京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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22 白藤の襟と、泥の影

 秋の赤坂の空には薄い雲が流れ、風が庭木を揺らしていた。

 京極宮邸の正門前に、宮内省の差し向けた黒塗りの車が静かに近づいていた。

 宮邸の玄関ホールでは式部官長と侍従長が緊張を湛えた面持ちで、会話を交わしていた。 

 

「……九条家の姫君は、やはり『お転婆』と聞きますが」

 

「ええ。学習院でも素行が……その、土遊びをされていたとか」

 

「殿下はなぜ、あのような方を。妃殿下としては西園寺様の方が相応しかったと存じますが……」 

 

 彼らは知らない。

 九条澄子の『泥の意味』を。

 十四年間の孤独な戦いを。

 そして、慶仁が奥多摩で見た『泥に咲く花』の姿を。 

 

 その背後の大広間では、東伏水宮慈照王と香耶宮恒文王が、静かに二人を見ていた。 

 

「……相変わらず、表層しか見えぬのですな」

 

「まあよい。今日、二人が向き合えば、嫌でも分からされることになろう」

 

 二人の皇族の眼差しは、どこか温かく、そして厳しかった。

 漆黒の車体がゆっくりと門をくぐる様子が目に入った侍従長が姿勢を正す。

 玄関ホールの扉がゆっくりと開かれた。

 静謐な空気の中、その車体はゆっくりと車寄せに停まった。 

 

「九条澄子様、御到着にございます」 

 

 侍従が後部座席の扉を開ける。

 そこから降り立ったのは──泥にまみれた作業着の少女ではなく、淡い白藤色の訪問着に身を包んだ、凛とした姫君だった。

 髪は艶やかに結い上げられ、肌は白く整えられ、指先には泥の影ひとつない。

 だが──。

 その瞳の奥には、泥の中で戦い続けた少女の影が、確かに息づいていた。

 その覚悟が、彼女の周囲に目に見えるほどの緊張の膜を張っている。

 東伏水宮は愉快そうに目を細めた。 

 

「恒文王。あれは……鎧だな」

 

「ええ。最高の絹で編み上げた、鉄壁の繭ですな」

 

 式部官長と侍従長は、澄子の気品に圧倒され、思わず目を見張った。

 

(……噂とは違う。ずいぶんと……落ち着いた姫君ではないか)

 

(本当に『泥遊びの姫』なのか……?)

 

 内心の動揺を表に出すことなく侍従長が深く礼をする。

 

「九条澄子様、ようこそお越しくださいました。殿下はすでにお待ちでございます」

 

「……恐れ入ります」

 

 澄子は、わずかに震える声で答えた。

 

 玄関から続く長い大広間は、雨の匂いを含んだ冷たい空気に満ちていた。

 その奥に──慶仁がいる。

 澄子の表情は硬く、その袖口を握る指先はわずかに震えていた。

 その震えを東伏水宮は見逃さなかった。

 

(九条の姫よ。ここが正念場ぞ)

 

 大広間を横切る澄子に内心で声をかける東伏水宮。

 大広間にたたずむ皇族二人に礼をしながら澄子はその前を過ぎる。

 澄子は歩みを進めるたび、胸の奥が締め付けられていた。

 

(……殿下。どうか、私を『澄子』と呼ばないでください)

 

 呼ばれることを恐れながらも、心のどこかで、澄子と呼ばれることを渇望する自分もいる。

 もし今、あの低く温かい声で名前を呼ばれたら、この完璧に結い上げた髪も、一点の曇りもない白藤の衣も、すべてが崩れ去り、『寛子様の従妹』ではなく『九条澄子』として自分自身をさらけ出してしまう。

 

(私は寛子姉様の身代わりになるのだから、殿下に踏み込まれてはならない。ならば、こちらから「踏み込んでも良い場所」を指定して差し上げるまで)

 

 澄子は一度だけ深く息を吐き、胸元の「盾」を確かめるように背筋を伸ばした。

 扉が開き、慶仁の姿が目に飛び込んできた瞬間、肺の空気が凍りつくような衝撃が走る。

 だが、彼女は微笑みを絶やさなかった。

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 大客室には、静かな緊張が満ちていた。

 慶仁は、正装で座していた。胸元には、菊結びのお守りが忍ばせてある。だが、その表情は十六年前の少年ではない。痛みを抱えたまま、それでも前へ進もうとする男の顔だった。

 

「……殿下。九条澄子様、お越しにございます」

 

 慶仁が頷く。それを確認した雅武の声を合図に、扉が開く。

 

(今日こそ……逃がさぬ)

 

 現れたのは、淡い白藤色の訪問着で完璧な礼法を身に纏い一分の隙もない、九条家四の姫──九条澄子だった。

 だが慶仁は、瞬時に悟った。

 

(……これは『盾』だ)

 

 泥の匂いを一切纏わぬ、完璧な令嬢の仮面。それは、澄子が自分の『泥の素顔』を守り、慶仁の踏み込みを拒絶するための鎧だった。澄子は深く頭を下げた。

 

