京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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19 春の祈り、泥濘の誓い

 重厚な扉が閉ざされた宮内省の一室。張り詰めた静寂を破るように、召集された東伏水宮と香耶宮、そして宮内大臣に女官長が深く頭を下げ報告した。

 

「……西園寺真理子様より、正式に辞退のご意向が示されました」

 

 その瞬間、室内の空気がわずかに震えた。

 最初に口を開いたのは、東伏水宮だった。

 

「……辞退、とな」

 

 東伏水宮の声は覚悟を見抜いた者の声だった。

 

「……真理子殿が辞退とは。あの姫の御歳を思えば、これは西園寺家にとっても大事であろう」

 

 深い息と共に発せられたその声には、殿下のために身を引いた高潔さと将来を案じる現実の両方が滲んでいた。

 

「惜しい。実に惜しいが……見事な姫だ。あれほどの才を持ちながら、己の栄達より慶仁の未来を選ぶとは」

 

 その声音には、敬意があった。

 香耶宮は、報告書を閉じ、静かに目を伏せた。

 

「……西園寺の姫は、己が選ばれぬことを恥とも思わぬのだな。むしろ、慶仁の心が澄むことを喜びとしておられる」

 

 香耶宮が真理子の将来を案じて複雑な表情を浮かべると、応じるように宮内大臣が、深く腕を組み、重々しく述べた。

 

「……西園寺家としては痛恨でありましょうな。しかし、殿下の御心を曇らせぬために身を引くとは。……あの姫は、妃としての器を持ちながら、妃としての座を自ら捨てられたのか」

 

「真理子殿は御年二十五歳……来年は二十六。行き遅れと陰口を叩かれかねぬ歳よ。それを承知で辞退したのだ。慶仁の心を曇らせぬために、己の将来を捨てたということであろう」

 

 香耶宮は、眉間に深い皺を寄せ話をつづけた。

 

「西園寺家は……よく許したものだな。家の名誉を考えれば、京極宮妃となる機会を逃すなど、本来ならば家門の恥とされてもおかしくない。だが、真理子殿は家のために慶仁に選ばれようとはせず、慶仁のために家を背負う覚悟を捨てた。……あれは、己の人生を賭して慶仁の未来を守ったのだ」

 

 宮内大臣が資料を隅に遣り目を伏せた。

 

「……西園寺家からは、真理子の意志を尊重する。との返答がございました」

 

 その言葉に、東伏水宮が目を見開いた。

 

「家としては、慶仁の妃となることは最大の誉れ。それを娘が辞退するなど、本来ならば許されぬ。……西園寺公爵も娘の決断を受け入れられたというのか」

 

 香耶宮は真理子の辞退文を読み返しながら呟いた。

 

「西園寺家は慶仁の心を最優先とし、家の名誉より、慶仁の未来を選んだということでしょう。……真理子殿の『殿下の御心が優しい春を迎えられますように』という言葉。……これは、辞退ではなく祈りですな」

 

 そして、静かに付け加えた。

 

「二十五歳の姫が、自ら縁談の道を閉ざしてまで慶仁の未来を祈る……これほどの覚悟を持つ者が、他におりましょうか」

 

 東伏水宮は、深く頷き、静かに頭を垂れた。

 

「二十五歳で妃の座を辞退するというのは、自ら未来を閉ざすに等しい。それでも慶仁のためにと、身を引いた……あの姫は、ただ者ではない……見事な姫だ。あれほどの覚悟を持つ者を、我らは軽々しく扱ってはならぬ」

 

 その言葉に、皆が深く頷いた。

 

「……真理子殿は、慶仁の春を祈って去られた。ならば、我々は慶仁の夏を支えねばならぬ。嵐の中に咲く花を、慶仁が掴めるようにな」

 

 香耶宮の言葉に東伏水宮が楽しげな笑みを浮かべた。

 

「さて。迷える若者の背を蹴飛ばしてやろうかの」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 西園寺真理子との茶会を終えた数日後、慶仁は宮内省の奥まった一室に呼び出されていた。

 そこには、東伏水宮、香耶宮、そして宮内大臣の三人が、重大な評議でもするかのような厳粛な面持ちで並んでいた。 

 

「……さて、慶仁よ」 

 

 東伏水宮が、重厚な声を響かせる。

 

「西園寺、徳大寺、鷹司、中院。四家の姫が、揃いも揃って辞退の申し出をしてきた。これはいかなることだ、慶仁。其方、接見の場で何を話した」 

 

