京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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13 太陽の姫と、雨の宮

 七月。

 西園寺真理子との初接見から数週間後。

 陽光が降り注ぐ赤坂の京極宮邸の応接室は磨き上げられた床に淡い光が反射し、どこか外国のサロンを思わせる静謐な空気が漂っていた。

 雅武が静かに来訪者の名を告げた。 

 

「殿下。徳大寺様がお越しにございます」 

 

 慶仁が頷くと扉が開かれた。

 そこに立つ徳大寺綾子が、完璧な礼法で深く一礼した。

 その所作は、まるで英国式の儀礼と日本の宮廷作法が自然に溶け合ったような、洗練された美しさを湛えていた。 

 

「徳大寺綾子にございます。殿下にお目にかかれますこと……身に余る光栄に存じます」

 

 慶仁は、静かに頷いた。

 

「遠路、よく参られた」

 

 旧清華家・徳大寺侯爵家の三女。英国への留学経験を持ち、語学に堪能。

 その経歴が示す通り、綾子は若草色の洗練された洋装で、所作一つをとっても、王侯貴族の集う欧州のサロンからそのまま抜け出てきたかのように優雅で、隙がなかった。

 

「徳大寺の姫」

 

「綾子とお呼びください」

 

「それでは、お言葉に甘えさせて頂きましょう。綾子様、英国の気候は、いかがでしたか」

 

「はい。霧と雨の多い国と申しますが、私がおりましたオックスフォードは、歴史の重みと新しい知の息吹が混ざり合う、大変素晴らしい街でございました。殿下が以前発表された、都市のインフラストラクチャーに関する論文も、現地の都市計画学の教授が大変興味深く拝読しておりました」 

 

 慶仁の問いに対する綾子の答えは、常に完璧だった。

 知性に溢れ、国際的な視野を持ち、相手の関心事を的確に捉えて会話を広げる。もし慶仁が「皇室による国際親善の象徴」としての妃を求めていたのなら、彼女以上の適任者は日本中を探しても見つからないだろう。 

 慶仁は、目の前のまばゆいばかりの知性と明るさを持つ女性を見つめながら、内心で深い感嘆と、それと同じくらいの「距離」を感じていた。 

 

(……なんという、陽だまりのようなお方だ) 

 

 彼女の周りには、陰りがない。

 未来だけを見つめて真っ直ぐに育った、一点の曇りもない大輪の薔薇。

 だが、慶仁の心の奥底には、未だ十六年前の冷たい泥が沈んでいる。彼女の眩しさは、慶仁にとって、自らの内に巣食う暗闇の深さを残酷なまでに浮き彫りにするものだった。 

 

「……綾子様。あなたは、本当に素晴らしい方だ。これからの日本が国際社会へ出ていく上で、あなたのその知性と語学力は、何にも代えがたい光となるでしょう」 

 

 慶仁の率直な称賛に、綾子はふわりと美しく微笑み、ティーカップをソーサーに置く。

 そのわずかな音が、妙に澄んで室内に響いた。 

 

「殿下。勿体なきお言葉、身に余る光栄に存じます」 

 

 綾子が居住まいを正す。

 同時にそれまでの社交的な柔らかな表情が一人の誇り高き女性としての、真摯で凜とした表情へと変わった。 

 

「ですが……殿下。私は、その『光』であるがゆえに、殿下のお傍に立つことは叶わないと、本日ここへ参って確信いたしました」 

 

 慶仁は、わずかに目を瞠った。 

 

「……どういう意味でしょうか」 

 

 綾子は、伏せていた長い睫毛を上げ、真っ直ぐに慶仁の目を見た。 

 

「殿下の御歌を、拝読いたしました。そして今、殿下のお顔を拝見し、その瞳の奥にある深きものに触れました。……殿下が背負っておられるのは、この国の『土』と『水』の重み。そして、決して忘れてはならない『痛み』の記憶でございますね」 

 

 慶仁は黙って頷いた。

 直前まで目の前のカップに添えられていた綾子の指先を思いだした。その指先は陽光を透かすように美しいが、あの奥多摩の山中で見た、岩に擦り切れ、黒い泥が爪の間にまで入り込んでいた澄子の手とは、あまりにも対極にあるものだった。 

 

