十月下旬。
関東山地の奥深く、切り立った斜面が続く日原川上流の調査現場。
谷底から湧き上がる湿った風が、木々の葉を不穏に揺らしていた。
「殿下、空模様が怪しゅうございます。これ以上の入山は……引き返すべきかと」
雅武の顔は蒼白だった。彼にとって野外での荒天、特に秋の荒天は、伊勢の惨劇を呼び起こす悪夢そのものだ。慶仁のトラウマを誰よりも知る彼としては、引き留めずにはいられない。
しかし、慶仁の足は止まらなかった。
(この先に、澄子が──あの『御侠姫』がいる)
雨への恐怖よりも、奇妙な高揚感が勝っていた。数日前の接見で見せられた「完璧な令嬢」の仮面から零れ落ちた、秘められていた彼女の素顔。その素顔を今一度確かめたいという衝動が、彼を奥多摩の険しい地層へと駆り立てていたのだ。
やがて、木立を抜けた先の斜面に、見慣れた後ろ姿があった。
九条澄子は今日も泥だらけの作業着姿で、岩肌に張り付くようにして地層の境界線にハンマーを振るっていた。カン、カンという硬質な音が谷に響く。
澄子は斜面の下に膝をつき、湧水の位置を確かめるために泥を指で掘っていた。
指先に触れた冷たい水の流れに、澄子は小さく息を呑んだ。
「ここが動いている……」
野帳に素早くスケッチを描き込み、巻尺を伸ばして距離を測る。
その姿は、誰が見ても令嬢には見えなかった。
その無防備な背後に、慶仁が足音を忍ばせて近づいた。
「……またこのようなところで泥にまみれているのか、九条の姫君は」
不意にかけられた声に、澄子の肩がビクッと跳ねた。驚いて振り返ると、そこには青ざめた雅武と数名の侍従と側衛官だけを連れた、お忍びの慶仁が、意地悪な笑みを浮かべて立っていた。
「で、殿下!? なぜこのような山奥に……!」
「視察だ。お前が宮邸で『茶器の土の風合い』を語りつつ、その後『野帳』なぞ渡して来たものだから式部官長らが五月蠅い。気分を変えるために、御侠姫が語るまことの土の話を聞きに来たのだ」
からかうような慶仁に、澄子が抗議の声を上げようとしたその瞬間──。
空が急激に暗くなり、冷たい風が谷を吹き抜けた。直後、バチバチという音を立てて、バケツをひっくり返したような豪雨が降り注いできた。
「いけません、殿下! すぐにお車へ──」
雅武が叫んだが、山道はあっという間に濁流と化し、下山ルートは完全に絶たれてしまった。
「殿下をお守りしろ! 高台へ急げ!」
侍従たちがパニックに陥りかけた。彼らの脳裏に、あの伊勢湾の悪夢──無数の命を飲み込んだ濁流の恐怖がフラッシュバックしていた。慶仁自身の顔からも、血の気が引いている。雨の音が、十六年前の「丸太が建物を砕く音」に重なって聞こえ始めていた。
「落ち着きなさい!!」
雨音と混乱を切り裂いたのは、澄子の凛とした一喝だった。
「ここは中生代の硬固な岩盤の上です! 表土は流れても、山体そのものは絶対に崩れません! あそこの小屋へ避難します。雅武様、殿下をお連れして!」
泥だらけの澄子が放つ「科学の裏付け」は、魔法のように侍従たちの恐慌を鎮めた。
一行は、営林署の小屋へと逃げ込んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
外では轟々とした雨と風が吹き荒れている。
薄暗い小屋の中、側衛官と侍従が土間の入口を固める中、奥の板間で慶仁と澄子は、灯油ランプの小さな灯りを挟んで向かい合っていた。
「……すまなかったな。私の軽率な行動のせいで、お前まで巻き込んだ」
「……本当に、ご無茶が過ぎますわ。殿下の御身に何かあれば、私は寛子姉様に顔向けできません」
澄子はため息をつきながら、持っていた手ぬぐいで、濡れた慶仁の肩を無造作に拭いた。
トタン屋根を叩く激しい雨音。
慶仁の肩が、微かに震えていた。澄子はその震えの理由を、誰よりも痛いほど理解していた。
「……殿下。雨が、恐ろしいですか」
「……ああ。この音を聞くと、どうしても……泥水の下に消えていく寛子の手が、頭から離れなくなる」
