京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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16 おとぎ話と現実と

 八月も下旬になり、京極宮邸の応接室は、磨き上げられた床に淡い光が反射し、夏の暑さと秋の気配が混じり合う奇妙な静けさが漂っていた。

 雅武が四人目の妃候補の来訪を告げた。

 

「殿下。中院聡子様、お越しにございます」

 

 その声は、いつもよりわずかに柔らかかった。

 19歳の少女が、いま扉の向こうで震えていることを、雅武は察していたのだ。

 慶仁が頷くと、扉が静かに開いた。

 室内の淡い光を受けて立つその少女は、しなやかな柳を思わせる細身の姿であった。身長は155㎝ほど、余計な影を纏わぬ体つきは軽やかで、歩むたび衣の裾が風に応える。

 若木の芽吹きのように清らかな胸元は控えめながらも柔らかな曲線を描き、細い腰は、帯をひと巻きすれば指が触れ合うのではないかと思われるほどの華奢さを秘めつつ、流れるように続く曲線は、静かな女性らしさをそっと語っていた。

 身に纏った白菫色の上質な訪問着は裾に控えめな御所車と桐の文様をあしらい、白地の袋帯を合わせている。

 髪は日本髪にまとめ、小粒の真珠があしらわれた簪が一朶、夏の光を受けて淡く輝いた。

 十九歳の清らかさを保ちつつ、旧大臣家の娘としての静かな威厳が自然に滲み出る装いだった。

 その一分の隙もない完璧な礼法は、中院家という名門が守り続けてきた『伝統そのもの』の顕現であった。

 しかし──その肩は、目に見えて強張っていた。

 

「中院聡子にございます。殿下にお目にかかれますこと……」

 

 聡子は、紀子以上に緊張していた。

 その声は細く震え、膝の上で固く握られた指先は白くなり、薄い肩が目に見えて強張っている。

 だが、それは恐怖ではなく、「触れてはならない聖域に近づいた」という畏れだった。

 慶仁は、彼女の緊張を察し、穏やかに声をかけた。

 

「どうか、楽にしてください。中院の姫。ここは形式を重んじる場ではありません」

 

「は、はい……。もったいのうございます……。それと、出来ますれば聡子とお呼びいただけ……」

 

「それでは、聡子様」

 

 笑みを浮かべ穏やかな声をかける慶仁。しかしその優しさは聡子にとって畏れを強めるものにしかならなかった。

 

(殿下は……私などが踏み入ってよい御境ではない……。……ただ遠くからお守りするのが分相応……それが臣下の娘の務め……)

 

 聡子は、畏れから慶仁の横顔を見られなかった。礼を失していると理解しているが視線は常に床へ落ちていた。

 

「学習院では、どのようなことを学ばれましたか」

 

 聡子は、膝の上で握った手を震わせながら答えた。

 

「……古典を……少々……和歌や……礼法を……」

 

「和歌を。素晴らしいですね」

 

 殿下の声は優しい。

 しかしその優しさが、聡子には畏怖として響く。

 

(殿下は……私のような者に、こんなにも優しくしてくださる……それが……畏れ多い……)

 

 応接室に沈黙が広がった。

 

「殿下の……その……歌会始の御歌……。畏れながら、拝読いたしました……」

 

 沈黙に耐えかねた聡子が必死に話題を紡ぎだす。

 

「そうでしたか。どの様に詠まれましたか。宜しければお聞かせください」

 

「はい。……あまりに、清冽で。……読み進めるうちに、私の心は……胸の奥に、ひやりと水が差すような心地がいたしました」

 

 慶仁は静かに頷いた。聡子は、言葉を継ごうとして、その喉を詰まらせた。

 

(あのような壮絶な運命を背負われた殿下のお心の傷は私如きが触れてよいものではない。触れることが許されるのは寛子様のようなお方だけ。私は……ただ遠くからお守りするのが分相応……)

 

「……あの……その……寛……」

 

 寛子の名を出そうと、その名を口にした瞬間、聡子の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 それは恐怖の涙ではなく、自分には触れられない深さを悟った涙だった。

 

 慶仁は、胸の奥を刺されるような感覚を覚えた。

 

(……この姫には、酷なことをした。彼女にとって、あの日、あの場所で起きたことは、血の通った出来事ではないのだ……この姫に、あの事はあまりに重い)

 

 慶仁が自らの思考の海に沈んでいる中でも、聡子は、礼を失しない様に絞り出すような声で続けていた。

 

