京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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18 秋の風と、白き花の別れ

 九月。

 初秋の風が、赤坂の京極宮邸の庭に淡い光を揺らしていた。夏の名残をわずかに含んだ風が木々の葉をそっと鳴らし、庭の奥にある茶室へと流れ込んでくる。静かな水音のような風の気配が、茶室の畳に薄く影を落とした。

 床の間には、ヒマラヤタマアジサイの蕾が一枝、生けられていた。

 薄紫と白がまじりあう柔らかな色合いの蕾は、ほのかにほころび、内側から白い花弁が顔を覗かせている。夏と秋の境を象徴するような、静かな息づかいを宿していた。

 

「真理子殿。本日はようこそお越しくださいました」

 

「本日はお招きいただき、ありがとうございます、殿下」

 

 本日招かれた西園寺真理子が亭主の慶仁に深く礼をして席に着いた。

 時候の挨拶や玄関から待ち合いまでの掛け物、或いは茶道具について一通りの問答や所望を行う二人。

 和やかなやり取りが一段落すると、茶室には再び、釜の湯がたぎる松風の音だけが静かに響き始めた。

 慶仁は居住まいを正し、点前へと意識を集中させる。

 帛紗を捌いて棗と茶杓を清め、柄杓で掬った湯を茶碗に注いで茶筅通しを行った。

 建水に湯を空け、茶巾で茶碗の内側を丹念に拭き清める。真理子は瞬きもせず、その静謐な所作に見入っていた。

 慶仁は茶碗を膝の正面に置き、茶巾を釜の蓋の上へと静かに戻した。

 右手で茶杓を取り上げ、真理子に向かって静かに声をかける。

 

「お菓子をどうぞ」

 

 真理子が深く一礼し、縁高に手を伸ばす気配が慶仁に伝わった。

 菓子器に出された菓子を懐紙の上に移し、真理子が黒文字の菓子箸で静かに菓子を切り分け、口に運ぶ。

 その楚々とした所作を肌で感じながら、慶仁は左手で棗を横から取り、右手で蓋を取って茶碗の右斜め前へと置いた。

 茶杓で二杓、鮮やかな薄緑の茶をすくい入れる。茶碗の縁で軽く茶杓を打って粉を落とし、棗に蓋をして元の位置へ戻すと、その上に茶杓を静かに乗せた。

 続いて、右手で水指のつまみを取る。左手で九時の位置を支えて蓋を縦にし、右手で十一時の位置を持ち直すと、水指の左側に音もなく立てかけた。

 真理子が菓子の最後の一口を飲み込み、懐紙で口元をそっと拭った。

 それを視界の端で確認した慶仁は、一呼吸おいて、下から柄杓を手に取った。

 たっぷりと湯を掬い、茶碗に注ぎ入れる。残りの湯を釜に返し、切り柄杓をして静かに預けた。

 慶仁が茶筅を取り、静かに振る。

 十六年の喪を抱えた彼の手つきは、決して華やかではない。だが、丁寧で、誠実で、どこか祈りのような静けさがあった。

 細やかな泡が立ち上がり、翡翠色の湯面がふわりと形作られていく。

 最後は、湯の中で静かに「の」の字を描くように引き上げ、茶筅を元の位置へと戻した。

 慶仁は茶碗を右手で取り、左の手の平に乗せた。

 手の中でゆっくりと二度回し、茶碗の正面が客である真理子の側へ向くように整え、定座へと差し出す。

 

「どうぞ」

 

「お点前頂戴いたします」

 

 差し出された茶碗を受け取る真理子の所作は、まるで慶仁の十六年の悲しみをそっと抱きしめるかのように、柔らかく、揺らぎがなかった。

 一口含むと、茶の温もりが真理子の胸の奥へと染みていく。

 真理子は目を伏せ、静かに茶碗を置いた。

 

「美味しく頂戴いたしました、殿下」

 

「もったいないお言葉です」

 

 慶仁は微笑んだが、その瞳の奥には、今日ここに至るまでの長い逡巡が影を落としていた。

 茶碗を受け取った慶仁は、ふと真理子の表情を見つめた。

 彼女は、数か月前に初めて会った時と同じように、決して踏み込んでこない、凪いだ湖面のような優しい微笑みを湛えていた。

 だが、その奥には、静かな光が宿っていた。

 茶碗を清め終えた真理子は、深く息を吸い、静かに口を開いた。

 