慶仁が自嘲気味に呟いたその時。
澄子は、泥のついた自分の両手で、慶仁の震える手をしっかりと、力強く包み込んだ。
「澄子……?」
「この小屋の下の地層は、私が三ヶ月かけて調べ尽くしました。水は地中深くの帯水層へ逃げ、地滑りも鉄砲水も絶対に起きません。私の『石の知識』にかけて、この泥と水は、殿下の命を奪ったりはいたしません」
その言葉は、和歌の優しさでも、華族の安易な慰めでもなかった。
泥にまみれ、己の足で稼いだ「絶対的な事実」による、最も力強い防壁だった。
慶仁は、自分を包み込む澄子の手の温かさに息を呑んだ。
寛子の手は、自分を押し上げて冷たくなっていった。だが、澄子の手は今、自分と同じ土俵に立ち、血を通わせて熱く脈打っている。
「……お前は、強いな」
「強くなどありません。ただ……寛子姉様の遺したものを、もう二度と奪わせないと、決めているだけです」
ランプの灯りに照らされた澄子の瞳は、雨の恐怖を打ち払うほどの光を放っていた。
慶仁は、彼女の泥のついた指先にそっと自分の指を絡め、祈るように額を押し当てた。
外の雨音は、もうあの夜の亡霊の足音ではなく、ただの自然の音に変わっていた。二人の間には、身分も、過去の亡霊も立ち入れない、濃密で確かな熱が通い合っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
薄暗い小屋の中、入口の土間では雅武たちは周囲の警戒にあたっていた。
「近くに居た九条家の護衛たちは?」
「すぐ外におります」
「中に入れよ」
護衛を中に呼び込む一行。
「通信状況は?」
「駄目ですな。この荒天では携帯型無線機は雑音が酷くまともに通信できません」
側衛官が九条家の護衛に通信状況を尋ねるが、雨合羽姿の護衛はアンテナの根元を輪ゴムで巻き本体をビニール袋に入れたままの無線機を見せ首を横に振っていた。
「お分かりと思うが、通信が行えても」
侍従の言葉に雨合羽を脱ぎつつ九条家の護衛が応じる。
「承知しております。お二人が同じ小屋におられることは秘します。醜聞になりますからな」
「殿下」
九条家の護衛と合流した旨を主に伝えようとした雅武は、奥の板間でランプの灯りを挟んで向かい合う二人の様子に気づき、ハッと息を呑んだ。
澄子の泥にまみれた手が、震える慶仁の手を力強く包み込んでいる。そして、十六年間、何者も癒せなかった殿下の「雨への恐怖」が、澄子の語る地質の絶対的な事実によって、静かに雪融けのように消え去ろうとしていた。
(……ここは、我々が立ち入るべき場ではない)
雅武は静かに目配せをして、侍従たちに板間の近くから離れるよう指示した。
十六年の時を経て、殿下の魂が救済されようとしている神聖な瞬間。彼らはあえて背を向け、二人の声が激しい雨音に優しくかき消されるよう、傍を離れた場所で彫像のように沈黙を守り続けた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「くしゅん」
寒さを思い出したらしい澄子が、不意に小さくくしゃみをした。
「服が濡れたままではないか。そのままでは風邪をひく。そこの倉庫で着替えろ。営林署の小屋なら予備の毛布と何か羽織る程度の物はあるはずだ。濡れた服は人目につかぬように乾かせ」
慶仁が顎で示したのは、板間の隅を衝立で仕切っただけの、古い木箱が並ぶ倉庫とは名ばかりの小空間だった。
澄子は一瞬躊躇したが、寒さには勝てず、こくりと頷いて物陰へと入っていった。
薪ストーブの爆ぜる音と、屋根を叩く激しい雨音が部屋を満たしている。慶仁は背を向けたまま、壁に揺れるランプの灯りを見つめていた。
背後から、水を含んで重くなった作業着の布地が擦れる音が、微かに聞こえてくる。
先日、宮邸で彼女が纏っていた最高級の「白藤の絹」を脱ぐのとは違う。今、彼女は自分を守っていた「泥の鎧」を脱ぎ、ただの「澄子」という一人の女性に戻ろうとしているのだ。
