七月下旬。
京極宮邸の応接室には、夏光が淡く差し込み、障子越しの白い光が静かに揺れていた。
慶仁のもとに三人目の妃候補が来訪した。
雅武が静かに来訪者の名を告げた。
「殿下。鷹司様がお越しにございます」
慶仁が頷くと扉が開かれた。
そこに立っていたのは、鴇色の訪問着に身を包んだ、どこか初々しい雰囲気の少女──鷹司紀子だった。
紀子は、完璧な礼法で深く一礼した。
その所作は、まるで宮中の教本から抜け出したように整っており,ある種の美しさを感じさせた。
しかし、その整いすぎた美しさの奥に、わずかな緊張と幼さが見え隠れしていた。
「京極宮殿下に……お目にかかります。鷹司紀子にございます……」
慶仁は、静かに頷いた。
「遠路、よく参られた。どうぞ、お楽になさってください」
その言葉に紀子は慌てて「はい」と答え、腰を下ろしたが、その座り方は緊張の為か、どことなくぎこちなかった。
慶仁はその様子に、どこか懐かしい幼さを感じていた。
「鷹司の姫」
「あ、あの……私のことは……紀子と」
「そうですか。では、紀子様」
「はい」
紀子は緊張の色を隠せなかった。
「紀子様は、宮中作法にお詳しいと伺っております」
「は、はい……幼い頃より、祖母に厳しく……いえ、丁寧に教えていただきました……」
「丁寧に、ですか」
「……はい。厳しくも、ございましたが……」
慶仁は思わず微笑んだ。
紀子は、『完璧に振る舞おうとして失敗する若さ』があり、その不器用さが慶仁には愛らしくも庇護欲をそそるものに映った。
紀子は俯き、小さな声で言った。
「……殿下は、とても……優しいお方だと……お会いして、改めて思いました」
「そうでしょうか」
紀子が勇気を振り絞るように続ける。
「でも……その優しさの奥に……深い影があるように……感じました」
慶仁は一瞬、息を呑んだ。
20歳の女性が、自分の『影』を言葉にした。
その言葉には、踏み込みすぎる無神経さではなく、純粋な心のままの観察があった。
「……影、ですか」
「はい……。でも……その影の意味は……私には、まだ……分かりません」
慶仁はその正直さに胸を打たれた。
「紀子様。分からないことを『分からない』と言えるのは、とても大切なことです」
紀子は驚いたように顔を上げた。
「無理に理解しようとしなくてよいのです。理解は……時間をかけて育つものですから」
紀子の目がわずかに潤んだ。
「……殿下……ありがとうございます……」
慶仁が静かに微笑む。
紀子が深く礼をして退出しようとした時、慶仁はふと声をかけた。
「緊張されたでしょう」
「は、はい……とても……」
「私にとって紀子様の正直さは、とても心地よいものでした」
紀子は頬を赤らめ、深く礼をして退室した。
紀子との対面を終え、慶仁は書斎に戻った。
扉が閉まると、静けさが慶仁を包み込んだ。
雅武が控えめに後ろに立つ。
慶仁は椅子に腰を下ろし、しばらく何も言わず、ただ深く息を吐いた。
「……鷹司の姫は、とても……若い方だな」
雅武は静かに頷いた。
「はい。まだ二十歳でいらっしゃいます。宮中作法は完璧ですが……殿下の影の深さを理解するには、少しお若いかと存じます」
慶仁は窓の外の光を見つめながら、ゆっくりと言葉を探すように口を開いた。
「……あの姫は、正直な方だ。影の意味は分からない。と、はっきり仰った」
雅武は静かに目を伏せると呟くように言葉を紡いだ。
「無理に理解したふりをなさらない……その誠実さは、鷹司様の美徳にございます」
その言葉に慶仁は小さく頷いた。
「……あの正直さは、私には……少し眩しかった」
雅武は慶仁の言葉の揺れを感じ取った。
「眩しい、でございますか」
「私は……あの姫のような若さを、守らねばならないと思った。だが同時に……私の中にある影に触れさせてはならないとも思った」
「鷹司様は、殿下の影を理解するには、まだお若いのでございましょう」
その言葉に慶仁は短く息を吐く。
「……あの姫は、私の痛みを癒す存在ではない。むしろ……私が守るべき存在だ。それは……妃としての在り方とは、少し違うのかもしれない」
雅武は静かに頷いた。
「殿下の御心が寄り添いを求めておられるのか、庇護を求めておられるのか……その違いでございましょう」
慶仁は机の上の短冊──あの御歌をそっと見つめた。
「……鷹司の姫は、私の心を動かすほどの存在ではなかった。だが……あの正直さは、私の胸を少しだけ……軽くした」
「殿下のお心を和らげる存在であったことは、確かにございます」
慶仁は静かに目を閉じ言葉を選ぶようにつぶやいた。
「……私は、まだ過去の中にいる。鷹司の姫のような若さを巻き込むわけにはいかない。だが……あの姫の誠実さには、救われた」
その声は、優しさに満ちていた。
鴇色:#f4b3c2