「殿下……。私は、殿下のこれまでの月日を……理解できるとは、口が裂けても申し上げられません。……それは、私にとっては古の物語のようで、触れてはならない聖域のようで……殿下のお命を救われた、あの寛子様のような烈しいお覚悟など、私には到底……」

 

 嗚咽が、言葉を遮る。

 

「……私には……殿下があの御歌の中でご覧になっている景色が、あまりに深く、暗く……私が今まで教わってきた『美しい日本』とは……別の、恐ろしい場所のように思えてしまうのです」

 

 慶仁は、静かに目を閉じた。聡子の正直な告白は、残酷なほど正確だった。

 

(……そうだ。私が雨の音を聞き始めた時、この姫はまだ三歳の幼い童女だったのだ)

 

 昭和34年の伊勢湾台風──。それは彼女がまだ幼い頃の出来事。

 

 慶仁が目を閉ざしたのを見た聡子が、蒼褪めて謝罪と共に頭を下げる。

 

「あっ。まことに申し訳のうございます。失言でございました。私の不調法をお許しください」

 

 慶仁は、うつむいたまま震える聡子を見つめながら思った。

 

(……この方は、まだ喪失というものを知らないのだろう。いずれは知るものであろうが、いま知ってしまえば、きっと折れてしまう。この若さと無垢を、私の闇で塗りつぶしてはいけない)

 

「聡子様。……頭を上げてください」

 

 慶仁の言葉に、聡子は涙に濡れた顔を上げた。慶仁は、これまでにないほど優しい、慈しむような微笑を浮かべていた。

 

「あなたは、どうかご自身を責めないでください。あなたの未来は、今始まったばかりの輝かしいものです。その若さで、私の凍りついた影を背負う必要はありません。……あなたのその純粋さは、この国の宝です。私が守るべきは、あなたの歩むような、明るく穏やかな道なのだと、今日改めて気づかされました」

 

「……殿下……私には……寛子様のような覚悟は……持てません。……ですので……どうか……殿下をお支えできる方が……きっと……」

 

 その声は震えていたが、誠実だった。

 慶仁は静かに頷いた。

 

「……ありがとうございます。あなたの真心は、よく伝わりました」

 

 別れ際、聡子は、深い感謝と、そして大きな安堵を込めて、最後の一礼をした。

 退出していくその背中は、紀子以上に儚く、守るべき純粋さに満ちていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 中院家の娘として、一分の隙もない完璧な装いで殿下の前に立った聡子であったが、その内面は極限まで張り詰めていた。

 退室を許され、張り詰めていた均衡が崩れた瞬間、彼女を待ち受けていたのは、ただ静寂に満ちた長い廊下であった。

 彼女が背負っているのは「伝統」そのものである。慶仁との対面は単なる見合いではなく、家門の命運を賭けた戦いでもあった。人目を避けるように廊下の角を曲がった直後、張り詰めていた糸が途切れ、彼女の膝からふっと力が抜けた。

 冷たい板張りの廊下に、膝をつくその姿は、周囲が求める「高貴な偶像」などではなく、重圧に押し潰されそうな一人の繊細な少女そのものであった。

 声を押し殺し、肩を震わせて涙する孤独な背中を、慶仁の側近である雅武は静かに見守っていた。

 雅武は無言のまま歩み寄り、そっと清潔な布を差し出した。

 それは、彼女の涙を拭うためだけのものではない。高貴な姫君としてのプライドを決して傷つけぬよう、そっと差し掛けられたその動きには、余計な同情も、軽々しい慰めもなかった。

 ただ、殿下の痛みを十七年の間傍らで見てきた者だけが持つ、静かな強さと、揺るがぬ優しさがあった。

 その瞬間、聡子の胸の奥で、張りつめていた何かがふっとほどけた。

 

(……この方は……殿下の影を、恐れておられない……)

 

 涙で曇った視界の向こうで、雅武の横顔は驚くほど穏やかで、しかしどこか寂しげでもあった。

 その表情が、聡子の胸に小さな灯のように残った。

 

「殿下は決してお気を悪くされていませんよ」

 

 その声は低く、静かで、まるで冷たい水面にそっと落ちる一滴のように、聡子の胸に染み込んだ。

 

(……この方は……殿下の御心を……こんなにも近くで……)

 

 自分の涙を恥じていたはずなのに、その言葉に触れた途端、胸の奥に温かいものが広がっていく。

 それは恋ではない。

 ただ──

 

