京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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3 消え去りしもの

 ――冷たい。

 それが、意識の底から最初に浮かび上がった感覚だった。

 頬に触れるのは湿った布。鼻を刺すのは泥と血、そして川の臭い。

 耳の奥では、まだ濁流の轟音が残響のように鳴り続けていた。

 ゆっくりと瞼を開けると、薄暗い救護天幕の内側が揺れて見えた。

 視界の端には、泥にまみれた軍靴と、血の滲んだ包帯。

 誰かが慌ただしく走り回る気配がする。

 

「……殿下! 殿下、お気づきになられましたか!」

 

 声が聞こえた。

 だが、その声が誰のものなのか、すぐには分からなかった。

 慶仁は、喉の奥が焼けるように痛むのを堪えながら、かすれた声を絞り出した。

 

「……寛子……寛子は……?」

 

 その名を口にした瞬間、

 周囲の空気が、わずかに震えた。

 見知らぬ侍従と思しき服装をした一人が、言葉を失ったように唇を噛みしめ、別の者は、顔を背けて肩を震わせていた。

 

「殿下……どうか、今はお体を……」

 

「寛子はどこだ!!」

 

 慶仁は、まだ動かぬ体を無理やり起こそうとした。

 全身が悲鳴を上げる。

 肋骨が軋み、肺が焼けるように痛む。

 だが、それでも彼は叫んだ。

 

「寛子を……侍従たちは! 皆はどこにいる! 正成は! 千代……千代はどこだ! 寛子を連れてきてくれ!」

 

 慶仁は叫んだ。寛子を呼ぶことは、彼女の死の否定だった。だが、同時に千代の名を呼ぶことは、日常の象徴への縋り付きでもあった。寛子がいる場所には必ず千代がいた。千代がいれば、そこはまだ「いつもの世界」であるはずだった。

 だが、侍従たちは沈黙したまま動かない。互いに視線を交わし、誰がその役目を負うべきかを押し付け合うように俯いている。

 やがて、一人の年長の侍従が、震える膝を押さえつけるようにして慶仁の前に跪いた。

 

「……殿下。どうか……どうか、御心を強くお持ちくださいませ」

 

 その声音だけで、慶仁はすべてを悟った。

 

「松殿寛子様は、先刻……工兵隊の手によって収容されました」

 

 胸の奥が、何かに殴られたように潰れた。

 この侍従は『収容』と言った。生存していれば『救出』と言ったはずだ。

 

「……対面する。すぐ、連れて行け」

 

「なりませぬ!」

 

 侍従の声は悲鳴に近かった。

 

「宮内省からも、松殿侯爵家からも厳命されております。殿下を……殿下を、あのお姿に逢わせる訳には参りませぬ!」

 

「何だと……?」

 

「松殿家の方々も仰せでございます。『娘の、最も美しい姿だけを殿下の記憶に残していただきたい』と。……お体は、あの激流と丸太に打たれ、もはや十六歳の乙女の……見るに耐えぬ、あまりに、あまりに痛ましい状態で……」

 

「……嘘だ」

 

 呟きは、風に消えるほど小さかった。

 慶仁は、震える手で自分の胸元を掴んだ。

 そこには、泥にまみれた菊結びのお守りがあった。

 

「これ……は……」

 

 それは、伊勢の行在所で自分が寛子に渡したはずの小さな菊結びのお守りだった。

 

「寛子様が、最期まで握りしめていたものでございます。指が……指が固くお守りを巻き込んで、お亡くなりになった時のまま、どうしても解けなかったのでございますが、時間をかけて、ようやくその御手からお外しいたしました。泥については殿下の御指図をお待ちすべくそのままに」

 

 慶仁は絶句した。

 寛子が、最期まで握りしめていたもの。

 自分が渡した、初めての贈り物。

 自分との絆を離すまいとした彼女の最後の執念が、お守りの「形」となってそこにあった。

 その泥の感触が、彼女の冷たい指――泥に汚れた指の想像と重なった。

 

「……千代は。正成は」

 

「五辻様と思しきお身体は先ほど、揖斐川の沖合で変わり果てたお姿で……。その、ほかの御学友の皆様と思しきお身体も河口付近で。ただ千代様は未だ……おそらく、五辻様より沖の伊勢湾まで押し流されたものと……」

 

 寛子にはお守りがあり、痛ましくとも「亡骸」があった。だが、正成や学友達は無残に砕け、千代には何もない。遺体すら濁流の彼方へ消えたのだ。

 慶仁は、泥だらけのお守りを胸に抱きしめ、嗚咽を漏らした。その姿は、もはや十二歳の少年ではなかった。

 

「……いやだ……」

 

