雨上がりの翌朝。奥多摩の山道には、眩いばかりの陽光が差し込んでいた。
ようやく繋がった護衛からの連絡を受け急ぎ救出隊を編成していた九条家と、慶仁が昨日山に入ったまま下山していないと知らせを受けた宮内省の捜索隊が麓で出くわし、合同で入山しようとしていた。
そこに泥を落としきれぬ作業着姿の九条澄子と、同じく汚れを纏った京極宮慶仁たちの一団が肩を並べて山を下りて来た。
その姿を面々が見た瞬間、現場に安堵の声が上がる。
「お……お戻りになられた、姫!」
「殿下! よくぞご無事で!」
だが――。
「……何故、殿下が?」
「……何故、九条様が?」
慶仁の側近である雅武に事情を尋ね、返ってきた答え。その内容に関係者に戦慄が走った。
「「まさか……お二方が山小屋にて、一つ屋根の下で夜を明かされたと仰るのか……!」」
宮内省側の捜索隊の指揮を執る侍従武官長は卒倒せんばかりに天を仰ぎ、同行していた皇宮警察本部長は震える手で宮内省へ連絡を取り始めた。
いくら護衛がいたとはいえ、未婚の皇族男子と公爵令嬢が「一つ屋根の下で外泊した」事実は、宮内省にとっては醜聞も甚だしい。
直ちに箝口令が敷かれ、国民への醜聞の流布は防がれたが。
「九条家はどう責任を取るつもりだ!」
「いや、これは殿下の御乱行か……?」
「他の候補家への面目はどうなる!」
数日のうちに、華族社会はこの噂で持ちきりとなった。
泥遊びの果てに、山で一夜を共にした二人という醜聞に背びれ尾ひれが付き、保守的な重鎮たちは「皇室の品位を汚すものだ」と宗秩裁判所へ訴えんと憤慨した。
しかし、宮家や妃候補に挙がっていた姫の四家は沈黙を守り、当の二人はそんな喧騒をどこ吹く風と受け流していた。
慶仁の瞳からは、長年彼を苛んでいた「雨への怯え」が消え、代わりに強い意志が宿っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
数日後。事態は意外な方向から動いた。
皇居の御学問所に呼ばれた慶仁は、天皇の前に置かれた、暗緑色で光沢と斑点模様が見られる石を見つめていた。
「慶仁。木曽川の上流から献上された石なのだが、鉱物学的な特性が判然とせぬ。其方の周囲に、これに詳しい者はいないか?」
天皇は、巷に流れる「山小屋の一件」を知ってか知らずか、悪戯っぽく目を細めて言葉を紡いだ。慶仁はその意図を瞬時に察し、口元を綻ばせた。
「……はい。地質のこととなると、些か常軌を逸する情熱を持つ者がおります。保護者とともに参内させ、詳しく説明させましょう」
こうして、天皇と京極宮慶仁王の前に召し出されたのは、再び最高級の振袖を身に纏い、完璧な「九条家の姫君」の仮面を被り直した九条澄子と父である公爵であった。
「九条澄子、御前に罷り出ましてございます」
鈴を転がすような声で平伏する澄子。
だが、慶仁の目は悪戯っぽく笑っていた。山小屋でのあの一夜を経て、彼はもう彼女の仮面を許す気はなかった。
「大儀である。公爵、そちらに。さて、九条の姫。今日、其方を呼んだのは他でもない」
天皇が、侍従に命じて一つの桐箱を机の上に置かせた。
「先日、木曽川の上流のダム建設予定地の地中深くより、奇妙な石が掘り出されてな。鉱物学的な特性が判然とせぬ。京極宮が『これを見抜ける優秀な眼を持った者がいる』と申すのでな。其方を呼んだのだ」
箱が開けられると、そこには例の暗緑色で光沢と斑点模様が見られる石が鎮座していた。
澄子の肩が、ピクリと揺れた。
慶仁がわざとらしく水を向ける。
「九条の姫。茶器の土の風合いに詳しい貴女なら、この石の正体も分かるのではないか?」
「何分浅学菲才の身ゆえ、この場で申しあげられるような事は御座いませぬ」
澄子は扇で口元を隠す。
必死に猫を被る澄子に公爵が「澄子」と小さく声をかけた。
「九条の姫よ、まことにわからぬのか?」
天皇の重みのある下問に、澄子は深々と一礼し、震える手で石を手に取った。
その瞬間、彼女の瞳の色が変わった。接見で見せた「淑やかな姫」の顔は霧散し、学者の鋭い眼差しが宿る。
「……蛇紋岩帯の特異な変質によって生じたものと推察致します」