「九条澄子にございます。本日はこのような誉あるお席にお招きいただき、身に余る光栄に存じます」

 

 鈴を転がすような、奥ゆかしい声。慶仁は内心で舌打ちをした。彼女は「完璧な令嬢」を演じ切ることで、慶仁が求める「泥臭い戦友」としての繋がりを全力で拒絶しに来たのだ。

 そこにいたのは、泥だらけの作業着で崖を這いずり回っていた『御侠姫』ではなかった。

 

「九条の姫。今日は泥をつけてこなかったのか?」

 

 式部官長が息を呑み、侍従長が目を丸くする。

 

「殿下、なんということを……!」

 

 慌てる二人を余所に澄子は微笑んだ。

 

「殿下。かつてのように澄子とお呼びください」

 

 完璧な、九条家の姫の微笑み。

 敢えて澄子と呼ばせる事でこの場を「懐旧の情」という名の安全な檻に閉じ込める。それは、彼にこれ以上の深追いをさせないための、美しくも冷徹な先制攻撃であった。

 

「昔の様に呼び捨てる訳にもいくまい。だが、其方とは寛子を通じた聊かの縁がある。お言葉に甘えさせていただこう。して、澄子。泥はつけてこなかったのか?」

 

「殿下。本日は、九条家の娘としての務めにございます。このような場で泥を纏うのは九条の名折れでございます」

 

 所作には一点の隙もなく、声は春の小川のように澄み渡り、伏せられた長い睫毛には奥ゆかしい気品が溢れている。 

 声は澄んでいる。震えもない。

 その様子に、立ち会っていた東伏水宮慈照王と香耶宮恒文王が囁きあった。

 

「恒文王。あの姫、やりおるな。ホールで震えていた時はどうなることかと案じたが」

 

 東伏水宮の言葉に

 

「はい。あれほどまでに完璧な擬態は見たことがありませぬな。侍従長も式部官長もあの姫の掌の上で転がされかけておりますな。それに」

 

 香耶宮も、苦笑いを浮かべながら顎を撫でた。

 

「ああ。慶仁も慶仁だ。わざと無作法な問いをして本性を出させようとは……。だが、あの姫の方が一枚上手だったな。慶仁の悔しそうな顔を見よ。あのような表情は何年ぶりであろうか?」

 

 東伏水宮が懐かしそうな表情を浮かべた。

 

「初等科を卒業する頃には、私的な場以外で無闇に感情を表さぬ様に寛子が教え込んでおりましたからな。ふむ、完璧な令嬢を演じることで、逆に慶仁に『自分を暴いてみせろ』と挑発しておるのですかな。あの二人、性格が似ておるのやもしれませぬ」

 

 同じように懐かしそうな表情を浮かべる香耶宮。 

 

 周囲の様子を他所に、慶仁がさらに踏み込む。

 

「澄子。身上書によれば、お前は、泥の中でこそ輝く姫のようだ。今日の姿は……お前らしくない」

 

 澄子の瞳が、一瞬だけ揺れた。

 だが、すぐに令嬢の仮面が戻る。

 

「殿下。九条家の娘として、恥ずかしくない姿で参るのは当然にございます。……泥は、私の『私事』にございますゆえ」 

 

(私事……?) 

 

 慶仁の胸が痛んだ。 

 

(あれほどの覚悟を『私事』と呼ぶのか……)

 

「殿下。本日は、九条公爵家の娘として……九条一門の誇りである松殿寛子の名を汚さぬ姿で参りました」 

 

 その言葉に、慶仁は息を呑んだ。

 

(……寛子の名を守るために、泥を隠したのか)

 

 泥を捨てたのではない。

 泥を『寛子の名のために』隠したのだ。

 その盾は、重く、痛々しいほど美しかった。

 その盾を突き崩さんと慶仁が切りかかる。

 

「そうか。ではさっそくだが、先日視察した砂礫層における透水係数の課題について、貴女の見解を聞きたい」

 

 だが、その盾は慶仁の切込みを難なく防いだ。

 式部官長たちが「いくら石蹴り遊びがお好きとは言え、九条公爵の姫にそのような専門的な話題を」と凍りつく中、澄子が扇で口元を隠し、鈴を転がすような声を上げる。

 

「殿下。私のような浅学の身に、そのような難しいことが分かるはずもございません。石や砂について私が存じておりますのは、庭園の石の配置や、茶器の土の風合いといった、ささやかな事柄ばかりでございます」

 

 知識を匂わせつつも、完璧なまでの「深窓の令嬢」の模範解答だった。

 

(やるな。だが私は諦めぬぞ)

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「……それでは次だ。過日の奥多摩の視察では、泥流による堆積が問題となっておった。特に日原川上流の第三紀層の脆弱性は、治水工事の大きな妨げだ。……お前なら、どう対処する?」

 