衝立の向こうの、微かに布が落ちる音と息遣い。無防備な彼女の気配が、見えないはずの華奢な姿を否応なく意識させた。
慶仁は、胸の奥で何かが甘く、そして静かに熱を帯びていくのを感じていた。それは、凍りついていた彼の感情が、生身の男として確かな息を吹き返した証だった。
やがて、糊の利いた大きすぎるジャケットを羽織り、毛布にくるまった澄子が出てきた。
もはやそこに「公爵家の姫」の顔はない。
二人はいつしか幼き頃の他愛もない話をし、先日の接見の話へと話の枝が伸びていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「澄子。接見でのあの態度は何だ。よりによって『お山が泣いている』だと? 虫唾が走ったわ」
「殿下があまりに意地悪な質問をなさるからですわ」
慶仁の毒づきに澄子が小さく吹き出した。
じろっと澄子を見つめる慶仁だったが、彼女の肩が微かに震えているのに気づき、無言で自分の毛布を重ねた。
「……殿下?」
「黙っていろ。風邪でも引かれたら、私の妃選びの儀が滞る」
互いの体温が伝わる距離。
それは、互いを意識せずにはいられない、静かな夜だった。
①小屋のイメージは山で見かける避難小屋。土間と板間で、奥が衝立で簡単に仕切られて、そこに物が積まれている感じ。ぶっちゃけ脚付きの一連衝立(スタンド式パーテーション)なので上と下が少し開いている。
②ジャケットの中は「ほぼ何も着ていない(下着すらつけていない)」状態です。あと、糊の利いた大きすぎるジャケットということは誰も袖を通していない、新品のジャケットです。
③挿絵
AIに見せたら
身長:約166cm
※当時の同年代の平均身長は158cm
体重:54kg前後
※当時の同年代の平均体重は約49kg〜51kg 前後
バスト:82~84cm(Cカップ前後)
※当時の同年代の平均は78~80cm前後(A〜Bカップ相当)
ウエスト:58~60cm
ヒップ:86~88cm
らしい
右手:はだけそうな胸元をガード
大きすぎるジャケットは、ボタンを留めていても襟元がガバガバ。素肌に直に羽織っているので右手でギュッと襟元を掴んで、慶仁の視線から胸元を死守してる。
左手:浮き上がる裾をガード
あぐらをかくように足を崩して座ると、どうしてもジャケットの裾が左右に引っ張られて持ち上がってしまうので、左手を添えるようにして、「これ以上、上に行かないように」必死に裾を押さえている。
左足の奥:中に何も着ていないことが一目で分かってしまうような、非常に際どい丈
左足の太もものラインも、ジャケットの裾の限界ギリギリのラインと交差していますので、「毛布の隙間から覗く、無防備に晒された生足」が、慶仁の視界にダイレクトに飛び込んできている。
④澄子は正座をしたくても、物理的にできない状態です。
男性用の大きなジャケットとはいえ、座るときに膝を前に突き出すと、前合わせのボタン部分が左右に引っ張られて大きく割れるので直穿きの状態で正座をしたら、正面に座っている慶仁王に対して、文字通り「完全にオープン」になってしまう。
糊の利いたジャケットなので正座をして上体をまっすぐ伸ばそうとしても、硬い生地が突っ張ってしまい、裾を綺麗に下に巻き込むことができない。
因みに最初から腰に毛布を巻こうとしても、あの当時の毛布って重いんですよね、厚手だし。ズボンもベルトもない状態で、腰にズレないようにしっかりと巻き付けるのは難しいし、結ぼうとしても結びにくいし、下手をすれば慶仁の前でずり落ちてしまい大惨事……。
正座しようとして前が全部割れる可能性に気づいて、足を横に崩すか、低くあぐらをかくように座ることで、ジャケットの布地を横に広く引っ張り、さらにその上に毛布をひだのように重ねて、太ももの付け根や一番見えてはいけない部分を物理的に覆い隠している状況
⑤流石に某オネアミスのようにヒロイン押し倒しのシーンはできなかった。