宮内省の奥まった式部職会議室には、まだ朝の冷気が残っていた。長机の中央には、しばらく前に提出されていた四通の辞退書が整然と並べられている。
西園寺真理子
徳大寺綾子
鷹司紀子
中院聡子
いずれも、家格・礼法・筆跡に至るまで完璧な書式で整えられた辞退文。しかし、その内容は驚くほど似通っていた。
「自らの未熟を理由に、殿下の御心に相応しからず」
式部官長、掌典長、宮内大臣が席に着くと、静かに会議が始まった。
「……四家すべて、辞退の意志に揺らぎなし」
掌典長が辞退書を一通ずつ手に取り、淡々と読み上げる。
「西園寺家──辞退理由、殿下の御心に対する畏敬と自責。徳大寺家──同じく。鷹司家──副読本の影響を深く受け、辞退の意志は固い。中院家──娘の心の負担を慮り、家としても辞退を支持」
読み終えた掌典長は、静かに息をついた。
「……四家とも、辞退の意志は極めて強固にございます」
式部官長が頷く。
「殿下への接見内容も確認したが、殿下は姫君方に不敬を働かれたわけではない。むしろ、殿下の御心の深さに触れ、姫君方が自ら退いた……そう見るべきだろう」
宮内大臣は、慶仁が語った言葉を思い返していた。
「彼女たちは皆、誠実でございました。私の痛みを、私以上に大切に扱ってくださったのです」
その言葉が、四通の辞退書の行間に確かに息づいていた。
「……では、受理いたしますか」
式部官長の問いに、室内の空気がわずかに張り詰めた。本来、妃選びの辞退は慎重に扱われる。家格の高い四家が同時に辞退するなど、前例がない。しかし──。
「殿下の御心は、既に決まっておられる」
宮内大臣が静かに言った。
「九条澄子様。あの御方こそ、殿下の伴侶として最も相応しい」
式部官長が、四通の辞退書に朱印を押した。
【辞退受理】
その瞬間、四家の姫は正式に妃候補から外れ、九条澄子が唯一の候補として確定した。掌典長が静かに言葉を添える。
「……これにて、妃選びは実質的に終結でございます」
宮内大臣は深く頷き、書類を閉じた。
「では、殿下の御婚儀は、これより正式な手続きへと進む」
その声は、長い選定の幕が静かに閉じたことを告げていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その日の午後、西園寺家、徳大寺家、鷹司家、中院家の四つの邸には、宮内庁式部職の使者が静かに姿を現した。いずれの家でも、家長が直ちに応接の間に通され、使者は深々と一礼してから、封蝋の施された公文書を恭しく差し出した。
謹啓
このたび、御息女様より賜りました「妃候補辞退の御申出」につきまして、宮内省において慎重に協議の上、本日付をもって正式に受理いたしましたことを、ここに謹んでお知らせ申し上げます。
御息女におかれましては、妃選定の過程において誠心誠意の御協力を賜り、その礼節と御心遣いは、宮内省一同、深く感銘いたしております。
また、御家門におかれましても、皇室の大事に対し格別の御理解と御尽力を賜りましたこと、ここに厚く御礼申し上げます。
今後の御息女の御行く末が、いよいよ安らかに、また幸多きものとなられますよう、宮内省としても心より祈念いたしております。
昭和五十年 十一月十六日
式部官長 白水 興蔵
宮内大臣 采女 康玄
西園寺公爵は文を読み終えると、静かに目を閉じた。真理子の決断は、家としても覚悟していたもの。しかし、宮内省からの丁重な文面に、「娘は務めを果たした」と胸を撫で下ろした。
徳大寺侯爵は、深く頷きながら文を畳んだ。娘の誠実さが宮内省に正しく伝わったことに安堵し、「これで綾子も、ようやく自分の道を歩める」と静かに呟いた。
鷹司公爵家で紀子の母は、文を読みながら涙をこぼした。副読本の影が娘の心に重くのしかかっていたことを、宮内省が理解してくれたことが救いだった。
中院伯爵は文を読み終えると、机上にそっと置き「……これで、聡子の務めは終わった。あとは、あの子の未来を整えてやらねばならぬ」と深く息をついた。
その言葉は、六条雅武との縁談を正式に進める覚悟を、静かに固めたものだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
初秋の光が障子越しに柔らかく差し込む中院邸の一室では、中院伯爵が宮内省からの正式な内報を受け取り、しばし黙して文面を見つめていた。
――京極宮慶仁殿下、九条澄子様を妃に内定。
伯爵は深く息をつき、静かに文を畳んだ。その表情には落胆も安堵もなく、ただ長い歴史を生きてきた者の静かな受容があった。やがて、控えていた侍女に声をかける。
「……聡子を呼べ」
ほどなくして、白菫色の小袖に着替えた聡子が姿を現した。あの日の涙の痕はもうないが、どこか影を残したままの面差しである。
「父上。お呼びにございましょうか」
伯爵は娘を座らせ、しばしその顔を見つめた。その眼差しには、父としての情と、家を預かる者としての冷静さが同居していた。
「……殿下の御妃が、九条の姫に内定された」
聡子は小さく息を呑み、深く頭を垂れた。
「……おめでたきことでございます。九条様は、殿下をお支えできるお方にございます」
その声は震えていなかった。むしろ、どこかほっとしたような静かな安堵が滲んでいた。伯爵はその様子を見て、ゆっくりと頷いた。
