京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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16 おとぎ話と現実と

 八月も下旬になり、京極宮邸の応接室は、磨き上げられた床に淡い光が反射し、夏の暑さと秋の気配が混じり合う奇妙な静けさが漂っていた。

 雅武が四人目の妃候補の来訪を告げた。

 

「殿下。中院聡子様、お越しにございます」

 

 慶仁が頷き、雅武の声を合図に、扉が開いた。

 そこに立っていたのは、白菫色の上質な訪問着を纏った少女だった。裾に控えめな御所車と桐の文様をあしらい、白地の袋帯を合わせている。

 髪は日本髪にまとめ、小粒の真珠があしらわれた簪が一朶。

 十九歳の清らかさを保ちつつ、旧大臣家の娘としての静かな威厳が自然に滲み出る装いだった。

 その一分の隙もない完璧な礼法は、中院家という名門が守り続けてきた『伝統そのもの』の顕現であった。

 

「中院聡子にございます。殿下にお目にかかれますこと……」

 

 聡子は、紀子以上に緊張していた。

 その声は細く震え、膝の上で固く握られた指先は白くなり、薄い肩が目に見えて強張っている。

 だが、それは恐怖ではなく、「触れてはならない聖域に近づいた」という畏れだった。

 慶仁は、彼女の緊張を察し、穏やかに声をかけた。

 

「どうか、楽にしてください。ここは形式を重んじる場ではありません」

 

「は、はい……。もったいなき、お言葉でございます……」

 

 しかしその優しさは聡子にとって畏れを強めるものにしかならなかった。

 

(殿下は……私が触れてよいお方ではない。あのような壮絶な運命を背負われた殿下の、そのお心の傷に触れて良いはずがない。私は……ただ遠くからお守りするのが分相応……それが臣下の娘の務め……)

 

 聡子は、畏れから慶仁の横顔を見られなかった。礼を失していると理解しているが視線は常に床へ落ちていた。

 

「学習院では、どのようなことを学ばれましたか」

 

 聡子は、膝の上で握った手を震わせながら答えた。

 

「……古典を……少々……和歌や……礼法を……」

 

「和歌を。素晴らしいですね」

 

 殿下の声は優しい。

 しかしその優しさが、聡子には畏怖として響く。

 

(殿下は……私のような者に、こんなにも優しくしてくださる……それが……畏れ多い……)

 

 応接室に沈黙が広がった。

 

「殿下の……その……歌会始の御歌……。畏れながら、拝読いたしました……」

 

 沈黙に耐えかねた聡子が必死に話題を紡ぎだす。

 

「……そうですか」

 

「はい。……あまりに、清冽で。……読み進めるうちに、私の心は……冷たい雨に打たれるような心地がいたしました」

 

 慶仁は静かに頷いた。聡子は、言葉を継ごうとして、その喉を詰まらせた。

 

(あのような壮絶な運命を背負われた殿下のお心の傷は私如きが触れてよいものではない。触れることが許されるのは寛子様のようなお方だけ。私は……ただ遠くからお守りするのが分相応……)

 

「……あの……その……寛……」

 

 寛子の名を出そうと、その名を口にした瞬間、聡子の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 それは恐怖の涙ではなく、自分には触れられない深さを悟った涙だった。

 

 慶仁は、胸の奥を刺されるような感覚を覚えた。

 

(……この姫には、酷なことをした。彼女にとって、あの日、あの場所で起きたことは、血の通った出来事ではないのだ……この姫に、あの事はあまりに重い)

 

 慶仁が自らの思考の海に沈んでいる中でも、聡子は、礼を失しない様に絞り出すような声で続けていた。

 

「殿下……。私は、殿下のこれまでの月日を……理解できるとは、口が裂けても申し上げられません。……それは、私にとっては古い物語のようで、触れてはならない聖域のようで……殿下のお命を救われた、あの寛子様のような烈しいお覚悟など、私には到底……」

 

 嗚咽が、言葉を遮る。

 

「……私には……殿下があの御歌の中でご覧になっている景色が、あまりに深く、暗く……私が今まで教わってきた『美しい日本』とは……別の、恐ろしい場所のように思えてしまうのです」

 

 慶仁は、静かに目を閉じた。聡子の正直な告白は、残酷なほど正確だった。

 

(……そうだ。私が雨の音を聞き始めた時、この姫はまだ三歳の幼い童女だったのだ)

 

 昭和34年の伊勢湾台風──。それは彼女がまだ幼い頃の出来事。

 

 慶仁が目を閉ざしたのを見た聡子が、蒼褪めて謝罪と共に頭を下げる。

 

「あっ。申し訳ございません。失言でございました。私の不調法をお許しください」

 

 慶仁は、うつむいたまま震える聡子を見つめながら思った。

 

(……この方は、まだ喪失というものを知らないのだろう。いずれは知るものであろうが、いま知ってしまえば、きっと折れてしまう。この若さと無垢を、私の闇で塗りつぶしてはいけない)

 

「聡子様。……頭を上げてください」

 

 慶仁の言葉に、聡子は涙に濡れた顔を上げた。慶仁は、これまでにないほど優しい、慈しむような微笑を浮かべていた。

 

「あなたは、どうかご自身を責めないでください。あなたの未来は、今始まったばかりの輝かしいものです。その若さで、私の凍りついた影を背負う必要はありません。……あなたのその純粋さは、この国の宝です。私が守るべきは、あなたの歩むような、明るく穏やかな道なのだと、今日改めて気づかされました」

 

「……殿下……私には……寛子様のような覚悟は……持てません。……ですので……どうか……殿下をお支えできる方が……きっと……」

 

 その声は震えていたが、誠実だった。

 

 慶仁は静かに頷いた。

 

「……ありがとうございます。あなたの真心は、よく伝わりました」

 

 別れ際、聡子は、深い感謝と、そして大きな安堵を込めて、最後の一礼をした。

 退出していくその背中は、紀子以上に儚く、守るべき純粋さに満ちていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 聡子が去った後、慶仁は窓の外の庭園に視線を移した。

 

「……無理もないな、雅武」

 

「はっ」

 

「私が雨の音に囚われた時、中院の姫は童女だったのだ。前にお会いした鷹司の姫もな。私の十六年という時間は、彼女たちにとっては『教科書の悲劇』であり、『おとぎ話の悲劇』なのだ」

 

 慶仁は静かに呟いた。

 

「純粋な世界を生きる彼女達から見れば、私は生きながらにして死者を抱きしめている『怪物』なのかもしれぬな……」

 

 言葉を発しかけた雅武を片手をあげて押しとどめ、慶仁は、胸元に隠したお守りに触れた。

 

「鷹司の姫や中院の姫は、私の隣を歩く者ではない。……だが、守るべき純粋さを持っておられた。私が何のためにこの国の土を守り、治水に身を捧げるべきか。彼女達の震える肩が、その理由を教えてくれた気がする」

 

 その声は、優しさと深い自覚、そして自らの宿命を受け入れた、静かな決意に満ちていた。

 




白菫色:#eaedf7


 徳大寺・鷹司・中院の姫は、防災教育副読本「未来への備え」を初等科で読んで育った世代。

 西園寺・九条の姫はこの副読本が出版される頃(伊勢から2年後位?)は中等科になっている。


 九条は言うまでもなく、西園寺もおそらく慶仁と学習院で出会っている。
 慶仁が中等科二年の時、西園寺は初等科四年、九条は初等科三年。
 この時、寛子は中等科の最高学年なので西園寺にとっても憧れの存在だったはず。



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