京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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実在の建物名(六華苑)を出すのはさすがにまずいので修正

修正したモデルの名前(六華苑)はかなり後に名付けられたことを知ったので再度変更




2 濁流に散華せし白百合 【災害描写有り】

 昭和三十四年九月二十六日。

 東京・赤坂にある慶仁の仮邸──仮邸とはいえ、慶仁が京極宮継承の儀を済ませれば正式に京極宮邸となる為、他の宮邸と比べても遜色ない邸宅である。その広間から見る窓の外では、朝から降り続く雨が次第にその音を強めていたが、六条雅武の心に焦りはなかった。

 

「……よし、袖丈はこれで間違いあるまい。殿下は少し背が伸びられたようだから、これくらい余裕があった方が、京極宮としての初のお披露目に相応しい」

 

 雅武は、絹の擦れる微かな音を立てながら、慶仁が纏う装束の寸法を丁寧に確認していた。広げられた重厚な衣には、新たな宮家の象徴となる紋が静かに光っている。

 傍らの文机には、伊勢から戻る慶仁を迎えるための祝宴の招待状が、整然と積み上げられていた。

 

「台風が来ているとは言うが、殿下には八百万の神々がついておられる。まして、松殿の寛子様や千代達がついているのだ。案ずるには及ぶまい」

 

 雅武はまだ知らなかった。

 その時、三重の空を覆っていたのは、神々の加護すらも遮るほどの、真っ黒な絶望の壁であったことを。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 同日 午後三時過ぎ。

 激しい風雨が窓ガラスを叩きつける中、亀山駅を経て関西本線を上る特別列車は、喘ぐように桑名駅のホームへと滑り込んだ。

 本来であれば、愛知と三重の県境を流れる木曽三川に架かる長大な鉄橋を越え、名古屋を経てその日のうちに東京へと帰り着くはずの旅程であった。しかし、自然の猛威は、十二歳の若宮が抱いた気高き「公務への志」をあざ笑うかのように、その鉄路を無情にも切断した。

 

「殿下! 鉄橋が、渡れません」

 

 随行している側付の侍従武官が、顔面を蒼白にし慶仁の座る車室へと駆け込んできた。

 

「風速はすでに三十メートルを超え、揖斐川の水位も警戒標を大きく上回っております。この暴風雨の中、列車で橋を渡ることは自殺行為であると、国鉄側から運転見合わせの通達が下りました」

 

「……そうか」

 

 慶仁は、白く曇った車窓の外、狂ったように吹き荒れる風雨を静かに見つめた。

 再来月に京極宮の宮号を継承する彼にとって、この伊勢参拝は、子供から大人への境界線となるはずの儀式であった。

 その小さな背中には、一刻も早く上京し、陛下にその成長をお見せし、お支えせねばならないという焦燥とそれが叶わぬことへの悔しさが滲んでいた。

 

「殿下」

 

 傍らに控えていた寛子が、そっと声をかけた。十六歳の彼女の眼差しは、姉のように優しく、そして護衛のように鋭かった。

 

「御無念とは存じますが、今は天命に従うほかに道はございません。お体を休めることもまた、次なる公務への備えにございます」

 

 寛子の声は、十六歳の芳紀を迎えた女性らしい落ち着きを帯びていた。焦りの色を隠せない自分と比べ、今の慶仁には彼女が、学年差以上の遠い存在に感じられた。

 

「……わかっている、寛子。皆にも苦労をかけるな」

 

 そこへ、雨合羽姿でずぶ濡れになった桑名警察署長と駅長が、平伏する勢いで車内へ飛び込んできた。

 

「殿下! このまま停車した車内にお留まりいただくのは危険にございます。駅舎も古い木造ゆえ、いつ強風で屋根が飛ぶか知れません。畏れながら、当地で最も堅牢なる御滞在先を手配いたしました。良岑様が私財を投じ、過去の度重なる洪水の教訓を活かした桑名で最も頑丈に造られた東良岑屋敷でございます。東良岑屋敷であれば周囲の土地よりも一段高い場所に建てられており、桑名城址を利用した堅牢な石垣で守られております。どうか、至急の御移動を!」

 

 署長が提示した避難先──それは、桑名駅からほど近い揖斐川の右岸に建つ、「東良岑屋敷」であった。

 明治の鹿鳴館などを手がけたJ・コンドルの設計による、壮麗なる四層の塔屋を持つ洋館と、それに連結する広大な和館を擁する名建築である。地元では「絶対に壊れない良岑様の御殿」として知られており、皇族を迎える格式としても、これ以上の場所はなかった。