「殿下。もし……もしお許しくださるなら、この一度だけ、私にも点てさせていただけますでしょうか」

 

 慶仁は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに静かに頷いた。

 

「名高き真理子殿のお点前、ぜひ頂戴したい」

 

 真理子は深く礼をし、席を慶仁と換わり茶筅を手に取った。

 その動きは、まるで祈りそのものだった。

 換えた茶碗に湯を注ぎ、茶筅を振る。

 細かな泡が立ち上がり、翡翠色の湯面が柔らかく揺れる。

 真理子は、音もなく茶を点て、慶仁の前に差し出した。

 淡い翡翠色の湯面に、窓から差し込む陽光が小さく反射している。

 

「お点前頂戴いたします」

 

 慶仁は、茶碗を手に取り、その温もりを両手で包み込んだ。

 十六年間、彼が探し求めていた「温もり」は、確かにこの部屋にあった。真理子と共にいれば、彼はもう雨の音に怯えることはないだろう。彼女の深い教養と静かな祈りは、慶仁の痛みを美しい「和歌」のまま、永遠の聖域に保護してくれるはずだ。

 だが、茶を口に含んだ瞬間、慶仁は悟っていた。

 

(この温もりは、永遠に留めてはならないものだ)

 

「大変おいしく頂戴いたしました」

 

 慶仁が茶碗を静かに置いた。

 

「拙きお点前でございました」

 

 再び席を換える二人。

 

「噂にたがわぬ見事なお点前でした」

 

「もったいないお言葉でございます」

 

 真理子は深く頭を下げた。慶仁が真っ直ぐに真理子を見つめる。

 

「真理子殿。……過日、私は奥多摩の山へ入り、一人の女性に会いました」

 

 真理子の手が、ほんのわずかに止まった。しかし、彼女は顔を上げず、ただ静かに「はい」と相槌を打った。

 

「彼女は、泥だらけの作業着姿で、急斜面に這いつくばり、岩を砕いていました。過去の災害地を歩き、地層を調べ、この国の土地がどのように崩れ、どのように水を抱えるのかを……たった一人で、執念のように調べ続けていたのです」 

 

 茶室の静寂の中に、慶仁の低い声が響く。 

 

「彼女の爪には、黒い泥が深く入り込んでいました。その姿は、およそ華族の姫君からは程遠く……ですが、私の目には、その泥に塗れた姿が、どんな着飾った姿よりも気高く、美しく見えたのです」 

 

 慶仁は、自らの両手を見下ろした。 

 

「私はこの十六年、自分の痛みを心の奥底に閉じ込め、目を背けてきました。あの日、私を押し上げてくれた寛子の手は、決して美しいものではなかった。泥水と血に塗れ、私の命を繋ぐために、すべてを投げ打った手でした」 

 

 真理子は、黙って慶仁の言葉を聞いていた。

 

「真理子様。あなたは私に、安らぎを与えてくださった。あなたの祈りに、私はどれほど救われたか分かりません。ですが……」

 

「殿下」 

 

 慶仁の言葉を、真理子が静かな、しかし凛とした声で遮った。

 ゆっくりと顔を上げた真理子の瞳には、すでにすべてを悟ったような、透き通った光が宿っていた。

 

「……殿下の眼差しは、初めてお会いした時とは、すっかりお変わりになられました」

 

「変わった……?」

 

「はい。初めてお会いした時の殿下の眼差しは十六年もの間、淀み、凍りついていた悲しみの淵にありました。……今は、激しく力強い水が流れ込んでおります」 

 

 真理子は床の間のヒマラヤタマアジサイに目を向けた。 

 

「私は、殿下の痛みに寄り添い、共に祈ることはできます。殿下が和歌に込められた悲しみを、美しいままに守り続けることはできます。……ですが、殿下が今求めておられるのは、悲しみを飾る『床の間の花』ではございませんね」 

 

 その言葉の正確さに、慶仁は息を呑んだ。

 

「今の殿下に必要な花は、寛子様が命を賭して守り抜かれた殿下の『生』を、共に燃やし尽くせる花です」 

 

 真理子は、静かに、深く頭を下げた。

 

「殿下のお心には、すでにその花が根を下ろしておいでです」 

 

 慶仁は、茶室の静寂の中で目を閉じた。

 真理子の口から語られた言葉は、彼自身が奥多摩の山中で気づきながらも、妃選定という重圧の前で言葉にできずにいた「確信」そのものだった。

 