 宮内大臣も、困り果てたような顔で追及する。 

 

「殿下。鷹司、中院の姫はまだ解るのです、あの副読本の影響はあまりにも大きい。ですが、徳大寺の姫に、何度も御会いなされた西園寺の姫までもが『自分では殿下の御心に相応しくない』と、まるで口を揃えたような辞退理由でございます。これでは……」 

 

 慶仁は、三人の詰問を真っ向から受け止めた。その瞳には、以前のような澱みはない。 

 

「……彼女たちは皆、あまりに誠実でございました。私の痛みを、私以上に大切に扱ってくださった。だからこそ、彼女たちは選ばなかったのです。私の『過去』を飾るだけの妃という座を」

 

 慶仁は、しばらく沈黙したまま、机上の一通の書状──真理子の辞退文──を見つめ、静かに口を開いた。

 

「とりわけ西園寺の真理子殿は、私の十六年の闇に静かな灯をともしてくだされた。その御恩は、決して軽んじて良いものではありませぬ」

 

 東伏水宮と香耶宮は顔を見合わせると、その決然とした言葉に深く頷いた。

 

「宮内大臣。真理子殿の辞退は、私の心の負担を慮り、まだ心が整っていないと辞退を申し出られたという形で公表せよ」

 

 慶仁が命じると、宮内大臣が確認するように問い返した。

 

「……殿下の御心のために、身を引かれたという形でございますな」

 

「そうだ。『選ばれなかった』などという陰口を、真理子殿に浴びせることは断じて許されぬ」

 

 慶仁の声には、十六年の喪を終えた力強さが宿っていた。

 

「西園寺家には、私より直筆の書状を届ける。真理子殿の高潔さ、そして私の心を整えてくださった御恩を丁重に記す」

 

「なるほど。其方の直筆の書状は、西園寺家にとって何よりの名誉となるであろうな」

 

 東伏水宮が深く頷く。

 慶仁はさらに言葉を重ねた。

 

「西園寺真理子殿の縁談について、宮内省として、表に出すことなく最大限の後押しを」

 

「……殿下、それは……」

 

 宮内大臣が驚きを見せると、慶仁は真っ直ぐに彼を見据えた。

 

「真理子殿は、己の未来を賭して私の心を守ってくださった。その御恩に報いるのは、私の務めだ」

 

「御意にございます」

 

「であれば、妃選定の記録には『西園寺公爵家令嬢真理子殿は京極宮慶仁王の心を深く理解し、その歩みの一助となった』と明記せよ」

 

 東伏水宮の言葉に宮内大臣が答えた。

 

「……殿下。それは、西園寺様の名誉を永く守ることとなりましょう」

 

 慶仁の眼差しに力がこもった。

 

「真理子殿は、私の春を祈って去られた。その祈りに応えるためにも、私は前へ進む」

 

「ほう。どうするつもりだ」 

 

 香耶宮が慶仁の言葉に眉をひそめて問う。 

 

「残るは九条の姫一人。だが、あの『石蹴り遊び』に現を抜かす御侠な姫ぞ? 華族の間での評判も芳しくない。京極宮妃として、とても相応しいとは思えぬが」 

 

 慶仁は、一歩も引かなかった。 

 

「宮内大臣。……九条公爵家に、正式な接見を申し入れます」

 

「正気か、慶仁」 

 

 東伏水宮が声を荒らげる。 

 

「泥に塗れて山を歩くような姫ぞ。伝統ある宮家を泥濘で汚す気か」

 

「汚れるのは、私の服だけでございます」 

 

 慶仁の声は、鋼のような強さを持っていた。 

 

「彼女は、石を蹴っていたのではありません。十四年間、たった一人でこの国の『土』と、『水』と向き合い、民を災いから守るための術を学んでいたのです。慈照王。私は、彼女こそが、私の隣で共に歩むべき唯一の者であると確信いたしました」

 

「苦難の道ぞ」

 

「労苦は厭いませぬ」

 

「慶仁。其方に何が分かる」

 

 東伏水宮の鋭い問いに、慶仁は一歩も引かずに応えた。

 

「私は十六年前、泥と血に塗れた手に救われ、今日まで生かされてまいりました 。今までは、温室の中で過去を飾り立て、悲しみに浸ることで、自らの生を購おうとしてまいりました。しかし……」

 