「この方の言葉なら、信じてよい」

 

 そう思わせる、静かな信頼の芽だった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「ただいま戻りました」

 

「中院の姫は如何であったか」

 

 慶仁の問いに、雅武は一瞬だけ視線を落とし、先ほど手渡した白布の温みを、まだ指先に覚えていた。中院家の車を見送り、その足で執務室へと戻った彼の耳には、まだ先ほどの微かな泣き声が残っている。

 一瞬の迷いが生じたが、雅武はただ事実だけを言葉に乗せた。

 

「──お労しいほどに、震えておいででした。殿下のお言葉を、それほどまでに重く、誠実に受け止められたのでしょう。中院の姫君は、己の無力さを深く恥じながら、涙を堪えてお下がりになりました」

 

 雅武の言葉に、慶仁はただ窓の外の遠い空を見つめた。その横顔には、かつて桑名の地で多くの命を失った者が背負う、静かで深い諦念が滲んでいた。

 

「姫には気の毒な振る舞いをしてしまったか。……姫が恐れるのも無理はないな、雅武」

 

「はっ」

 

「私が雨の音に囚われた時、中院の姫は三つの童女だったのだ。ああ、前にお会いした鷹司の姫も当時は四つの童女だったな。……私の十六年という時間は、彼女たちにとっては『教科書の悲劇』であり、『おとぎ話の悲劇』なのだ」

 

 慶仁は静かに呟いた。

 

「純粋な世界を生きる彼女達から見れば、私は生きながらにして死者を抱きしめている『怪物』なのかもしれぬな……」

 

 言葉を発しかけた雅武を片手をあげて押しとどめ、慶仁は、胸元に隠したお守りに触れた。

 

「鷹司の姫や中院の姫は、私の隣を歩く者ではない。……だが、守るべき純粋さを持っておられた。私が何のためにこの国の土を守り、治水に身を捧げるべきか。彼女達の震える肩が、その理由を教えてくれた気がする」

 

 その声は、優しさと深い自覚、そして自らの宿命を受け入れた、静かな決意に満ちていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 中院の邸へと帰り着いた聡子は、出迎えた父である中院伯爵の前に座すと、深く頭を垂れた。張り詰めた緊張から解放されたその身体は、まだ微かに震えているようであった。

 

「……殿下は、防災読本に描かれていた、あの悲劇をそのまま生きるお方にございました。あまりの御威光と、その背にある深い闇に気圧され、私は……中院の娘でありながら、殿下の前で涙を零すという不調法を働いてしまいました。誠に、申し訳ございません」

 

 聡子は声を詰まらせ、己の不甲斐なさを深く恥じた。五女とはいえ名門の娘、家門の顔に泥を塗ったという自責の念が、彼女の胸をまた締め付けようとしていた。

 しかし、彼女はそこで言葉を止めず、伏せた瞳を小さく揺らしながら、確かな熱を帯びた声で言葉を継いだ。

 

「ですが……退室の折、廊下の角で動けなくなりました私を、殿下の側近であられる六条様が救ってくださったのです」

 

「……六条、とな。はて……。ああ、宮家令の六条子爵の次男坊か」

 

 父の怪訝そうな声に、聡子は小さく頷いた。

 

「はい。六条様は、私の涙を決して他者に見せぬよう静かに遮り、白の手巾を差し伸べてくださいました。そして、『殿下は決してお気を悪くされていません、ご自分を責めぬように』と、穏やかにお諭しくださったのです。あの深いお言葉は、殿下の御心を最も近くで支える六条様だからこそ、紡げるものにございました。私は……あの御方の誠実さに、救われたのでございます」

 

 そう言った瞬間、聡子の頬がわずかに紅く染まった。

 自分でも理由が分からない。

 ただ、あの廊下で差し出された白布の温もりと、涙を見せぬようにと立ち塞がった雅武の背中が、胸の奥に静かに残っていた。

 

(……あの方は……殿下の影を背負う強さを持っておられる……)

 

 その思いが、聡子の胸に小さな灯をともした。

 それが何の灯なのか、聡子自身はまだ知らない。

 ただ、胸の奥がほんの少しだけ温かくなるのを、どうしても否定できなかった。

 その様子をじっと見つめていた中院伯爵は、やがて短く髭を撫で、小さく破顔した。

 宮中における慶仁の権勢は、今や誰もが無視できぬもの。その最側近として、殿下の「影」を十七年間も共に背負ってきたという六条雅武の実務能力と信頼の厚さは、伯爵の耳にも届いていた。

