昭和五十一年二月。
「雅武。澄子とともに寛子の墓前に……参りたい」
松殿家の墓所は、都心を少し離れた静かな高台にあった。
皮肉なことに、その日も朝から細い雨が降っていた。だが、十七年前の濁流を思わせる冷たい雨ではない。凍てついた土の下で眠る命に、柔らかな目覚めを促すような、早春の雨だ。
慶仁と澄子は、雅武が差し出す大きな傘の下、並んで墓前に立った。
石碑には、寛子の名が刻まれ、その脇に千代の名も少し小さめに刻まれていた。
慶仁は、持参した白い百合の花束を供え、静かに目を閉じた。
「寛子……。お前が守った私の命は、ようやく今日、新しい意味を見つけた」
その声は、かつての歌会始で震えていたものとは違い、深く、落ち着いていた。
「私は、澄子を妃に迎える。お前の従妹であり、私と同じように……お前の遺した想いを抱えて泥に塗れてきた、かけがえのない女性だ」
隣で澄子もまた、静かに語りかけた。
「姉様。私はずっと、寛子姉様が守った殿下の隣に立つことが、姉様への裏切りになるのではないかと、自分を厳しく律してきました。……でも、殿下は仰ってくださいました。私の泥だらけの手こそが、これからのこの国に必要なのだと」
澄子の頬を雫が伝う。
「これからは、姉様が守ったこの命を、今度は私が守り抜きます。……姉様が愛したこの国を、二度とあのような涙で濡らさぬよう、殿下と共に歩んでいきます。どうか……見守っていてください」
その瞬間だった。
厚い雲の切れ間から、一筋の陽光が差し込み、濡れた墓石を黄金色に照らし出した。
まるで、かつての少女たちが「それでいいのですよ」と笑ったかのような、あまりに鮮やかな光の祝福。
慶仁は、澄子の泥の汚れ一つない白い手を、そっと握った。
「行こう。これからは、二人で雨音を聴くのだ」
「はい、殿下」
振り返ると、雅武はいつの間にか、少し離れた場所に控え、深く頭を下げていた。その目には、主君がようやく「死者との対話」を終え、「生者としての幸福」を掴み取ったことへの、筆舌に尽くしがたい喜びが溢れていた。
赤坂の京極宮邸に戻り、慶仁は寛子が使用していた部屋に、十七年ぶりに澄子を招いた。
「殿下。この部屋は寛子姉様の……」
「ああ。十七年前から変わっていない。すべて十七年前のままだ」
「寛子姉様……」
目元をぬぐう澄子、
慶仁が、机の上の寛子の遺影に語り掛けた。
「……寛子。あの夜、私は……。いまも、其方の手の温もりを忘れられない。其方に救われた命で、私は今日まで生きてきた。だが……私は、其方に何一つ返せなかった」
その声は震えていた。
澄子が慶仁の横にそっと歩み寄り、深く礼をしてから静かに言葉を置いた。
「殿下。寛子姉様は……殿下をお守りできたことを、何よりの誇りとして逝きました。どうか、ご自分を責めないでくださいませ」
その言葉に慶仁はゆっくりと澄子の顔を見た。澄子の瞳には寛子と同じ、揺るぎない優しさが宿っていた。
「……私は、寛子の死を背負って生きている。その重さを……誰かに理解してほしいと思ったことは、一度もなかった」
澄子は静かに首を振った。
「理解することは……できません。ですが、殿下。その痛みを抱えて生きておられる殿下を、恐れずにお側にいることはできます」
慶仁は息を呑んだ。その言葉は、長い年月の中で誰からも聞いたことのないものだった。
澄子は寛子の遺影に向き直り、深く深く頭を垂れた。
「寛子姉様。殿下は、今もあなたと共に生きておられます。その想いを……私も共に抱いて生きてゆきとうございます。どうか……見守っていてくださいませ」
慶仁はその姿を見つめ、胸の奥が静かに震えた。
寛子の死を奪おうとせず、忘れさせようとしない。
否定することなく、ただ、共に背負う覚悟を持つ女性。
慶仁は初めて、寛子の遺影の前で涙を流した。
「……澄子。君となら……寛子の記憶を失わずに、生きていける気がする」
澄子は静かに微笑んだ。
「殿下の中に生きておられる寛子姉様を、私も大切にいたします。それが……私の務めでございます」