「……真理子様。私は、あなたという素晴らしい女性を前に、あまりにも身勝手な……」

 

「殿下。どうか、身勝手などと仰らないでくださいませ」

 

 顔を上げた真理子は、ふわりと、この日一番の、そしてどこか哀愁を帯びた美しい微笑みを浮かべた。

 

「殿下が、ご自身の足で泥の中へ歩き出されること。それこそが、寛子様への何よりの供養であり、私にとっても……これ以上の喜びはございません。私は、殿下の御心を押す為の一筋の風になれたことを生涯の誇りといたします」 

 

 それは、西園寺真理子という傑出した知性と慈愛を持つ女性からの、あまりにも見事な「辞退の宣言」であった。

 彼女は、自分が選ばれなかった悲劇の姫になることを拒み、自らの意志で慶仁の背中を押し、彼を嵐の中へと送り出したのだ。

 慶仁は、姿勢を正し、彼女に向かって深々と、臣下に対する枠を超えた最敬礼で頭を下げた。

 

「西園寺公爵家が三……いや、真理子様。あなたの御心に、この京極宮慶仁、心より感謝を申し上げる」

 

「勿体なきお言葉でございます、殿下」 

 

 真理子は慶仁が点て、自身が点て直した二つの茶碗を静かに見つめた。

 彼女はゆっくりと居住まいを正すと、茶室の作法に則り、拝見を終えた道具を静かに返す。それは、共に過ごした時間の終わりを告げる、音のない儀式であった。

 真理子は、まるで最初からこの結果を知っていたかのような淀みのない動作で、静かに膝を退めた。 

 真理子が立ち上がろうとした瞬間、慶仁がわずかに身を乗り出した。

 

「真理子殿。お見送りを――」

 

 その言葉を、真理子は静かに、しかし揺るぎない声音で遮った。

 

「殿下。どうか……お控えくださいませ」

 

 その声音は、柔らかいのに、どこか決定的だった。

 慶仁が思わず息を呑んだ。真理子は静かに続けた。

 

「殿下が私をお見送りくださるなど、あまりにも過分にございます。私は、殿下の御心が向かうべき未来の前に立つ者ではございません。どうか、この茶室の中で……私をお忘れくださいませ」

 

 その言葉は、単なる辞退ではなかった。

 慶仁の未来に、自分の影を一切残さないための、最後の礼節だった。

 真理子は静かに微笑んだ。

 その微笑みには、哀しみも未練もなかった。ただ、深い理解と、揺るぎない覚悟だけがあった。

 

「殿下。見送りとは、別れを惜しむ者が交わす情の儀でございます。私は……殿下に惜しまれるような立場ではございません。殿下の御心は、すでに別の方へ向かっておいでです。その御心を曇らせるような振る舞いを、私がする訳には参りません」

 

 それは『私は殿下の物語の登場人物ではなく、殿下を未来へ送り出す風でありたい』という宣言だった。

 真理子は続けた。

 

「殿下が私をお見送りになれば、私は……殿下の御心に、余計な影を落としてしまいます。殿下が歩まれるべき道は、泥の中であれ、嵐の中であれ……殿下が御自ら選ばれた方と共に歩まれる道でございます」

 

 その言葉は、慶仁の胸に深く刺さった。真理子は、慶仁の未来を守るために、自分が『惜しまれる存在』になることすら拒んだのだ。

 

「私は、殿下の御心を押す為の一筋の風であれば、それで十分でございます。風は……見送られるものではございません」

 

 その瞬間、慶仁は悟った。

 真理子は、ただ辞退したのではない。慶仁の未来のために、自分の存在を静かに退けたのだ。彼女は、慶仁の背中を押すために現れ、慶仁が歩き出した瞬間、風のように姿を消すことを選んだ。だからこそ、見送りを受け取ることはできない。それは、風が自らの存在を主張することに等しいからだ。

 

 退室する間際、真理子が床の間のヒマラヤタマアジサイを見つめた。

 

「殿下。歌会始のあの御歌……あの一首は、今日この時をもって、本当の意味で詠み終えられたのでございますね」

 

 彼女の言葉は、慶仁の十六年間の喪に服した時間に、静かに、しかし決定的な幕を下ろした。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 茶室を去る真理子をその場で見送り慶仁は一人、室内に残っていた。