 

「……分かった。案内を頼む」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 桑名駅から一歩外へ踏み出した瞬間、一行は、これまでの人生で経験したことのない「物理的な暴力」としての風に殴りつけられた。

 風速三十メートル。それはもはや「吹く」という次元を超え、見えない巨大な壁が猛スピードで押し寄せてくるかのようだった。

 雨粒は水平に飛び、無数の散弾となって顔や手を容赦なく叩き据える。駅前に停められていた車列までのわずか十数メートルの距離が、絶望的なほど遠く感じられた。

 

「殿下、お急ぎを! 頭をお下げください!」

 

 ずぶ濡れの警察署長が絶叫するが、その声すら轟音に掻き消される。

 寛子は自らの雨合羽の裾が千切れるのも構わず、慶仁を包み込むようにして風上に立ち、車へと突き進んだ。寛子の前にいる千代もまた二人を守るべく全身を盾にして車へと突き進んだ。慶仁も、吹き飛ばされそうになる小さな体を必死に前へ傾け、寛子の手を両手で強く握りしめながら泥水を蹴立てた。

 

 どうにか後部座席に転がり込むと、分厚い鉄の扉が重い音を立てて閉められた。

 だが、安堵する暇はない。車内は、叩きつける雨音と、暴風が車体を揺さぶる不気味な震動に支配されていた。車体を打ち据える風雨の音は、まるで無数のハンマーで鉄箱を叩き壊そうとしているかのようだった。

 

「出せ! 何があっても止まるな!」

 

 助手席に乗り込んだ署長が怒鳴り、先導するパトカーを追うように車列が動き出した。

 桑名駅から東良岑屋敷までは、距離にしてわずか一キロ強。平時であれば車で五分と掛からない道のりである。しかし市街地は、すでに「崩壊」の只中にあった。

 

 視界は最悪だった。ワイパーは猛烈な勢いで動いているが、叩きつける雨の壁を全く拭い切れていない。

 助手席の署長は、もはや後部座席を振り返る余裕さえなかった。フロントガラス越しに、茶色い泥水に没していく路面を血走った目で見つめ、時折、無線機に向かって「前進! 構わず進め!」と怒鳴り散らしている。

 

(……ここまでの水害は、記憶にない)

 

 署長の脳裏には、先ほど駅で慶仁に告げた「東良岑屋敷なら、いかなる水害にも耐えられます」という自身の言葉が繰り返されていた。

 名建築と謳われるあの屋敷の堅牢さを信じてはいるが、今、タイヤを飲み込もうとしているこの濁流は、彼の「常識」の枠を、一秒ごとに削り取っていた。

 

「ひっ……!」

 

 同乗していた千代が、窓の外を見て短い悲鳴を上げた。

 強風に煽られ、沿道の木造平屋のトタン屋根が、まるで巨大なギロチンの刃のように宙を舞い、数メートル先の電柱に激突してへし折れたのだ。剥き出しになった電線が、バチバチと青白い火花を散らして泥水の中に落下する。

 

 車列の行く手を、強風でへし折られた街路樹が塞いでいた。

 先導していたパトカーから数名の警官が飛び出し、泥水に腰まで浸かりながら、その太い枝を渾身の力でどけようとしている。飛来する瓦や木片が警官たちのヘルメットや肩を打ち据えるが、彼らは慶仁の乗る車を停滞させまいと、狂気にも似た気迫で障害物を道の脇へと押し退けた。

 

 慶仁は、青ざめた唇を固く結び、窓枠を白くなるほど強く握りしめていた。

 十二歳の彼にとって、窓の外で繰り広げられる光景は地獄絵図そのものだった。自然の猛威の前では、皇族という身分も、国家の権威も、何の盾にもならない。ただ、泥水の中で血を流しながら道を切り開く名も知らぬ警官たちの献身だけが、自分たちの命を繋ぎ止めている。

 

(これが……これが自然の力なのか)

 

「殿下、目を閉じておいでください」

 

 寛子が、震える慶仁を引き寄せ、自らの胸に抱くようにした。

 その体温と、ほのかに香る白檀の香りが、狂乱の車内において唯一の人間らしい安らぎだった。だが、寛子の囁く声もまた、微かに震えていた。

 

