京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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29 婚礼準備

 納采の儀から数日後。

 柔らかな春の風が吹き抜ける宮中の長い回廊に、衣擦れの音と静かな足音が響いていた。

 九条家の姫としてではなく、間もなく京極宮妃となる者として、澄子が初めて正式に宮中へ招かれた日である。

 澄子の背後には九条公爵、さらにその後ろには、分家の松殿侯爵が控えていた。

 

 宮中三殿に連なる、春興殿。

 重厚な扉の奥で、婚礼に向けた最初の会議が開かれた。

 上座には皇后陛下が臨席し、それに連なるように東伏水宮慈照王、香耶宮恒文王が着座している。対する宮内省からは、宮内大臣、侍従長、式部官長が居並んでいた。

 親族として列席した九条公爵と松殿侯爵が見守る中、当事者である澄子は薄黄色の訪問着に身を包み、下座に静かに座していた。その背筋は、長く冷たい泥の中で鍛え抜かれた者のように、一片の揺るぎもなかった。 

 重苦しい沈黙の後、式部官長が分厚い資料に目を落としながら、ひどく言葉を濁した。

 

「九条様……。その、誠に申し上げにくいのですが、妃殿下となられた後の『ご趣味』についてでございます。山野の地質調査や、泥濘に踏み入るような研究は、皇族の矜持として、いささか……その……」

 

 宮内省の面々が息を詰める中、澄子はふわりと穏やかに微笑んだ。

 

「式部官長。どうかご案じなさらぬよう。婚礼の後は、宮中の規律に厳格に従い、求められる場では妃としての務めを恙なく果たしてご覧に入れます。──ただ」

 

 澄子は一度言葉を切り、まっすぐに式部官長を見据えた。

 

「殿下の『災害危険箇所の視察』への同行は、趣味にあらず。私にとって、妃としての何よりの務めであると考えております」

 

「……左様で、ございますか」

 

 凛とした響きに、式部官長は完全に言葉を失った。

 そのやり取りを静観されていた皇后陛下が、澄子をじっと見つめ、やがて春陽のような笑みを浮かべられた。

 

「九条澄子様。……あなたは、寛子様の志を継ぐ方なのですね」

 

 澄子は、深く、静かに頭を下げた。

 

「はい、陛下。従姉である松殿寛子がその命に代えてお守りした殿下を、今度は、私が生涯をかけてお守りいたします」

 

 皇后陛下は、満足そうに深く頷かれた。

 

「宮中は、あなたを心より歓迎いたします。妃殿下の務めは、優雅に和歌を詠み、舞を舞うことばかりではありません。この国の土を思い、泥にまみれる民を思う心こそが、最も尊き務めです」

 

 皇后のその一言が落ちた瞬間、春興殿を満たしていた張り詰めた空気が、ふわりと温かなものに変わった。

 続いて、侍従長が恭しく婚礼衣装の次第について説明を始めた。

 

「結婚の儀における九条様の婚礼衣装につきまして……」

 

 澄子は膝の上でそっと両手を握りしめた。

 

「十二単は、松殿寛子が最後に袖を通したものを……もしお許しいただけるのなら、私が受け継ぎとうございます」

 

 その言葉に、九条公爵が鋭く息を呑み、松殿侯爵は堪えきれずに目を閉じて震えた。

 皇后陛下は、深い慈しみの眼差しで澄子を包み込んだ。

 

「寛子様の十二単……。あれは松殿侯爵家の、ひいては九条一門の誇りであり、宮中にとっても忘れえぬ宝です。あなたが袖を通してくれるのなら、寛子様もどれほどお喜びになることでしょう。許します」

 

 澄子は、滲む涙を静かに拭った。

 宮内大臣が、感極まった空気を引き締めるように、慎重に言葉を選びながら告げた。

 

「では、当日の婚礼は皇室儀礼に則り、入第の儀、結婚の儀、朝見の儀とその後のパレードと滞りなく執り行います。前日の贈書の儀の和歌につきましては」

 

「すべて、心得ております」

 

 淀みない澄子の返答と、その堂々たる落ち着きに、宮内省の面々はただ感嘆するほかなかった。

 会議が終わりかけた頃、張り詰めた空気を解くように、東伏水宮慈照王がふと口元をほころばせて言った。

 

「九条の姫……いや、澄子殿。晴れの婚礼の日ばかりは、泥のついた靴で参らぬようにな」

 

 澄子は一瞬きょとんとしたが、すぐに悪戯っぽく微笑んで答えた。

 

「はい。泥に塗れるのは、殿下と共に歩む時だけにいたします」

 

 その機知に富んだ切り返しに、春興殿に初めて和やかな笑い声が響いた。

 会議が終わり、退出の際。

 長い回廊に出たところで、松殿侯爵が、澄子の肩にそっと、震える手を置いた。

 

「澄子……寛子の十二単を、着てくれるのだな」

 

 澄子は振り返り、静かに頷いた。

 

「はい、伯父上。寛子姉様の愛したこの国を、姉様の志を、私が継ぎます」

 

 松殿侯爵は、堰を切ったようにあふれる涙を堪えながら、十五年ぶりに心の底から微笑んだ。

 

「……寛子も……お前を、誇りに思うだろう」

 

 九条公爵は、陽光に包まれる二人の姿を見て、静かに目を閉じた。

 

 この日、宮中の重い扉は開かれた。

 彼らは「泥の姫」を、この『国土を守る妃殿下』として、確かに認めたのである。

 

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