数日後。
西園寺家本邸の応接間には、秋の夕陽が障子越しに淡く差し込み、古い唐紙の牡丹文様を柔らかな金色に染め上げていた。
静寂の中、廊下から控えめな足音が近づき、家令が恭しく声をかけた。
「旦那様。宮内省より、使いの方がお見えにございました」
家令がうやうやしく差し出した銀盆の上には、一通の厚い封書が載せられていた。封には京極宮家の紋がくっきりと印され、表書きには慶仁の力強い直筆の墨跡が認められている。
西園寺公爵は、その封書を見た瞬間、深く、静かに息を吸い込んだ。
「……殿下直筆の御書状か。臣下にとって、これ以上の誉れはない。だが……」
重々しい呟きには、家長としての誇りと共に、娘の行く末を案じるひとりの父親としての痛みが滲んでいた。
公爵は、静かに控えていた真理子に向き直り、封書を差し出した。
「真理子。……殿下より、其方に宛てた御文だ」
真理子は両手を膝の上で揃えたまま、しばらく動くことができなかった。
やがて、わずかに震える指先でそれを受け取り、そっと封を切る。
中には、誠実な筆致で綴られた慶仁からの言葉があった。
『――真理子殿の透き通るような御心は、私の十六年の闇に静かな灯をともしてくださいました。私に優しい春を祈ってくださったその御恩、生涯忘れることはありません』
読み終えた瞬間、真理子の肩が小さく震えた。
こみ上げる熱いものを必死に堪え、彼女はゆっくりと顔を上げる。その表情は、涙の膜に覆われながらも、曇りのない深い誇りに満ちていた。
「……殿下は、私を選ばれなかったのではありません。私の祈りを……まっすぐに受け取ってくださったのです。私は、殿下の影を踏むことはできません」
傍らの公爵夫人が、気丈に微笑む娘の横顔を見つめ、たまらず手で口元を覆った。
「真理子……あなた……」
夫人は娘の肩を震える手で抱き寄せ、声をつまらせた。
「来年には、二十六歳……。世間が何と陰口を叩くか分かりません。それなのに……あなたは、ご自分の身を引いてまで殿下のために……」
真理子は、母の手にそっと自分の手を重ね、静かに首を振った。
「お母様。今の殿下に必要な方は、共に国土という荒野を歩き、共に嵐に立ち向かう方です。私が殿下の未来を曇らせてはなりません。ですから、これでよかったのです」
公爵は、黙って母娘のやり取りを聞いていたが、やがて深く、深く頷いた。
「真理子。殿下からのこの御書状は……決して選ばれなかった者への慰めなどではない」
真理子は、静かに父を見つめ返した。
「これは……殿下の再生を導いた者への、最大限の感謝と敬意の証だ。お前は……自らの手で、殿下の十六年の喪を終わらせたのだ」
父からの力強い肯定の言葉に、真理子の張り詰めていた糸がふっと緩み、その美しい瞳から一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
夕陽が完全に沈み、応接間に柔らかな夜の帳が満ちていく。
真理子は、慶仁の御礼状を大切に胸に抱き、静かに目を閉じた。
(殿下……どうか、優しい春を……そして、共に泥を歩める方と、激しい夏を迎えられますように……)
それはもはや妃候補としての未練や感傷ではない。一人の気高き女性として、敬愛する殿下の未来を心から祝福する、清らかな祈りであった。
西園寺公爵夫妻は、そんな娘の気高くも美しい姿を、ただ静かに、誇り高く見守っていた。