「もうすぐです、殿下。コンドルの名建築ですから、あそこなら絶対に……」

 

「……いや、見ておく。私が、皆のこの姿を目に焼き付けておかねばならないのだ」

 

 慶仁は寛子の腕の中で、それでも決して窓の外から目を逸らそうとはしなかった。その気高い意地に、寛子は胸を衝かれたように一瞬息を呑み、そしてさらに強く彼を抱きしめた。

 

 その時、車体が大きく横滑りした。

 床下から不気味な音が響き始める。水位が上がり、泥水が車のシャーシを打ち始めているのだ。

 

「署長! 水位の上昇が早すぎる! エンジンが止まるぞ!」

 

 運転手の絶叫が、車内の沈黙を切り裂いた。マフラーから水が入り、エンジンが止まれば、彼らはこの吹き晒しの濁流の中に取り残される。

 

「回せ! 回転を落とすな! あと五百メートルだ!」

 

 署長の咆哮。もはやそこには、皇族を迎える者の礼節も、警察署長としての冷静さもなかった。ただ、一人の男として、この若き命を泥海の中に沈めてはならないという本能だけが彼を突き動かしていた。運転手は必死にアクセルを踏み続け、低速ギアのままエンジンの回転数を高く保ち続けた。

 

 永遠にも似た十数分。

 やがて、白く煙る視界の向こうに、揖斐川の巨大な土手と、それに寄り添うように建つ重厚な門が見えてきた。

 

「着きました! 東良岑屋敷であります!」

 

 署長が血を吐くような声で叫んだ。

 門番が必死の形相で扉を押し開け、車列が泥水を跳ね上げながら敷地内へ次々に滑り込む。

 慶仁の乗るセダンも後輪が激しく空転し、車体が横滑りしながらも、どうにか堅牢な屋根の下へと潜り込んだ。

 

 その直後、彼らが今まで走ってきた桑名の市街地の方角から、複数の木造家屋が倒壊する「メキメキ」という絶望的な轟音が、嵐の音を切り裂いて響き渡った。

 文字通り「間一髪」の強行突破であった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 広大な屋敷の管理人たちに迎えられ、慶仁と寛子達は接客用に用いられる和館へと案内された。

 

「ここならば、いかなる暴風雨でも御身は安全にございます」

 

 蒼褪めながらも自信に満ちた署長の言葉に、随行員たちもようやく安堵の息を漏らした。だが、車が門をくぐった時、慶仁は窓の外、すぐ背後にそびえる揖斐川の堤防を鋭く仰ぎ見ていた。

 

「署長。川があまりに近い。万一、あの堤防が決壊すれば、ここはひとたまりもないのではないか」

 

 十二歳の若宮の核心を突く指摘に、署長は雨に濡れた顔で必死に訴えた。

 

「畏れながら申し上げます。あちらの堤防は七年前の破堤を教訓として近年、国が威信をかけて補強したばかりにございます。万一越流いたしましても、ここはかつて桑名城の鷹場であり、周囲より幾分か高うなっておりますれば、直ちに洋館の二階や塔屋へ逃れれば、救助が来るまで十分に持ち堪えられます。駅舎や学校のような、薄い壁の建物とは造りが違うのでございます」

 

 寛子もまた、周囲の状況を冷徹に観察していた。

 

(確かに、周囲の家屋とは格段に強度が違う。でも、あの川の咆哮は……)

 

 胸をよぎる不安を押し殺し、彼女は慶仁の肩にそっと手を添えた。

 

「殿下、今は署長をお信じくださいませ。外の暴風雨に身を晒すより、今はこの屋敷で過ごされるのがよろしゅうございます」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「市内の状況を確認せねばなりません。我々はここで失礼いたします」

 

 一行が落ち着きを取り戻した事を確認した署長たちは市内で指揮を執るため屋敷を立ち去った。

 

「殿下の御身の安全を確保できた以上、今度は市民を守らねばならん。行くぞ」

 

 

 桑名署長たちが去った屋敷では慶仁の学友であり、雅武に代わって御付きとして同行していた五辻正成が、青ざめた顔で手拭いを差し出していた。

 

「殿下、お召し物が濡れておいでです。すぐにお着替えを」

 

 慶仁が「頭は良いが華奢」と評した通り、線の細い彼は度重なる列車の揺れと外の暴風雨の恐怖で、すでにひどく消耗しているようだった。

 一方、寛子の周囲では、妃教育の指南役として宮内省から遣わされた老女官が、不安げに身を寄せる若い侍女たちを厳しく叱咤していた。

 

