京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

17 / 24
17 初等教育課程 防災教育副読本 「未来への備え」 より抜粋

一、稲むらの火

 

 遠い昔、安政元年(西暦1854年)の十一月のことです。紀州(いまの和歌山県)の小さな村、広村は、夕焼けに染まる美しい海辺にありました。

 11月4日の朝、激しい揺れが村を襲いました。揺れが収まった直後、海岸では潮が異常な動きを見せ、黒い高波が迫ります。

「大地震の後は津波が来る」——その教えに従い、村人たちは一斉に八幡宮の高台へと避難しました。

 翌5日、海は嘘のように穏やかになり、安心した村人たちは片付けのために家へと戻っていきました。

 しかし、午後のこと。二人の村人が「井戸の水が急激に下がっている」と、村の庄屋であった濱口梧陵に異変を訴えます。

 何か恐ろしいことが起きるのではないかという不安が村を包んだ午後4時半過ぎ、昨日を遥かに凌ぐ大地震が大地を揺さぶりました。

 その激しさは、筆舌に尽くしがたいものでした。屋根瓦は崩れ落ち、壁は砕け、塀はなぎ倒され、立ち昇る土煙が空を真っ黒に覆い尽くしました。

 村の庄屋であった梧陵が、村の状況を確認しようと海岸へ向かったその時です。海の沖合から、百雷の落ちるような轟音が響き渡りました。

「津波だ! 家を捨てて逃げろ!」

  叫び声と同時に、猛烈な勢いの波が川を遡り、家々を紙細工のように押し流していきます。梧陵も逃げる間もなく、濁流に半身を呑み込まれました。必死の思いで高台の丘へと這い上がった梧陵が振り返ると、流木にすがり、助けを求める人々の悲惨な光景が広がっていました。

 避難所の八幡宮には、家族を捜して泣き叫ぶ人々の声が響き渡ります。日は暮れ、あたりは深い闇に包まれました。

「まだ逃げ遅れている者がいるはずだ」

 梧陵は村人数十人とともに松明を焚いて救助に向かいましたが、流材が道を塞ぎ避難を妨げていました。

「この暗闇ではどこへ逃げればいいか分からない……」

 梧陵が考えながらあたりを見回すと、刈り取り積んであった稲むらが目に映りました。梧陵は即座に決断を下します。

「稲むらに火をつけろ!」

 パチパチと音を立てて燃え上がる巨大な火柱。それは、暗闇を彷徨う人々にとって、命を導く道しるべとなりました。この光を目指して高台へ駆け上がり、多くの命が九死に一生を得たのです。

 その後、村を飲み込む最大級の激浪が押し寄せ、燃える稲むらさえも押し流していきました。その光景を前に、村人たちは自然の猛威への畏れを深く胸に刻んだのです。

 梧陵の偉業は災害に際して迅速な避難に貢献しただけではありません。地震の後も将来再び同じ災害が起こることを慮り、私財を投じて防潮堤を築造しました。この防潮堤が昭和の南海地震による津波から広川町を救ったのです。

 この「稲むらの火」の物語は、私たちに二つのことを教えてくれます。

 災害は突然やってくること。そして、その時、どうすれば多くの人の命を救えるか、常に考え、行動する勇気が必要だということを。

 

二、殿下と侯爵令嬢の悲劇

 

 それから百年あまりの時が流れた、昭和三十四年九月二十六日の夜のことです。日本列島を未曾有の巨大台風が襲いました。その名は伊勢湾台風。この台風は、これまでのどんな台風よりも巨大で、恐ろしい力を秘めていました。

 この日、東海地方には、伊勢神宮でのご参拝を終えられた、後に京極宮家を継がれる小松宮家の慶仁王殿下もいらっしゃいました。殿下をお守りする方々は、台風を避けるために、伊勢に御逗留頂くか、京都にある大宮御所や華族の方々の屋敷に泊まることをお勧めしました。しかし、殿下は、「国民が苦しんでいる時に、自分だけが予定を遅らせて休むわけにはいかない。一刻も早く東京へ戻り、陛下の御手伝いをしなければならない」と、強い決意でおっしゃったのです。殿下の優しさと責任感は、一行を名古屋へと向かわせました。

