京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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20 すれ違う影と、追いかける光

 九月。

 秋雨前線が列島に停滞し、空は連日、薄い灰色の膜を張ったように曇っていた。

 慶仁の公務は、「水」と「地盤」に関わるものが多い。だが、この年の慶仁の視察予定は例年になく過密だった。

 河川の水位観測所、山間部の地すべり監視施設、都市部の共同溝、排水機場、そして新設された防災科学研究所の分室。

 だが──。

 その視察先のいくつかで、慶仁は「偶然」を目にすることになる。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「殿下、こちらが新設された地盤観測井でございます」

 

 案内役の技官が説明を続ける横で、慶仁の視線は、少し離れた場所に吸い寄せられた。

 

「あれは……」

 

 長靴を履き、軍手をはめた作業着姿の女性。

 髪を無造作に束ね、何より泥の跳ねた頬に見覚えがあった。

 

(澄子か)

 

 彼女は、技官たちに混じって地層サンプルを確認し、時折、鋭い質問を投げかけていた。

 その姿は、もはや「公爵家の姫」ではなく、現場の研究者そのものだった。

 

「殿下。あの方をご存知でいらっしゃいましたか」

「ああ。いささか縁があってな」

 

 慶仁が声を掛け歩み寄ろうとした。

 

「澄──」

 

 だが、その瞬間、澄子は気づいたように振り返り、礼儀正しく深く一礼した。

 

「殿下。ご視察の妨げとなりますゆえ、私はこれにて失礼いたします」

 

 そして、技官たちの間をすり抜けるように、軽やかに、しかし確固たる意志を持ってその場を離れていった。

 まるで、慶仁が一歩近づくたびに、一歩だけ遠ざかるように。

 

 

 視察車に戻った慶仁は、珍しく深いため息をついた。

 

「……逃げたな」

 

「殿下のお気持ちを察しているからこそ、でございましょう」

 

 雅武が苦笑混じりに呟く。

 

「察しているから、逃げるのか」

 

「はい。あの方は……殿下の想いを、決して踏みにじりたくないのでしょう」

 

 慶仁は、遠くの土手を見つめた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 地すべり対策工事の視察。

 山肌に張り巡らされたワイヤーの向こうで、またしても澄子の姿があった。

 ヘルメットを深くかぶり、測量器を覗き込んでいる。

 慶仁が近づくと、澄子は気づき、慌てて測量器を下げた。

 

「殿下……! こ、これは……その……」

 

「澄子。話がしたい」

 

 澄子の肩が、びくりと震えた。

 そして──。

 

「も、申し訳ございません! 私は、現場の確認が……!」

 

 澄子は、礼をすると同時に、作業員の誘導に紛れて山の奥へと消えていった。

 慶仁は、呆然とその背中を見送った。

 

 

「……逃げ足が速い」

 

「殿下。あの方は、殿下の御心を尊重しておられるのです」

 

「尊重して、逃げるのか」

 

「はい。殿下が寛子様を想う気持ちを、誰よりも理解しているからこそ……自分がその影を踏むことを恐れておられるのでしょう」

 

 慶仁は、胸元の菊結びのお守りを握りしめた。

 

(……寛子。私は、どうすればいい)

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 10月上旬。

 防災科学研究所の新設分室の視察。

 慶仁が建物を出た瞬間、雨が降り始めた。

 その雨の向こう──。

 澄子がいた。

 傘も差さず、雨に濡れながら、地質サンプルを抱えて走っていた。

 慶仁は、思わず声を張った。

 

「澄子!」

 

 澄子は立ち止まり、振り向くと深く礼をした。

 

「殿下。ごき」

 

「逃げるな」

 

 澄子の肩が、はっきりと震えた。

 

「……殿下。私は……殿下のお傍に立つ資格など……」

 

「資格など、誰が決める」

 

「私は……寛子姉様の代わりにはなれません」

 

「代わりなど求めていない!」

 

 澄子は息を呑んだ。

 

「澄子。私は、お前と話がしたい。逃げるな」

 

 澄子は、唇を噛みしめた。

 そして──。

 

「……申し訳ございません」

 

 深く頭を下げると、澄子は敷地の奥へと消えていった。

 慶仁は、追いかけようとしたが、雅武がそっと肩に手を置いた。

 

「殿下……今は、追ってはなりませぬ」

 

「なぜだ」

 

「九条様は、殿下を拒んでいるのではありません。殿下の想いを、あまりにも尊く思うがゆえに……自分が踏み込むことを恐れておられるのです」

 

「……私は、どうすればいい」

 

「九条様が逃げられぬほど、殿下の御心を示すしかございません」

 

 慶仁は、泥水に浸かった自分の靴を見つめた。

 十六年前は寛子が押し上げてくれた。

 その上に、今、自分は立っている。

 

(……澄子。逃がすものか)

 

 その決意は、静かでありながら、鋼のように固かった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 赤坂の御所に戻った慶仁は、ため息をつきながら式部官長を呼んだ。

 

「九条の姫との接見だが」

 

「はっ。しかし、殿下。先の調査報告にもありました通り、九条様は少々……その、殿下の御正妃としては、お転婆が過ぎるのではないかと……」

 

 式部官長が言葉を濁すのを、慶仁は片手で制した。

 

「構わん。彼女に伝えろ。『地質の調査もいいが、京極宮の治水事業に意見があるなら、直接聞きに来い』と」

 

 それは、宮内省を通じたお見合いの誘いという仮面を被った、慶仁からの明確な「宣戦布告」であった。

 

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