「お静かに。殿下と寛子様の前で、そのように見苦しく怯えるものではありません」

 

 だが、そう言い放つ彼女自身の手もまた、微かに震えていた。

 

 

 一行が館内に入った直後、背後の揖斐川から、堤防が悲鳴を上げるような重低音が響いていた。

 それは、地元の人間が信頼していた「近代的な堤防」と「名建築」の前提を、未曾有の異常気象が根底から覆す、崩壊の序曲であった。

 

 ──誰も、地元の署長でさえ知る由もなかったのだ。

 河口の名古屋港から桑名にかけての沿岸部に広がる貯木場で、係留されていた無数の木材が、猛烈な波浪によってすでに枷を解かれつつあることを。

 

 雨戸越しにもガラス窓を震わせる風の音に混じり、川の向こうから、何万本もの巨大な原木がぶつかり合う、不気味な地鳴りのような音が響き始める。

 伊勢湾の海水が、猛烈な気圧低下と強風によって「巨大な水の壁」と化し、揖斐川を逆流してくるまで、あと数時間。

 いかにコンドルの名建築であろうと、木造の骨組みが、数トンの質量を持つ巨大木材の無数の直撃に耐えられるはずもない。その冷酷な物理法則が、漆黒の濁流とともにすぐそこまで迫っていた──。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 停電した和館の一室は、息苦しいほどの沈黙に包まれていた。

 東良岑屋敷の管理人が石油ランプに灯りを灯したので暗闇からは逃れられたが、外では暴風が獣のように唸り、すぐ裏手を流れる揖斐川からは、大地を削るような不気味な濁流の音が響いてくる。慶仁たちはただ不安げに、その音に息を潜めていた。

 寛子もこの異常な嵐の夜に、押し潰されそうな不安を抱いていた。

 寛子はそっと襟元から「菊結びのお守り」を取り出し、絶対に手放さぬよう、紐を自らの手首に幾重にも巻き付けて固く縛り、祈るように拳を固く握りしめた。

 だが、不安げに隣に座る慶仁に顔を向けた時、その瞳から揺らぎは消えていた。

 

「殿下、こちらへ」

 

 慶仁に余計な恐怖を与えまいと、寛子の声には凛とした響きさえあった。

 彼女は慶仁の体を庇うように、ぴたりと寄り添った。狂騒する嵐の中で、寛子の温かな体温だけが、慶仁にとって唯一の安心感であった。

 その時だった。

 地響きのような轟音と共に、想像を絶する衝撃が邸宅全体を揺るがした。

 高潮により水嵩を増した揖斐川の堤防が、限界を超えた凄まじい水圧に耐えかねて大音響と共に決壊したのである。

 

「決壊だ! 堤防が切れたぞ!! 洋館へ急──!!」

 

 その言葉と時を同じくして、悲鳴が上がる間もなく、十メートル近い「泥の壁」となった激流が名園の木々をへし折り、壮麗な洋館の漆喰壁や和館の建具をいとも容易く粉砕して、和館へと一気に雪崩れ込んできた。

 

「殿下!」

 

 一番近くにいた正成が、身を挺して慶仁を庇おうと飛び出した。しかし、彼のもともと華奢な体は、叩きつけられた濁流の圧倒的な質量の前に、まるで木の葉のようにいとも容易く押し流され、そのまま暗い渦の中へと姿を消した。

 

「正成!」

 

 慶仁の絶叫は轟音に掻き消された。

 重い家具や太い柱の破片が濁流の中で凶器となって渦巻いた。

 

「寛子様をお守りなさいませ!」

 

 指南役の老女官が若い侍女たちを庇うように両手を広げた直後、和館の和廊下と壁が濁流に押されて一気に倒壊した。悲鳴すら上げる暇もなく、老女官や寛子の世話を焼いていた侍女、少し離れたところにいた学友たちは、大量の土砂と建材の下敷きとなり、黒い水底へと呑み込まれていった。

 慶仁もまた為す術もなく水に浚われ、冷たく重い泥水の中で息ができずにもがいた。

 その暗闇の中で、細く、しかし力強い手が、慶仁の腕をきつく掴んだ。

 

「殿下! しっかりなさいませ!」

 