失礼いたします。と帯の間から地質調査用のルーペを取り出し、石を詳細に調べ始める澄子。
忽ち振袖の汚れも気にせず石に没入していった。
「ああ、やはり! この結晶の入り方は、断層運動による熱変成を受けています。つまり、この石が採れた場所は、地盤が極めて不安定なはずです。詳しく調べる必要がありますがクリソタイルも含まれているのではありませんか。掘削時の粉塵対策も必要ですし、治水工事の際には、ここに大規模な杭を打たねば崩落の危険が──」
早口で専門用語をまくし立て、目を輝かせて石を語るその姿は、上品な姫君などでは到底なく、完全に地質学者のそれであった。
そこまで言って、澄子はハッと我に返った。
目の前には、満足そうに頷く天皇と、腕を組んで勝ち誇ったような笑みを浮かべる慶仁、頭を抱える公爵。そして、あまりの豹変ぶりに腰を抜かさんばかりの式部官長たちがいた。
「……も、申し訳ございません……わたくし、つい……」
涙目で平伏しようとする澄子を見て、慶仁はこらえきれずに吹き出した。
そして、上座に座る天皇もまた、肩を震わせて静かに笑い声を上げていた。
「ははは……! いや、見事な鑑定であった、九条の姫。これほど頼もしい学者が身内にいれば、この国の土木も治水も、安泰というものだ」
「へ、陛下……」
「よい、よい。……慶仁」
天皇は、優しく慶仁を見つめた。
「其方が、なぜこの者を求めたのか、今ようやくわかった。巷の騒がしい声など気にする必要はない。……この姫ならば、其方の孤独な戦いの、良き理解者となるであろうな」
澄子の顔が赤く染まった。
天皇は、優しい、しかしすべてを見透かしたような眼差しで、泥まみれになり得るその姫君を見つめた。
「慶仁。其方が『雨の夜』を乗り越えるために必要なのは、ただ慰めてくれる者ではない。お前と共に土を掘り、石を砕き、未来の礎を築ける者だ。……そうであろう?」
慶仁は深く頭を下げた。その横顔には、もう過去の亡霊に囚われた少年の影はなかった。
「仰せの通りにございます、陛下。……私は、この者と共に、この国の泥を背負って生きていきたいと存じます」
澄子は、真っ赤な顔のまま、しかし今度は逃げることなく慶仁を見た。
「代わりにはならない」と強張っていた彼女の心は、慶仁が彼女の志を愛し、必要としてくれたことで、完全に溶かされていた。
「よい。だが、納采の儀には公の接見が少なくとも二度は必要であることを忘れるでないぞ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その日の午後。御所を辞去する二人の後姿を、東伏水宮慈照王と香耶宮恒文王が眺めていた。
「聞いたか、恒文王。醜聞だ何だと騒いでいた連中が、陛下のあの一言で一斉に手の平を返し始めたぞ。化かし合いは、慶仁の勝ち、といったところか」
東伏水宮が愉快そうに鼻を鳴らすと、香耶宮も苦笑して頷いた。
「慈照王。あの姫君、最後にはわざと慶仁の術中に嵌まってやったようにも見えました。……いずれにせよ、良き夫婦になりそうですな」
二人の皇族の笑い声が、秋の庭園に響き渡った。
九条澄子の仮面は剥がされた。だが、その下に現れたのは、誰よりも慶仁の未来を支えるに相応しい、気高くも泥臭い「戦友」の素顔であった。
無粋になるが一応書いておこう
>宮家や妃候補に挙がっていた姫の四家は沈黙を守り
宮家は長老が抑えています。
妃候補だった家は全員妃候補を辞退しているので騒ぐわけがありません。特に西園寺と徳大寺は絶対騒ぎません。
どこが騒ぐかと言えば、妃候補を出せなかった家で中院家や六条家と親しくない家。そして家格が旧羽林家以下で野心が強い家です。
旧五摂家だと九条(当事者)を除いても、妃候補に鷹司がいてそこが騒いでいないので、候補が出ていない他の三家(近衛・二条・一条)もある程度察して騒ぎません
旧清華家も候補を出している西園寺と徳大寺が騒いでいないので他の三条・久我・花山院・大炊御門・菊亭はある程度事情を察して騒ぎません。松殿も当然。
旧大臣家はちと怪しいですが妃候補を出した中院家が騒いでいないのでその周囲は騒ぎません。
旧羽林家も、雅武の出身家である六条家は騒ぎませんし、その周囲も騒ぎません。