 しかし、自然の猛威は、その尊いお気持ちをあざ笑うかのように、京都へ向かう鉄路も、名古屋へ向かう鉄路も、すべて寸断してしまったのでございます。避難の猶予もない中、殿下は止むを得ず、桑名で最も頑丈と言われた東良岑屋敷へと緊急に避難されることになりました。そのお側には、十六歳であった松殿侯爵家の長女、寛子様がいらっしゃいました。寛子様は、殿下が成人された暁にはお妃となる方であり、聡明で明るく、殿下とは御幼少のころより親しくあらせられ、殿下にとっては良き姉のような存在でもいらっしゃいました。

 建物のすぐ裏手を流れる揖斐川には、国が威信をかけて補強したばかりの立派な堤防がありました。人々は、その堤防がある限り、決して水害は受けない、頑丈な屋敷は絶対安全だと信じていました。しかし、台風がもたらした高潮は、人々の想像を絶するものでした。

 満潮と重なった高潮は、轟音とともに堤防を打ち砕いてしまいました。さらには、近くの貯木場から流れ出した何万本もの巨大な丸太が黒い壁のような濁流とともに押し寄せ、一行が避難していた東良岑屋敷をも無情に粉砕してしまったのです。

「洋館に逃げろ! 早く!」

 叫び声が響く中、殿下と寛子様も濁流に呑み込まれそうになりました。その時、寛子様は迷うことなく、まだ幼い殿下のお手を強く握り、激流の中を必死に和館の太い梁へと押し上げられました。

 殿下と寛子様にお仕えしていた方々や、寛子様と姉妹のように育った乳姉妹の千代という侍女も、お二人を必死に支え続けました。丸太がぶつかり合う激流の中で、一人また一人と冷たい濁流の中へ姿を消して行きました。とりわけ千代は、その身を土台として捧げたと言われています。

 そのような犠牲の連鎖の中でも寛子様は、

「殿下! 助けが間もなく参ります。それまでその手を決して御離しになりませぬよう、しっかりとお掴まり下さい!」

 そう殿下を励まされ、ご自身の全てをかけて殿下を守り抜きました。

 やがて夜が明け、救助の工兵隊が到着し、殿下は無事、救出されました。しかし、寛子様は、殿下を救った力を使い果たし、「殿下、お手をお離しになりませぬよう」との言葉を残し、救助の手を待つことなく、暗黒の濁流へと姿を消されました。

 後に発見された寛子様のご遺体は、泥にまみれながらも、伊勢でのご参拝の夜に殿下より賜った御印入りのお守りを固く握りしめ、その腕は、冷たい泥の中でも、なおも殿下を支えようとされているかのようだったそうです。それを見た工兵隊の方々は、泥だらけの顔でむせび泣き、誰もが言葉を失ったといいます。

 この悲劇は、日本中に大きな衝撃を与えました。

 これほどの科学技術を持ってしても、大切な命を守れなかったのか。本当に安全な場所とは、どこにあるのだろうかと。国民は深い悲しみと共に、自らの備えの甘さを痛感しました。

 この痛ましい出来事を教訓として、日本は変わることを誓いました。国は、二度とこのような悲劇を繰り返さないために、それまでの防災計画を全て見直しました。巨大な防潮堤や堤防が築かれ、全ての建物は、どんな災害にも耐えられるように、厳しく作り直されることになったのです。

 そして、私たち一人ひとりが、自分の命は自分で守るという意識を持ち、地域全体で助け合う「共助」の精神を育むことの大切さを、この悲劇は教えてくれました。

 殿下と侯爵令嬢の悲劇は、私たちに未来への責任を強く示しています。 私たちは、この尊い命の犠牲を忘れず、どんなに技術が進歩しても、常に自然の力を敬い、備え続けることの大切さを、次の世代へと語り継いでいかねばなりません。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。