 水を飲み込みながら咳き込む慶仁を引っ張り上げたのは、寛子だった。彼女は自身の体ほどもある和館の太い松材の梁にしがみつき、必死の力で慶仁の体を、さらに高い天井裏へ通じる太い松材の梁の上へと押し上げようとしていた。

 

「寛子……! お前も、上がれ!」

 

「私は、後で……っ! まずは殿下を!」

 

 侍従や側衛官、松殿家の随行員たちが、もはや人の力では抗いようのない激流に足を取られながら、生き残った二人の学友達を庇いつつ、ただひたすらに慶仁と寛子のもとへと集まってくる。

 誰もが分かっていた。

 この濁流は、忠義を尽くす者の命を選んでくれるような優しいものではない。

 それでも、彼らは進み、慶仁と寛子を囲むように「肉の防波堤」を築こうと身を投げ出した。

 

「お二人を、守りまいらせよ! 御学友は我らの内に!」

 

 側付きの侍従武官が怒号を上げるが、渦を巻いて室内に雪崩れ込んできたのは水だけではなかった。がれきや貯木場から流出した数トンもの巨大な木材が、狂ったように暴れ回りながら押し寄せてきたのである。

 なおも声を張り上げようとした侍従武官の側頭に、丸太が容赦なく叩き付けられた。

 

「お二人を……おまもり……せ……よ……」

 

 その言葉を最後に、壮健な身体が赤い飛沫とともに濁流に呑まれる。

 それを皮切りに、もっとも外側で盾になろうとした屈強な側衛官たちの体に、巨大な木材が、瓦礫が容赦なく直撃する。肉が潰れ、骨が砕ける鈍い音が嵐の音に混じり、盾が崩れる。その内側で壁を築いていた侍従や随行員達にも木材が直撃し始め、血を吐きながら一人、また一人と濁流に引きずり込まれていく。

 その魔の手は二人の学友にも及び、助けようとした侍従や随行員とともに成すすべなく濁流に引きずり込まれ流される。

 慶仁の皆を呼ぶ声は雨と轟音にかき消され、ただ寛子の手を握る力だけが、彼の意志を示していた。

 彼らが命と引き換えに僅かな時間を稼いでいる間も、寛子は震えながら慶仁の体を必死に押し上げていた。

 その寛子のすぐ背後では、乳姉妹の千代が、濁流に呑まれそうになりながらも必死に寛子の背中を支えていた。

 

「寛子様……っ、お上がりを!」

 

 しかし次の瞬間、渦を巻いて室内に雪崩れ込んだ巨大な丸太が、千代の背中を無情にも打ち据えた。

 

「千代っ……!」

 

 寛子の叫びが轟音に消される。肋骨を砕かれ、肺から空気を吐き出させられた千代の体は、そのまま暗い水の底へと沈みかけた。だが、彼女は決して寛子から手を離さなかった。

 千代は沈みゆく中で、水底に沈んでいた建具に足をかけ、寛子の両足を自らの肩に乗せ、決死の力で上へと押し上げ、己の体を濁流の中の『土台』としたのである。

 

(千代……!)

 

 慶仁を押し上げようと水面でもがく寛子の体が、重力と水圧に逆らって、水底の千代の肩や頭を容赦なく踏みつける形になる。

 

(千代……ごめんなさい……ごめんなさい……!)

 

 寛子の頬を伝うのは涙か、それとも泥水か。

 残された側衛官や侍従、松殿家の随行員たちは、仲間が沈み、流されていくのを横目にしながらも、二人を囲むようにして必死に踏みとどまる。

 

「殿下をお守りせよ! 寛子様をお支えせよ!」

 

 互いに掛け合う怒号が怒濤の音に消される。

 彼らの足元では、濁流が唸りを上げ、二人を囲んでいた侍従や随行員たちも、一人、また一人と姿を消していった。

 慶仁はどうにか梁に上半身を乗せたが、揖斐川から直接流れ込む水流のすさまじさに全身が引き剥がされそうになる。寛子は慶仁の足を必死に支え続けた。

 その傍では松殿侯爵家の随行員が二人、渦巻く暗黒の濁流に足を取られながらも、寛子と慶仁の体を支え続けていた。

 最後に残った二人の随行員は、流木や瓦礫が体に叩きつけられる衝撃に耐え、血を吐きながらも、その手を緩めることはなかった。

 

「寛子! 手を出せ! 早く!」

 