 慶仁は一度言葉を切り、机に置かれた真理子の辞退文と、かつて何も掴めなかった自らの両手を見つめた。

 

「あの日私を救った寛子の手は、決して清らかなものではありませんでした。私の命を繋ぐために泥流に揉まれながら、執念で私を押し上げていた手です。その手を忘れ、治水の宮と称されながら泥を厭うのであれば、私にこの国を語る資格などありません」

 

 慶仁は顔を上げ、東伏水宮の瞳を射抜くように見据えた。

 

「京極宮の衣が泥に汚れることなど、あの日、私の命を繋ぐためにすべてを投げ打ったあの寛子の手の尊さに比べれば、些細なことにございます。泥濘を掻き分け、この国土を愛し、民を災いから守る盾となる。それこそが、私が掬われた命を燃やす、唯一の道であると確信しております。それを労苦と呼ぶのであれば、私にとってはそれこそが、生かされた命の『真実』にございます。それが皇族としての誇りを汚すと謗られ嗤われようとも」

 

 その言葉を聞いた瞬間、室内を支配していた重苦しい空気が、一変した。

 東伏水宮と香耶宮が、不敵にニヤリと笑い、顔を見合わせ頷いた。

 

「……ふむ、その眼差し。ようやく己の足で踏み出す覚悟ができたか」

 

 東伏水宮が、長机の下から一冊の分厚い報告書を取り出し、慶仁の前へと差し出した。

 そこには『九条澄子身上書』と書かれていた。 

 

「慈照王殿下、恒文王殿下。これはあまりに誤りが多く」

 

「問答無用。慶仁王、読まれよ」

 

「……はっ。…………!? ……! これは!」 

 

 香耶宮の有無を言わせぬ口調に、渋々報告書をめくる慶仁の手の動きが俄かに早まる。

 そこには、慶仁さえ知らなかった、澄子の十四年間の足跡が克明に記されていた。彼女が独学で地質学を修め、各地の崩落現場を歩き、どのような思いで「泥」を掘り続けてきたか。

 慶仁は震える手でページを捲り続け、最後に記された女官長の所見に目を止めた。 

 

『泥に塗れたその手は、決して奇行の証ではなく、この国の国土と民を憂う、何よりも尊き祈りの姿に他なりません。殿下の御心に空いた穴を埋めるのは「代わりの花」ではなく、殿下と共に「国土という土を耕す者」であると確信いたします』 

 

 慶仁の視界が、一瞬で滲んだ。熱いものがこみ上げ、喉の奥が震える。 

 

「……慈照王殿下、恒文王殿下。これは……」

 

「我らは最初から、あの姫の真実を知っておった」

 

 香耶宮が、穏やかな声で言った。

 

「だが、それを他人の口から教えられては意味がない。其方が自らの目であの姫の価値を見出さねばならなかったのだ」

 

 東伏水宮が立ち上がり、慶仁の肩を強く叩いた。

 

「我らは反対せぬ。他の宮家の反対は我らが話を通して押さえてやろう。……だがな、慶仁。宮内省や、陰口を叩く華族たちを納得させるのは、お前自身の仕事だ」

 

「……はっ」

 

「女官長は存じておりますが、侍従長や式部官長はご存じありませんからな」 

 

 宮内大臣が面目無げに話す。

 

「それとな」

 

 東伏水宮が、最後に楽しげな笑みを浮かべた。

 

「其方も覚悟はしておろうが、あの姫のことだ。正式な打診をしても、寛子の代わりにはなれぬと、何らかの理由をつけて逃げ出すに決まっておる。だが、我らは手助けはせぬ。かの姫を汝が欲するのであれば、汝自身の手で捕らえてみせよ」 

 

 慶仁は、深く、深く頭を下げた。

 

 手にした身上書の重みは、もはや悲劇の重みではない。それは、共に未来を造り上げるための、確かな礎の重さであった。

 

「……行ってまいります」

 

 手にした書を大切に抱き、慶仁は三人の重鎮へ向けて深く一礼した。

 部屋を出る慶仁の背中は、十六年前よりも、ずっと逞しく、輝いていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 その日の夜。自室に戻った慶仁は、静かに筆を取り、真理子への書状をしたためていた。

 墨を含ませた筆先が、滑らかに和紙へと走り出す。その一文字一文字には、もはや過去を彷徨うような躊躇いはなかった。十六年の長きにわたる喪の時代に幕を引き、新たな季節へと歩み出す者の、静かで力強い決意が宿っていた。

