伊勢の悲劇から三年が経っていた。
真理子が中等科三年に上がった初夏のことだった。
西園寺家は、例年のように軽いハイキングへ出かけていた。
父・西園寺公爵、母、そして真理子。
緑の匂いが濃く、山の空気は澄んでいた。
その時だった。
「……あれは」
父がふと足を止めた。
視線の先には、急斜面にしゃがみ込み、岩肌に顔を寄せる小柄な少女がいた。
白い帽子、土色のノート、そして小さな地質ハンマー。
その姿は、山の中でひときわ異質だった。
「九条の末の姫君ではないか」
真理子は目を瞬かせた。
「九条の澄子様……?」
父は静かに頷いた。
「また地面を掘っておられる……。亡き寛子様を探しておられるのだろうか。ここは桑名ではないのだが、それすらお分かりではないようだ」
その言葉に、真理子の胸がきゅっと締めつけられた。
「寛子様を……?」
「そうだ。寛子様を慕っていた姫だったからな。心が壊れてしまったとの評判であったが……学習院の者からは立ち直ったとも聞いた。だがこうして目の前で見ると……」
父は遠くの澄子を見つめ、深く息を吐いた。
「学習院の者たちは立ち直ったと思っているようだが、それは誤りなのやもしれぬ。御労しいことだ……日常を送られる上では問題ないとしても、こうして山で地面を掘り続けておられるようでは、いつになれば本当に立ち直られるのか」
真理子は、ただ静かに頷いた。
だが──その時の澄子の姿は、壊れた少女には見えなかった。
数週間後。
真理子は友人たちと再び同じ山道を歩いていた。
そしてまた、遠くの斜面で作業する澄子を見つけた。
「九条様……地面を……」
「お可哀想に。まだ亡くなられた寛子様を探していらっしゃるのね」
「そっとして差し上げましょう」
友人たちは、父と同じ解釈を口にした。
だが真理子は、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
(……本当に、そうなのだろうか?)
澄子の姿は、寛子を探すものではなく、何かを必死に読み取ろうとしているかの様だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
季節が変わり、秋の気配が漂い始めた頃。
真理子は三度目の偶然の遭遇を果たした。
その日、澄子は崩落跡の地層を前に、方位磁針を当て、土色帖に細かく記録を取っていた。
その姿は、寛子を探す少女ではなかった。むしろ、地層の言葉を読み取ろうとする研究者の姿に見えた。
真理子は息を呑んだ。
(……澄子様は、心を壊してなどいない。あの方は……もしかしたら災害の跡を調べることで、寛子様への鎮魂をしておられるのかも)
そして、静かに悟った。
(これは……誰にも言うべきではない)
学習院での澄子の評判が脳裏をよぎる。
(……違う。あれはあの方なりの祈りなのだ)
真理子は、深く息を吸った。
(これは報告すべきことかもしれない。だが……澄子様は、何か理由があって隠しておられる。ならば私は──気づかぬふりをして、遠くから見守るにとどめるべき)
その日から真理子は、澄子を寛子の影を背負う者として、静かに、深く、敬意をもって見守るようになった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
十二年の歳月が流れた。
真理子は、澄子が泥の中で生きる姫であることを知っていた。
寛子の死を、国土の傷を、誰よりも深く理解しようとした少女。
だからこそ──慶仁の眼差しが変わった瞬間、真理子はすべてを悟った。
(ああ……殿下は、あの方を見つけられたのだ。寛子様の影を恐れずに歩ける相手を)
そして真理子は、十二年前に山で見た小さな背中を思い出しながら、静かに、風のように身を引いた。
「……殿下。どうか、その方をお大切に。あの方が、どれほど長い年月……お一人で土と向き合ってこられたか、私は存じております」