の奥がわずかに疼いた。 

 

(……この人は、私の歌の意味を、深く読みすぎている) 

 

 それは、理解される喜びではなく、心の奥に触れられたような、静かな戸惑いだった。

 慶仁は胸の奥に沈んでいた言葉を慎重に選びながら口を開いた。 

 

「……歌会始の私の歌を……お読みくださったと伺いました」 

 

 真理子は静かにうなずいた。 

 

「はい。殿下の御歌……胸に深く響きました。あの一首には……十五年分の御心が宿っておりました」 

 

 慶仁の指先がわずかに揺れる。 

 

「……あの御歌に込められたお心を、私などが語ることは許されぬことと存じます。ただ……殿下が今日(こんにち)までの長きにわたり、雨の音に耳を澄ませておられたこと……その重さを思うと……胸が締め付けられました」 

 

 慶仁は、息を呑んだ。 

 

(この人は……分かってしまうのか)

 

 寛子の温もりを探し続けた十五年余。

 その痛みを、真理子は『言葉ではなく感性で』受け止めてしまった。 

 

「殿下……私は、殿下のお心に寄り添う資格があるとは思っておりません」 

 

 その言葉は、拒絶ではなかった。むしろ、深い敬意と、静かな優しさに満ちていた。 

 

「殿下の御歌は……あまりにも美しく、あまりにも痛うございました。……殿下が、あの夜の記憶を抱えながら今日まで歩んでこられたこと……その強さに、深い敬意を抱いております。しかし、あの痛みを真正面から受け止めるには……私は、あまりに未熟でございます」 

 

 慶仁は、初めて真理子の瞳を正面から見た。

 そこには、寛子の影を恐れるのではなく、慶仁の痛みそのものを『壊さぬように』抱きしめようとする、静かな覚悟があった。

 慶仁は、自分でも驚くほど自然に言葉が出た。 

 

「……私は、強くなどありません。ただ……忘れられなかっただけです」 

 

 真理子は首を振った。 

 

「忘れないことは、弱さではございません。殿下が歩んでこられた道は……寛子様が繋いだ『生』そのものです」 

 

 慶仁の胸に、松殿侯爵の言葉が重なった。 

 

 ──寛子は殿下に『生きてほしい』と願ったのであり…… 

 

 真理子の言葉は、その続きを静かに補うようだった。

 慶仁は、真理子様の目を見つめる。 

 

「……あなたは、私の歌を……恐れぬのか」 

 

 真理子は、ゆっくりと首を振った。 

 

「恐れております。ですが……殿下が今日まで抱えてこられた痛みを、『軽々しく慰めること』の方が、何より恐ろしゅうございます」 

 

 その言葉に、慶仁の胸がわずかに震えた。 

 

(この人は、深淵を見つめ、その暗さに呑まれぬよう、言葉という灯火を必死に守っている……) 

 

 真理子は深く頭を下げた。 

 

「殿下。私は……殿下の痛みを『理解したつもりになる』ことだけは、決していたしません。ただ……殿下が前へ進まれるその日まで、静かに、遠くから……お祈り申し上げることしかできません」 

 

 そこには、哀れみも、過度な同情も、代わりになろうとする気配もない。ただ──理解しようとする静かな意志だけがあった。

 その瞬間、慶仁は悟った。 

 

(……この人は、踏み込まない。だが逃げることもない) 

 

 この女性は、寄り添えるが、抱きしめない。

 理解できるが、踏み込まない。

 痛みを感じ取れるが、共に背負おうとはしない。

 共に立てば、二人揃って静かな喪失の海に沈む。

 その事は彼女も理解しているであろう。

 だからこそ──彼女は『妃』にはなれない。するわけにはいかない。

 

(彼女は私を救う「光」ではあっても、私を泥の中から引きずり出す「腕」ではないのだ。彼女を妃として私の闇に巻き込むことはできない)

 

 しかし同時に、彼女の存在は、慶仁の心に澱んでいた濁りを、清らかな水で洗い流してくれた。 

 

「……ありがとう。真理子様、あなたのような方に、私の歌を読んでいただけたこと……それだけで、救われる思いがする」 

 

 真理子は、深く、深く頭を下げた。 

 

「殿下の御心が、どうか……優しい春を迎えられますように」 

 

 その言葉は、まるで『自分はその春の隣には立てません』と告げるような、静かな別れの祈りだった。

 真理子が深く礼をして退出しようとした時、慶仁は思わず声をかけた。 

 

「……真理子様。また、お話を聞かせていただけますか」 

 

 真理子は驚きつつ静かに微笑んだ。 

 

「殿下がお望みであれば、いつでも。殿下が優しい春を迎えられるまで」 

 

 その微笑みは、寛子の影を踏むものではなく、慶仁の未来に寄り添う光だった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 侍従長が控えめに声をかけた。

 

「殿下……いかがでございましたか」

 

 慶仁は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……真理子様は、誠に立派なお方だ。あの方は、私の心を洗ってくれた」

 

 侍従長は深く頷いた。

 

「左様にございますか」

 

「だが……あの方は、私の痛みを抱えないことで、私を尊重してくださった。それは、妃としての在り方とは……少し違うのだろう」

 

 侍従長は、何も言わず、深く頭を垂れた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 慶仁は、静かに立ち上がった。

 

「……侍従長。今日の接見は、私にとって大きな一歩となった」

 

「殿下……」

 

「真理子様には、またお会いしたい」

 

 侍従長は深く頭を下げた。

 

「畏まりました」

 

 慶仁は、窓越しの光を見つめた。

 

(寛子……私は、ようやく分かった気がする)

 

 寛子が最後に残した温もりは、誰かに代わってもらうものではない。

 その温もりを抱えたまま、前へ進むための腕が必要なのだ。

 慶仁は、胸の奥で静かに呟いた。

 

(私は、明日から……寛子の影を抱いたまま、前へ進む)

 




淡紅藤:#e6cde3
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