 茶室の外で控えていた雅武が入って来た。 

 

「……殿下。西園寺様は……」

 

「真理子様に一服点てて頂いた」

 

「では西園寺様が」

 

「いや。真理子様は御辞退なされた。今にして思えば、あの一服は、寛子への供養であり、私への祈りであり、そして自らの辞退の決意でもあったのだろう」

 

 慶仁が真理子が去った方角を見つめた。

 

「真理子様は、私の心の澱を見抜いておられた。私が美しく整えられた『悲しみ』という殻に閉じこもり、生きた寛子の魂を、ただの思い出にすり替えようとしていたことをな」

 

「……真理子様が、左様に」

 

「あの方は、私を押し出してくださったのだ。泥にまみれ、傷つきながら生きることこそが、寛子が私に託した『生』なのだと」

 

 雅武は、主の横顔に差し込む陽光が、これまでになく鋭い輝きを放っているのを見た。十六年前、あの日以来消えていた「生気」という名の炎が、その瞳の奥で静かに、しかし激しく再燃している。

 

「雅武。……私は、決めた」

 

 慶仁の声は、十六年間聞いたことのないほど、澄み渡り、そして鋼のような強さを持っていた。 

 

「真理子様は、私の心に最高の形で終止符を打ってくださった。これより先、私はもう、過去の温もりを探して立ち止まることはしない」 

 

 慶仁は窓外の高い秋空を見上げた。空は青く、どこまでも高く澄み切っていた。 

 

「宮内大臣に、私が九条公爵家に正式な接見を申し入れると伝えよ」 

 

 雅武は、一瞬目を瞠った後、深く、力強く頷いた。 

 

「御意にございます」

 

「だが……」 

 

 慶仁は、ふと苦笑を漏らした。

 

「あの『御侠』な姫のことだ。寛子への想いから、宮内省からの正式な打診など、何らかの理由をつけて固辞するに決まっている」

 

「では、いかがなさいますか?」 

 

 慶仁の瞳に、かつて雅武と剣道場で竹刀を交えていた頃のような、不敵な光が宿った。 

 

「逃げるのであれば、こちらから泥の中へ踏み込むまでだ」 

 

 雅武が退出し、静寂が戻った茶室に、秋の風がそっと吹き込んだ。

 床の間のヒマラヤタマアジサイが、わずかに揺れた。

 慶仁は、茶碗の前に座したまま、しばらく動かなかった。

 十六年。

 雨の音を聞くたびに、胸の奥で疼き続けた痛み。寛子の腕の温もりを探し続けた夜。

 それらが、今ようやく「過去」として静かに位置を変えた。

 真理子の言葉は、彼の心にそっと蓋をしたのではない。

 むしろ、蓋を開け、風を通し、痛みを「生きた記憶」へと変えたのだ。

 そして──。

 その風の先に、泥の匂いがあった。 

 

 

 その夜、京極宮邸の庭では、虫の声が静かに響いていた。

 慶仁は、縁側に立ち、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。

 十六年。

 雨の音に怯え続けた十六年が、ようやく終わろうとしている。

 

「……澄子。逃がしはしない」

 

 その呟きは、夜の闇に溶けていった。だが確かに、未来へ向けた第一歩の音が、静かに響いていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 その頃、九条家では澄子が、書斎の机に広げた地質図の上に、泥のついた指をそっと置いていた。

 雨の後の山は、まだ不安定だ。

 今日も、明日も、調べるべき場所は尽きない。

 だが──。

 胸の奥に、微かなざわめきがあった。 

 

(……殿下は、今日、どのように過ごされたのだろう)

 

 そんなことを思う自分に気づき、澄子は小さく首を振った。

 

「いけない……私は、寛子姉様の代わりにはなれない。なってはいけないのだから。私は、殿下のお傍に立つ資格など……」

 

 そう言いかけた時、ふと、奥多摩の斜面で慶仁が自分の腕を掴んだ瞬間が、鮮やかに蘇った。

 泥に塗れた手。

 震える声。

 十六年前、掴めなかった「腕」を、今度は決して離すまいとする強さ。

 澄子は、胸元を押さえた。 

 

(殿下……あなたは、まだあの濁流の中にいるのですね)

 





西園寺真理子嬢、25歳なので昭和50年では【クリスマスケーキ理論】で翌年には行き遅れの年増扱いされてしまうな……





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