 

「なるほど……殿下の御前でなくとも、その懐刀が其方をそれほど見事に救うてくれたか。六条殿、噂にたがわぬ見事な働きよの」

 

 伯爵の鋭い眼光に、娘を案じる親心と、政治家としての老獪な光が混ざり合う。

 

「六条家は子爵家。我が中院家からすれば家格は些か劣るが……五女のお前の降嫁先としては、名のみの家柄に比べれば、よほど堅実よ。将来性もある。何より、初めて会ったお前がそこまで心を寄せているのだ」

 

「ち、父上!?  私はそのような不純な意味で申し上げたのでは……!」

 

 慌てて顔を上げる聡子を、父は温和な、しかし退路を断つような笑みで制した。

 

「分かっておる。まずは、我が中院家から京極宮邸へ、本日の無礼の詫びと『六条殿への丁重なる謝意』を込めた書状を送らねばならんな。……聡子、文は、お前が自ら認めるが良い」

 

「私が、でございますか……?」

 

「左様。それが礼儀というものだ」

 

 そう言って席を立つ父の背中を見送りながら、聡子は胸の高鳴りを抑えきれずにいた。

 

 父との会話を終え、廊下に出た聡子は、胸に手を当てた。

 脈が、いつもより少しだけ早い。

 

(……六条様……)

 

 名前を心の中で呼んだだけで、胸の奥に小さな波紋が広がる。

 それは、殿下の影に触れた恐怖とはまったく違う、柔らかく、静かな揺れだった。

 

(……あの方の言葉が……まだ、胸に残っている……)

 

 それが恋だとは思わない。

 ただ、あの廊下で救われた瞬間の温度だけが、どうしても胸から離れなかった。

 聡子は、誰にも聞こえないほど小さく息を吐いた。

 その息は、十九歳の少女が初めて抱いた『淡い敬慕』の色を帯びていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 その夜、聡子は灯りを落とした自室で、膝の上に置いた白布をそっと指先で撫でていた。

 六条雅武が差し出した、あの白布。

 涙の跡はもう乾いているのに、布の端に触れるたび、胸の奥がわずかに熱を帯びる。

 

(……殿下の御心を、あれほど静かに、深く……)

 

 思い返すのは、雅武の言葉ではなく、その声音の揺らがなさだった。

 殿下の影を恐れず、しかし軽々しく触れようともしない、あの絶妙な距離。

 

(……あの方は……殿下の痛みを、知っておられる……)

 

 その事実が、聡子には眩しく思えた。

 恋ではない。

 そう言い聞かせるまでもなく、聡子は恋というものをまだ知らなかった。

 ただ、胸の奥に小さな灯がともったような、そんな静かな感覚だけが残った。

 その灯が何を意味するのか、聡子はまだ知らなかった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 翌朝、鏡の前に座った聡子は、ふと自分の髪に触れた。

 昨日よりも、少しだけ丁寧に結い上げたいと思った。

 

(……六条様は、殿下の御側に立つ方……その方の前で、恥ずかしくないように……)

 

 そう思った瞬間、聡子は自分の胸がわずかに熱くなるのを感じ、慌てて手を引っ込めた。

 

(……何を……考えているのかしら、私。……もうお会いすることも無いでしょうに)

 

 そう思うのに、鏡の中の頬は、ほんのりと紅を帯びていた。

 その紅の理由を、聡子はまだ言葉にできなかった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 数日後、聡子は講義からの帰り道、ふと空を見上げた。

 夏雲の切れ間から差す光が、あの日の京極宮邸の廊下を思い出させる。

 

(……殿下の御心を支える方は……きっと、私ではない。けれど……)

 

 胸の奥に、あの白布の温もりがよみがえる。

 

(……六条様のように、誰かの痛みに寄り添える人に……いつかなれたら……)

 

 その願いは、十九歳の少女が初めて抱いた、自分自身の未来への祈りだった。

 




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 徳大寺・鷹司・中院の姫は、防災教育副読本「未来への備え」を初等科で読んで育った世代。

 西園寺・九条の姫はこの副読本が出版される頃(伊勢から2年後位?)は中等科になっている。


 九条は言うまでもなく、西園寺もおそらく慶仁と学習院で出会っている。
 慶仁が中等科二年の時、西園寺は初等科四年、九条は初等科三年。
 この時、寛子は中等科の最高学年なので西園寺にとっても憧れの存在だったはず。



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