徳大寺綾子との接見を終えた翌週。
慶仁の心は、整いすぎた空気とは対照的な、あの奥多摩の湿った土の匂いを求めていた。
「雅武、先日の現場……あの一帯の地質調査の進捗を確認したい。忍びで確認に向かう」
雅武は、慶仁が何を求めているのかを察し、黙って頷いた。
奥多摩、日原川上流。
梅雨明け宣言の翌日から続く数日来の雨で、沢の水は白く泡立ち、山肌からは絶えず水が滴っていた。
「これは危ういな。雅武、進捗を確認次第下山する」
沢を見た慶仁が呟いた。
「それが宜しいかと」
前回遭遇した地点に差し掛かった時、慶仁の目に、またしてもあの作業着姿が飛び込んできた。
だが、今回は様子が違った。
「危ない!」
慶仁が叫ぶのと、澄子の背後の斜面が音を立てて崩れるのは同時だった。
僅か数立方メートルの土砂ではあったが、足元を掬われた澄子が斜面を滑り落ちる。
「澄子!」
慶仁は、駆け寄る雅武を制し、自ら泥の中に飛び込んだ。
滑り落ちた澄子の腕を、慶仁の手が強く掴む。
「……っ、殿下!?」
泥塗れの慶仁を見て、澄子は目を見開いた。
慶仁の手は、彼女の泥の付いた袖を、そしてその下の温もりをしっかりと掴んでいた。
「無茶をするなと言ったはずだ。なぜこれほど雨が続いている日に……!」
慶仁の声は震えていた。それは怒りではなく、十六年前のあの夜、掴み損ねた「腕」への恐怖だった。
澄子は、慶仁の顔を真っ直ぐに見つめた。彼女の頬には跳ねた泥が付着し、雨水が滴っている。
「……雨の日だからこそ、調べねばならぬのです。いつ、どこから、どのように水が土を動かすのか。それをこの目で見なければ、私の学問は、ただの紙の上の遊びになってしまいます」
澄子は、慶仁に掴まれたまま、力強く言い放った。
その瞳には、西園寺真理子の静謐な諦観も、徳大寺綾子の恭しい距離もなかった。そこにあるのは、慶仁の痛みを「敬う」のではなく、その痛みを生み出した「自然という不条理」に、一歩も引かずに立ち向かう者の輝きだった。
慶仁は、彼女を安全な岩場へと引き上げた。
二人の服は泥に汚れ、雨に濡れそぼっている。皇族と公爵家の姫という身分を剥ぎ取られた、ただの男と女が、十六年前の傷跡の上で向かい合っていた。
「……殿下、お召し物が。六条様、早く殿下を……」
澄子が慌てて身を引こうとしたが、慶仁はその手を離さなかった。
「澄子。お前は……私の痛みを、恐れないのか」
数日前、徳大寺綾子に投げかけた問い。
澄子は、泥を拭おうとした手を止め、慶仁の瞳をじっと見つめ返した。
「恐ろしゅうございます。殿下の背負われたお心の重さは、私には計り知れません。……ですが、殿下」
澄子の声に、確かな熱が宿る。
「私は、殿下の痛みを遠くからただ眺めるために、今日まで泥を掘ってきたのではありません。その痛みの正体を暴き、いつか、殿下が雨の音を聴いても、震えずに済むような……そんな『明日』を造るために、私はこの泥の中にいるのです」
慶仁の胸の奥で、何かが決定的に砕け、そして新しく組み上がった。
真理子は寄り添い、綾子は敬った。
だが、澄子は自分と共に「戦おう」としている。
「……昔のお前は寛子や千代の背中で泣いていた少女だったな」
「はい。そして……殿下を救って逝った寛子姉様の背中を、誰よりも近くで見ていた者でございます」
澄子は、慶仁の手をそっと握り返した。その泥だらけの手は、驚くほど温かかった。
「殿下。私は、姉様の代わりにはなれません。ですが……姉様が守りたかった殿下を、その御心を、お傍に寄ること適わずとも別のやり方で守ることはできると信じております」
慶仁は、自らの泥だらけの手を見つめた。
徳大寺綾子との接見では、この手は決して汚れることはなかった。しかし今、彼は澄子と同じ泥を共有している。それが、これほどまでに心強いことだとは知らなかった。
「雅武。……着替えはいい。このまま戻る」
慶仁は立ち上がり、澄子に背を向けたが、その声は以前の冷徹なものではなかった。
「……はっ」
雅武は、主君の袖にこびり付いた黒い土を、あえて払おうとはしなかった。
これまでの慶仁にとって、泥は「死と喪失」の象徴だった。だが今、彼の腕に残る泥は、一人の女性を救い、共に未来を造るための「誓い」の印へと変わっていた。
(澄子……お前は私を避けようとする。だが、身は離れていても、心は私の隣で、共にこの国土を守ろうとしてくれているのだな)