「私は、海を渡り、太陽の下で華やかな外交の言葉を学んでまいりました。私の言葉は、光の当たる祝祭の場では響くかもしれません。ですが……殿下が雨の夜に一人で探しておられる『温もり』の代わりになるような、泥に塗れる覚悟を、御心を冷たい泥水から掬い出す覚悟を、私は持っておりません」 

 

 その声に、卑下や怯えは一切なかった。

 あるのは、己の適性と限界を冷徹なまでに見極める、極めて理知的な自己分析だった。 

 

「もし私が妃となれば、国際親善の場では殿下をお支えできるでしょう。しかし、殿下が本当に苦しまれる夜、過去の痛みに苛まれる時、温室で育った私には、その痛みの本当の深さを理解することができません。……理解できない者が、安易に『お支えします』と口にすることは、殿下と、そして寛子様への冒涜であると考えます」 

 

 慶仁は、息を呑んだ。

 西園寺真理子が「痛みを理解しすぎるがゆえに踏み込まない」という選択をしたのに対し、徳大寺綾子は「痛みを共有できないからこそ、役割を辞する」という、あまりにも誠実で潔い決断を下したのだ。 

 

「綾子様。あなたは……ご自身を軽く見積もりすぎているのではないか。あなたのその誠実さがあれば、どのような困難も……」 

 

「いいえ、殿下」 

 

 綾子は、きっぱりと首を振った。その顔には、清々しいほどの微笑みが浮かんでいた。 

 

「私は、決して自分を軽く見ているわけではございません。むしろ、自分の『光』の役目に誇りを持っております。だからこそ、殿下の『影』を無理に払おうとしたり、殿下の痛みに見合わぬ慰めを口にするような、不誠実な真似はしたくないのです」 

 

 その微笑みは、自分の「光」としての適性を信じているからこそ、慶仁の持つ「影」を不器用に乱したくないという、究極の慈しみであった。

 綾子はゆっくりと立ち上がり、深く、美しいカーテシーの形ではなく、日本の華族の姫に相応しい礼で、深々と頭を下げた。 

 

「殿下に必要なのは、光の当たる場所を共に歩く者ではなく……殿下と共に、雨の降る泥濘を歩いていける方です。……どうか、殿下の御心に真に寄り添える方が見つかりますよう、心よりお祈り申し上げます」 

 

 それは、見事なまでの撤退戦だった。

 慶仁は、彼女の強さと知性に、改めて深い敬意を抱いた。 

 

「……徳大寺綾子様。あなたのその誇り高さと誠実さに、心から感謝します。いつか、国際親善の場にて、この国のためにあなたのその知恵を貸していただきたい」 

 

「はい。その日が参りましたら、喜んでこの身を捧げます」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 綾子が見事な足取りで接見室を退出した後、慶仁は一人、冷めかけた紅茶のカップを見つめていた。 

 

「雅武」 

 

 扉の傍に控えていた雅武が、無言で進み出る。 

 

「……素晴らしいお方だった。私には、確かに過ぎたるお方だ」

 

「はい。あまりにも、まばゆいお方でいらっしゃいました」

 

 慶仁は、ふっと息を吐き出し、窓の外の青空を見上げた。 

 

「彼女の言う通りだ。私は、太陽の下でだけ笑って生きることはできない。私が生きる場所は、寛子が命を落とした、あの泥と水が渦巻く国土の上なのだから」 

 

(真理子嬢は私の『痛み』を鏡のように映し出し、綾子嬢は私の『影』を光で照らし出した。……だが、私のこの傷だらけの腕を、あの泥水の中に共に降り同じ泥水に塗れた手で掴もうとした者は、一人しかいなかった) 

 

 徳大寺綾子という強烈な「光」と対峙したことで、慶仁の心の中で、自分が本当に必要としているものの輪郭が、いよいよ明確になり始めていた。 

 

「……雅武。少し歩きたい。庭へ出よう」

 

「はっ」 

 

 春の風が吹く庭へ向かいながら、慶仁の足取りは、十六年間で最も確かな重みを持っていた。それは、誰かを探す足取りではなく、自ら泥濘へと踏み込んでいく者の歩みだった。

 




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初めは候補を少しづつ減らしながら次の接見に繋げていく予定だったが……。






これ、殿下が振られた?
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