十月。
冬の気配が強まる夕刻、九条家本邸の奥座敷には、沈黙が満ちていた。
白檀の香がほのかに漂う中、九条公爵は、机上に置かれた一通の封書をじっと見つめていた。
差出人は──宮内省。
文面は短い。だが、その意味はあまりにも重い。
「京極宮慶仁王殿下、九条澄子嬢との正式接見を希望される」
その一文を読み終えた瞬間、部屋の空気がわずかに震えた。
「……殿下からの、直接のご指名か」
書斎で親書を読み終えた九条公爵は、深く椅子に身を沈めた。
そこへ、襖が静かに開いた。
「お父様……お呼びでしょうか」
現れたのは澄子だった。
作業着ではなく、栗色の袷姿。
だが、袖口から見える手にはまだ、昼間の調査でついた泥がうっすら残っている。
公爵は娘を見つめ、しばし言葉を躊躇った。
「澄子。……宮内省より、殿下からの正式な接見の打診が届いた」
澄子の肩が、わずかに震えた。
「……やはり、来ましたか」
「逃げ続けることはできぬぞ」
「……はい」
澄子は、膝の上で手を固く握りしめた。
その指先には、泥が薄く残っている。
公爵は、娘のその手を見て、胸が締め付けられた。
「澄子。……お前が望むなら、私は一生、お前を泥の中に隠してやる覚悟だった。だが殿下は、十六年の時を経て、ようやく前へ進もうとしておられる。その歩みに、藩屛たる九条家としては背を向けることなどできぬ」
澄子は、唇を噛んだ。
「……私は……殿下の御心を乱したくはございません。寛子姉様の影を……踏みたくはないのです」
その声は、震えていた。
公爵が野帳を差し出した。
「あ。それは」
「澄子。これは、お前が十四年かけて書き続けたものだな」
「……はい」
「慕っていた従姉である寛子の死を、ただの悲劇で終わらせぬために。殿下が背負う痛みを、二度と誰にも負わせぬために。お前は泥濘を踏みつけ、水の流れに分け入り、雨に濡れ、石を叩き続けた」
澄子は、俯いたまま動かない。
公爵は、娘の野帳をそっと閉じた。
「──其方のその想いを、殿下が知らぬままでよいのか」
澄子の呼吸が止まった。
「殿下は、『松殿寛子の死』を『痛み』として抱え続けておられる。お前は、その『痛み』を『未来への学び』として抱えてきた。二人の歩みは、決して交わらぬものではない」
父の言葉は、深い慈愛に満ちていた。
世間が「教育の怠慢」と蔑もうと、この父だけは、娘が何を背負って崖を歩いているのかを知っていた。澄子はゆっくりと自分の、節くれだった、およそ姫君らしからぬ両手を見つめた。
澄子は、震える声で呟いた。
「……殿下は、私を……追って来られます。視察のたびに……私を見つけてしまわれる。私は……逃げることしかできませんでした」
公爵が娘の手を包み込んだ。
「逃げたのではない。お前は、殿下の痛みを尊びすぎたのだ」
澄子の瞳に、涙が滲んだ。
「……あの日、逃げた私が、殿下の前に立つ資格など……」
「殿下にそう言われたのか?」
「いいえ」
「であろうな。資格など、誰が決めるのだ」
公爵の声は、静かでありながら、揺るぎなかった。
「寛子が命を賭して守った殿下の未来を、お前が支えることを、寛子が否定すると思うか」
澄子は、はっと顔を上げた。
「……姉様が……?」
「寛子は、殿下の未来を守るために死んだ。その未来に、お前が寄り添うことを──寛子は、きっと誇りに思うだろう」
澄子の胸に、熱いものが込み上げた。
公爵は、娘の前に膝をついた。
「澄子。九条家は、殿下との接見を──受ける」
澄子は、息を呑んだ。
「……お父様……」
「だが、最後に決めるのはお前だ。殿下の前に立つ覚悟があるか。寛子の影を恐れず、殿下の痛みと共に歩む覚悟があるか」
澄子は、震える手で胸元の小さなロケットを握った。
そこには、幼い頃の自分と寛子の写真が入っている。
寛子の笑顔が、優しく揺れた。
(……姉様。私は……)
澄子は、ゆっくりと目を閉じた。
そして──。
「……殿下のお傍に立つ覚悟を……持ちとうございます」
その声は、震えていたが、確かだった。
「十六年前、寛子姉様が濁流の中で殿下の命を繋いだ時、私の心も半分、あの濁流に沈みました。……殿下が今も雨の音に怯えておいでなら、私はそれを見過ごすことはできません。たとえ、私が寛子姉様の影として一生を終えることになろうとも」
公爵は、娘の瞳に宿る、松殿寛子と同じ「献身の焔」を見た。