 

 

 数日後。

 西園寺家本邸の応接間には、秋の夕陽が障子越しに淡く差し込み、古い唐紙の牡丹文様を柔らかな金色に染め上げていた。

 静寂の中、廊下から控えめな足音が近づき、家令が恭しく声をかけた。

 

「旦那様。宮内省より、使いの方がお見えにございました」

 

 家令がうやうやしく差し出した銀盆の上には、一通の厚い封書が載せられていた。封には京極宮家の紋がくっきりと印され、表書きには慶仁の力強い直筆の墨跡が認められている。

 西園寺公爵は、その封書を見た瞬間、深く、静かに息を吸い込んだ。

 

「……殿下直筆の御書状か。臣下にとって、これ以上の誉れはない。だが……」

 

 重々しい呟きには、家長としての誇りと共に、娘の行く末を案じるひとりの父親としての痛みが滲んでいた。

 公爵は、静かに控えていた真理子に向き直り、封書を差し出した。

 

「真理子。……殿下より、其方に宛てた御文だ」

 

 真理子は両手を膝の上で揃えたまま、しばらく動くことができなかった。

 やがて、わずかに震える指先でそれを受け取り、そっと封を切る。

 中には、誠実な筆致で綴られた慶仁からの言葉があった。

 

『――真理子殿の透き通るような御心は、私の十六年の闇に静かな灯をともしてくださいました。私に優しい春を祈ってくださったその御恩、生涯忘れることはありません』

 

 読み終えた瞬間、真理子の肩が小さく震えた。

 こみ上げる熱いものを必死に堪え、彼女はゆっくりと顔を上げる。その表情は、涙の膜に覆われながらも、曇りのない深い誇りに満ちていた。

 

「……殿下は、私を選ばれなかったのではありません。私の祈りを……まっすぐに受け取ってくださったのです。私は、殿下の影を踏むことはできません」

 

 傍らの公爵夫人が、気丈に微笑む娘の横顔を見つめ、たまらず手で口元を覆った。

 

「真理子……あなた……」

 

 夫人は娘の肩を震える手で抱き寄せ、声をつまらせた。

 

「来年には、二十六歳……。世間が何と陰口を叩くか分かりません。それなのに……あなたは、ご自分の身を引いてまで殿下のために……」

 

 真理子は、母の手にそっと自分の手を重ね、静かに首を振った。

 

「お母様。今の殿下に必要な方は、共に国土という荒野を歩き、共に嵐に立ち向かう方です。私が殿下の未来を曇らせてはなりません。ですから、これでよかったのです」

 

 公爵は、黙って母娘のやり取りを聞いていたが、やがて深く、深く頷いた。

 

「真理子。殿下からのこの御書状は……決して選ばれなかった者への慰めなどではない」

 

 真理子は、静かに父を見つめ返した。

 

「これは……殿下の再生を導いた者への、最大限の感謝と敬意の証だ。お前は……自らの手で、殿下の十六年の喪を終わらせたのだ」

 

 父からの力強い肯定の言葉に、真理子の張り詰めていた糸がふっと緩み、その美しい瞳から一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。

 

 夕陽が完全に沈み、応接間に柔らかな夜の帳が満ちていく。

 真理子は、慶仁の御礼状を大切に胸に抱き、静かに目を閉じた。

 

(殿下……どうか、優しい春を……そして、共に泥を歩める方と、激しい夏を迎えられますように……)

 

 それはもはや妃候補としての未練や感傷ではない。一人の気高き女性として、敬愛する殿下の未来を心から祝福する、清らかな祈りであった。

 西園寺公爵夫妻は、そんな娘の気高くも美しい姿を、ただ静かに、誇り高く見守っていた。

 

 




 公爵家という名門の令嬢であったにもかかわらず、25歳まで独身だった西園寺真理子嬢。
 彼女が独身だった理由。
 それは……。

 その教養と和歌の才能があまりに突出していたため、周囲が下手に縁談を持ち込めなかったからであった。
「私と和歌で語り合える殿方でなくては」
 と見合いの席で和歌を詠みあい、見合い相手が、家柄や資産を鼻にかけて浅薄な歌を詠もうものなら、真理子は微笑みを絶やさぬまま、その男の「底の浅さ」を歌の中に鮮やかに封じ込めて返し「西園寺の姫君に釣り合う男がいない」という空気が華族社会に定着していた。






りしたら……25まで独身だわな。
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