「聡子。お前は、よく務めを果たした。中院家の娘として、恥じるところは何一つない」
その言葉に、聡子の肩がわずかに揺れた。あの日、殿下の前で涙を零した自責が、ようやく溶け始める。
「……さて。妃選びの務めが終わった以上、次に考えるべきは、お前の行く末よ」
聡子は顔を上げた。父の声音が、いつもよりわずかに柔らかい。
「父上……?」
「六条雅武殿のことだ」
その名を聞いた瞬間、聡子の胸が小さく跳ねた。あの日、廊下の角で膝を折った自分を、静かに守ってくれた人。涙を見せぬよう白布を差し出し、「殿下は決してお気を悪くされていません」と、あの優しい声で告げてくれた人。頬が、ほんのりと紅に染まる。
「……六条様は、殿下の御側近にございます。私などが……」
「謙遜はよい」
伯爵は穏やかに言い切った。
「六条家は子爵家とはいえ、殿下の乳兄弟にして最側近。その実務と信頼は、いまや多くの華族、宮内官僚を凌ぐ。そして──お前が、あの御方に救われたことを、私は見逃さぬ」
聡子は息を呑んだ。父は、あの日の出来事を、娘の心の揺れを、すべて見抜いていた。
「妃選びが終わった今ならば、宮中の誰も異を唱えぬ。むしろ、殿下の御側近と中院家の縁は、宮家にとっても悪くない話よ。聡子。六条殿との縁談──進めてよいか」
その問いは、強制ではなかった。父として、家長として、娘の心を尊重するための問いだった。聡子は、胸に手を当て、ゆっくりと息を整えた。あの日、雅武が差し出した白布の温もりが、指先に蘇る。
「……六条様は、とても……誠実なお方にございました。あの時、私の心を救ってくださったのは……確かに六条様でございました」
そして、静かに頭を垂れた。
「父上。……どうか、この縁をお進めくださいませ」
伯爵は深く頷き、娘の決意を受け止めた。
「よかろう。では、まずは京極宮邸へ書状を送る。殿下への謝意と、六条殿への丁重なる礼を添えてな」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌日。伯爵は文机に向かい、筆を取った。
京極宮邸の六条雅武宛に認める礼状の文面は、極めて簡潔でありながら、中院家らしい品位に満ちていた。
接見の折、聡子が不調法を働いたことへの謝意。その際、六条雅武が示した「静かな庇護」への深い感謝。辞退受理に伴い、妃選びの務めを終えたことの報告。
伯爵は、あえて縁談という言葉を使わなかった。
旧家の家長として、焦りを見せるのは最も避けるべきことだからだ。
しかし文の端々には、「中院家は六条雅武を高く評価している」という、老練な家長の意志が静かに滲んでいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
礼状を受け取った雅武は、封を切る前から、胸の奥に微かな緊張を覚えていた。
文を読み終えた彼は、しばし黙したまま、文机を見つめた。
「……中院の姫は、あの日のことを覚えておられたのか」
その声は驚きではなく、どこか安堵に似た響きを帯びていた。
雅武は、慶仁の影として十七年を過ごしてきた。自分の行動が誰かの心を救うなど、思いもしなかった。
だが、中院家からの礼状は、確かに縁の糸の始まりを告げていた。
雅武は、殿下の執務が終わった後、静かに筆を取り、返礼の文をしたためた。
聡子の不調法は決して非礼ではなかったこと、あの日の涙は、むしろ誠実さの証であったこと、自分はただ、殿下の御心を代弁したに過ぎないこと。そして最後に、雅武は迷いながらも一行だけ添えた。
「中院の姫君の御心が、どうか安らかであられますように」
それは、縁談を望む者の言葉ではなく、ただ一人の人間としての誠実な祈りであった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
返礼の文を受け取った伯爵は、その筆致の端正さと、言葉の誠実さに目を細めた。
「……六条殿は、実に良い御方だ」
伯爵は、聡子を呼び寄せた。
「聡子。六条殿より返礼が届いた。お前に向けた言葉もある。読んでみるがよい」
聡子は、震える指で文を開いた。
そこに綴られた雅武の言葉は、彼女の胸の奥に静かに染み渡っていく。
「……六条様は……本当に、優しい御方……」
その頬に、淡い紅が差した。
伯爵は、その様子を見て静かに頷いた。
「では、次は正式な挨拶の場を設けよう。妃選びは終わった。お前の未来を、ようやく整えてやれる」
聡子は、胸に手を当て、深く頭を垂れた。
「……父上。どうか……よろしくお願いいたします」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
中院家からの書状を手にした慶仁は、しばらくその文面を見つめ、静かに微笑んだ。
「雅武」
控えていた雅武が進み出る。
「……はい、殿下」
「お前が救ったのは、私だけではなかったようだな」
雅武は、一瞬だけ目を見開いた。そして、深く、静かに一礼した。その耳が、わずかに赤い。
「……勿体なきお言葉にございます」
慶仁は、書状をそっと文机の上に置いた。窓の外では、秋の風が庭木を揺らしている。長い選定の幕が下り、それぞれの者がそれぞれの春へと歩み出していた。