「……ならば、九条家の娘として、最高に美しく装いなさい。泥を掘るお前も誇りだが、あの方は今、この国の『光』を背負っておられる。その隣に立つには、お前もまた、光を纏わねばならん」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
接見までの数日間、九条邸は戦場のようだった。
老練な侍女たちが澄子を取り囲み、十四年分の「泥」を削ぎ落とす作業が始まった。
「まあ、このお指……。これほど荒れていては、絹を傷つけてしまいますわ」
「お顔も、これほど日焼けて……。お化粧を三層は重ねねばなりません」
荒れた肌に高価なクリームが塗り込まれ、固くなった指先は丁寧に磨き上げられる。
澄子は鏡の中に、自分でも見たことのない「見知らぬ姫君」が形作られていくのを、冷めた心地で眺めていた。
彼女が選んだのは、白藤色の訪問着だった。藤は九条家の家紋。しなやかに垂れ下がりながらも、その蔓は決して解けぬほど強い花である。
(……私は、殿下の『戦友』にはなれない)
澄子は、かつて奥多摩の山で慶仁が自分の手を握った時の、あの熱を思い出した。
あの時、自分は「澄子」としてそこにいた。だが、宮中に召し出される以上、自分は「九条家の娘」である。どこか心のうちで誰もが求めている『寛子様の従妹』として『寛子様の身代わり』でなければならない。
(殿下を救うためには、私は、私を殺さなければならない)
その決意こそが、彼女が編み上げた「完璧な令嬢」という名の繭だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
接見の前夜、澄子は一人、自室の床に置かれた古いリュックサックを撫でた。
中には、使い古したハンマーと、擦り切れた地質図が入っている。
「……しばらく、お別れね」
彼女は、その重いリュックをクローゼットの奥深く、人目に触れない場所へ押し込んだ。
まるで、自分の本当の魂を封印するかのように。
窓の外では、また雨が降り始めていた。
「殿下……。どうか、私を『澄子』と呼ばないでください。ただの『九条の娘』として、寛子姉様の影として扱ってください」
暗闇の中、彼女は自らの肩を抱くようにして呟いた。
「私が『私』でなくなれば……。そうすれば私は、殿下をお慰めするための『完璧な幻』でいられますから」
慶仁が山道で自分を見つめていたあの視線を思い出す。彼は、泥にまみれた自分の中に何かを見出そうとしていた。けれど、宮家に嫁ぐということは、彼の隣で「光」となることだ。そのためには、彼と同じ「泥」を共有する戦友ではなく、彼を過去の痛みから救い出す「白百合」の代わりを務め抜かなければならない。
闇の中で放たれたその決意は、誰に届くこともなく雨音に消えた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌朝。
九条家の女中部屋では、早くから慌ただしい空気が流れていた。
澄子は鏡台の前に座り、老練な侍女たちの手によって白藤色の訪問着を着付けられていた。泥にまみれた作業着ではなく、白い襟元が凛とした気配を放つ、九条家の姫の姿。
鏡の中の自分は、自分であって自分ではない、恐ろしいほどに美しい人形だった。
(……殿下に、会うのだ)
胸の奥が、痛いほどに締め付けられた。
『逃げるな』
雨の防災科学研究所分室でかけられた慶仁の言葉が、耳の奥で何度も響く。
侍女が帯を整えながら、ふと呟いた。
「澄子様。殿下は……きっと、澄子様にお会いできることを、お喜びでございましょう」
澄子は、鏡の中の自分を見つめた。
完璧な令嬢の仮面。だが、その瞳の奥には──十四年間、泥の中で戦い続けた少女の影が、確かに残っていた。
「……私は、殿下の前で……何を言えばよいのでしょう」
帯を締め上げていた侍女が、澄子の震える声に手を止め、そっと鏡越しの瞳を覗き込んだ。
「澄子様。……殿下は、きっと澄子様の『本当のお姿』を御覧になりたいはずでございます。ですから、澄子様が十四年間抱えてこられたものを……そのまま、お伝えになればよろしいのです」
その優しい言葉に、澄子は胸の奥が痛いほどに締め付けられた。
(違うの。私は、その『本当の私』を、今日限りで殺すのだから)
澄子は小さく首を振り、すべての感情を押し殺して深く息を吸った。
「……ありがとう。行きましょう」
鏡の中の少女は、自ら紡いだ美しい繭の中にその身を沈め、静かに立ち上がり一糸乱れぬ「完璧な九条家の姫君」として、赤坂の京極宮邸へと向かう車に乗り込んだ。
白藤色:#dbd0e6