 慶仁は梁から腕を伸ばした。だが、寛子の体力はすでに限界を超えていた。冷たい水が体温を奪い、凄まじい水圧が容赦なく彼女の体を揖斐川の巨大な渦へと引きずり込もうとする。

 その時、寛子の足元では、水の底へと呑み込まれた乳姉妹の千代の身体が、なお踏みとどまっていた。

 水底の千代は、肺に泥水を満たしながらも決して腕を緩めず、姉と慕う主の体を上へ、上へと支え続けた。

 その千代の命を削る土台があったからこそ、寛子は水面から顔を出し、慶仁を安全な高みへと押し上げることができたのだ。

 やがて、寛子を支えきった千代から力が抜け、足が建具から外れ、その小さな影は、二度と浮かび上がることなく漆黒の水底へと完全に消えていった。

 暗い水面から顔を出した寛子は、力なく微笑んだ。

 千代を失い、水底の足場をなくした寛子のもとに、泥水が再び容赦なく襲い掛かり、その体を揖斐川の巨大な渦へと引きずり込もうとする。

 

「寛子……! ダメだ、離すな!」

 

 慶仁は梁から腕を伸ばした。だが、千代を踏み台にしてすべての力を使い果たした寛子の体力は、すでに限界を超えていた。

 

「殿下……」

 

 轟音の中でも、その声だけは不思議と慶仁の耳に届いた。

 

「殿下……必ず助けが参ります。それまで決して、お手をお離しになりませぬよう……立派な、御当主に……」

 

 それが、最期の言葉だった。

 突如として和館の残りの柱をへし折って押し寄せた凄まじい波のうねりが、寛子達の体を無情にも飲み込んだ。

 

「寛子ぉぉぉっ!!」

 

 慶仁の絶叫が暗黒の水面に響き渡ったが、応える声はもうなかった。彼を支え続けた寛子、その寛子を命がけで支え抜いた千代、そして最後まで激流に抗い続け力尽きた随行員たちは、木造の邸宅を丸ごと飲み込んだ濁流の奥底へと完全に消え去っていた。

 

 二十七日。

 泥の海と化した桑名の地に国防軍の工兵大隊が駆けつけ、かろうじて押し流されずに残った洋館と和館の残骸に挟まっていた梁の上で慶仁は奇跡的に救出された。

 

 二十八日、未明。

 かつて壮麗を誇った名園の無残な泥の跡地で、国防軍の工兵大隊によって寛子の遺体が収容された。

 泥に塗れたその姿は痛ましいものであったが、彼女の手は、慶仁から手渡された御印入りのお守りを握りしめたまま固く結ばれていた。

 彼女と共に最期まで闘った二人の随行員たちの亡骸が、寛子は揖斐川に決して渡さぬとでも言うかの如く、その亡骸を庇う様に折り重なって横たわっていた。

 現場で指揮を執っていた歴戦の将兵たちも、十六歳の少女が見せた凄絶な自己犠牲の前に、泥だらけの軍帽を脱ぎ、深い黙祷を捧げた。

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 救助活動に従事した元工兵大隊長は後にこう語った。

 

「……私は大陸で多くの死線を見てきました。ですが、あの日、泥濘の中から収容した松殿侯爵家のご令嬢の御手を見た時、私の膝は初めて震えました。……その細い指は、泥に汚れ、爪は剥がれかけていながら、殿下から賜ったというお守りを固く握りしめておられた。その腕はまるであの梁を、或いは殿下の御手をまだ支えようとしているかのようでした。我々軍人が口にする『尽忠報国』という言葉が、いかに空疎なものであったか。あのお方こそが、この国の真の盾であられた。私はあの日以来、自らに問いかけております。『いまお前が造っているものはあの方を守りきれるのか』と」

 




候補の一つに桑名城跡があったのは内緒。さすがに殿下一行を台風のさなかの城跡には避難させられんかった。石垣ぐらいはまだあったはずだが。



 六華苑ではなく、諸戸徳成邸に逃がせば一行は助かったな……。
 ただ、そうなると、この出来事は九死に一生を得た幸運なエピソードとして美談化され、社会の根本的な仕組みを変えるまでの衝撃にはならない。
 となると、核アレルギーがないこの日本、OTL以上に原発ポコポコ建ててるだろうし、OTLと同じ防災・建築基準で進むなら、阪神か、中越か、東北かでOTL以上の大被害出しただろうな。
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