「殿下。そのような専門的なことは、学識ある先生方にお任せすべきこと。私のような無知な女にわかりますのは……ただ、お山が泣いているような気がする、というだけでございます」

 

 慶仁がどれほど泥の記憶を引きずり出そうとしても、彼女はそれを「和歌の調べ」や「季節の挨拶」へと、鮮やかな手際で変換してしまう。

 言葉の端々に地質の知識を匂わせながらも、それをすべて「和歌や茶道の教養」というオブラートで包み込み、決して技術的な土俵には上がってこない。

 一時間の接見が終わる頃には、慶仁の内心はじりじりとした悔しさに焼かれていた。

 

「本日は、殿下の深い御見識に触れることができ、大変勉強になりました。……殿下。本日の御接見は地質についての御下問であったのでしょうか。それであれば九条澄子、急ぎ装いを改めて参ります」

 

 一礼し退出しようとする澄子。慶仁は、最後の切り札を投げた。

 

「待て。……お前は、私にあの夜の雨音を、独りでこれからも聞き続けろと言うのか」

 

 澄子の指先が止まった。

 沈黙が広間を支配する。その場にいた侍従たちが息を呑む中、澄子はゆっくりと、しかし先程までの「演技」とは明らかに違う重みを持って、深く一礼した。

 その所作。背筋の角度。手の重ね方。

 慶仁の脳裏に、十六年前の記憶が鮮烈に蘇る。

 

(……松殿侯爵家の礼だ。寛子と同じ、あの家の……)

 

「皆、下がれ」

 

 慶仁の低く鋭い命令に、式部官長たちは困惑しながらも退室していった。

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 広間には、慶仁と澄子だけが残った。

 静寂。

 蘇る奥多摩の雨上がりの匂い。

 十六年分の沈黙。

 慶仁が、ゆっくりと口を開いた。

 

「……お前は、なぜ泥を隠す」

 

 慶仁の問いは、もはや試すような鋭さはなく、絞り出すような祈りに似ていた。 

 澄子は、白い襟元を震える指で押さえた。

 その仕草は、痛みを堪えるようだった。

 

「殿下。松殿家は……九条家の分家筋にございます。寛子姉様の御逝去以来、本家も分家も……時を止めておりました」

 

 慶仁の胸が締め付けられる。

 

「……澄子」

 

「姉様は、九条一門の誇りでございました。殿下の未来を繋いだ方。その地位を……私が軽々しく継ぐことなど、許されません。私は寛子姉様の影として「白百合」の代わりを務め抜かなければなりません」

 

 澄子は、震える声で続けた。 

 慶仁は、息を呑んだ。

 

「澄子、それは──」

 

「殿下。姉様の記憶を抱きしめて生きる殿下を……私は、尊いと思っております」

 

 澄子は、白い襟を縋るように握りしめた。

 

「殿下がお望みならば、私の中に寛子姉様を見つけてくださっても構いません。それは、寛子姉様が今も私の中で生きている証でございます」

 

 慶仁の胸に、熱いものが込み上げた。

 澄子は、涙をこらえながら続けた。

 

「ただ……もし、適うのであれば、私を、寛子姉様の代わりではなく、寛子姉様から殿下への、九条家を通じた贈り物として受け取っていただければ幸いに存じます」

 

「澄子……」

 

「殿下。九条家の者として……寛子姉様が守った殿下の未来を、私もまた、お支えしたく存じます」

 

 その言葉は、『代わり』ではなく、『継承』だった。

 寛子の死を悲劇で終わらせないための、九条家の誇りそのものだった。

 慶仁は、震える声で言った。

 

「……澄子。お前は……寛子の影ではない。寛子の光を継ぐ者だ。澄子、あの時お前に会えてよかった」

 

 澄子の瞳から、静かに涙がこぼれた。

 

「……殿下……」

 

 その瞬間、十六年止まっていた二つの時間が、静かに、確かに動き始めた。

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 それからしばらくして、澄子が退出し、邸の玄関へと戻ってきた。

 迎えた式部官長と侍従長は、彼女の姿を見て、さらなる混乱に陥った。

 

 先ほどまでの「完璧な令嬢」の表情は消え、そこには、どこか憑き物が落ちたような、しかしどこか悪戯っぽく、凛とした一人の女性の顔があった。

 

「式部官長様。先ほどの地質のご下問、後ほど私の『野帳』の写しをお届けいたします。殿下におかれましては、学術的な地質学にも深いご関心がおありのようですので」

 

 澄子はそれだけ言い残すと、春の嵐が去った後のような優雅な足取りで車に乗り込み、去っていった。

 残された二人は、呆然と立ち尽くした。

 

「……あの方はまことに九条様だったのか?」

 

「……分かりませぬ。しかし、殿下が今、あんなにも晴れやかなお顔をしておられるのを見る限り……」

 

 侍従長は、広間の奥から聞こえてくる慶仁の、何年ぶりか分からないほど力強い足音に、不思議な安堵を覚えるのだった。

 

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