 慶仁は、泥だらけのお守りを胸に抱きしめ、嗚咽を漏らした。

 寛子の命を奪い、千代をどこかへ連れ去り、自分だけを無慈悲な梁の上に残した「水」への憎悪が、少年の心にどす黒い種を蒔いた。

 

「返してくれ……寛子を、千代を……皆を……返してくれ……!」

 

 侍従たちは、誰一人として彼に触れられなかった。

 触れれば、彼の心が壊れてしまうと分かっていたからだ。

 慶仁は、泥だらけのお守りを胸に抱きしめ、声にならない嗚咽を漏らした。

 その姿は、もはや十二歳の少年ではなかった。

 濁流の中で、少年は死んだ。

 そこにいたのは、悲劇を背負った皇族だった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 同日。

 京極宮仮邸の別館では、慶仁の乳兄弟である雅武が、慶仁の十三歳の誕生日と日をおかずに執り行われる宮号継承の儀に向けた準備に追われていた。

 本来なら伊勢にも同行するはずだったが、母であり慶仁の乳母でもある六条夫人が「宮号を継承される大事な時期。東京での儀礼の準備を疎かにしては、松殿家に対しても不調法になります」と厳命したため、彼は苦渋の決断で居残りを承諾したのだった。

 

「雅武、その菊の装飾はもう少し右よ。殿下は、少しの歪みもすぐにお気づきになるのだから」

 

 母の指示に、雅武は「わかっていますよ」と苦笑しながら応えていた。

 

「寛子様や千代が戻ったら、きっと『私たちがいない間に、随分と手際が良くなりましたね』って驚かれますよ」

 

 どこかで電話のベルが鳴っていた。

 しばらくすると眉をひそめた侍女が部屋に入り電話がある旨を伝えてきた。

 

「六条様、宮内省より火急のお電話が。六条様をご指名です」

「何事かしら? 雅武、装飾は直しておいてね」

 

 六条夫人が応対する為部屋の外へと出た。

 邸内に、耳を劈くような悲鳴が響き渡ったのはそれからすぐのことだった。

 雅武が廊下に飛び出すと、電話室から出てきた真っ青な顔で立ち尽くす母とその周りで心配そうに見つめる侍従や侍女の姿があった。

 

「……雅武……」

 

 母が、崩れ落ちるように膝をついた。

 

「殿下が……濁流に……。松殿の姫君も、千代さんも、五辻様や同道した御学友方も、お付きの者たちも……皆……」

 

「え? 何をおっしゃっているのですか? 母上」

 

 震える母の声。 

 

「で、殿下が……避難先で濁流に……。松殿の姫君も、千代さんも、御学友の方々も、お付きの侍従たちも……皆……。今、宮内省から連絡が……。別当殿も急ぎこちらに向かっています。……ああ、なんということ……!」

 

 雅武の指から、慶仁のために用意していた祝儀の目録が、音もなく床に落ちた。

 ぱたり、と。上質な和紙が床に触れる微かな音だけが、異常なほど大きく室内に響いた。 

 雅武の頭は、母の紡いだ言葉の意味を必死に拒絶していた。濁流? 皆が? つい数日前、「土産話を楽しみにしておけ」と笑って赤坂を出発されたばかりではないか。寛子の凛とした声も、千代の控えめな忍び笑いも、つい先刻のことのように思えるというのに。

 

 窓の外では、東京の穏やかな秋の陽光が、皮肉なほど静かに降り注いでいた。

 嵐が過ぎ去った後の東京は、遠く離れた地での惨劇などまるで嘘のように晴れ渡っている。ラジオが伝え始めた東海地方の壊滅的な被害状況と、目の前に広がる平穏そのものの光景が、雅武の精神を真っ二つに引き裂こうとしていた。

 

 桑名で、自分の主と、その想い人と、幼馴染の千代が泥水に飲み込まれていたその時。自分は、何も知らずにこの暖かい部屋で、華やかな刺繍の入った布を愛でていた。

 

「なぜ……」

 

 雅武は、震える手で壁を叩いた。

 

「俺が、俺がいれば、殿下の盾にくらいはなれたのに!」

 

 拳から滲む血の痛みなど、全く感じなかった。ただ、己の身を包むこの安全で清潔な空気がひたすらに疎ましく、激しい自己嫌悪が胸を焼いた。

 その後、宮内省から断続的に入る報せは、雅武のすがりつくような希望をことごとく打ち砕いていった。慶仁は奇跡的に生還したものの、寛子と正成達同行した学友は無残な亡骸となって発見され、千代や多くの侍従たちが行方知れずであるという、地獄のような事実の羅列であった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 数日後、瞳から光を失って帰還した慶仁を迎えた時。

 雅武は、玄関に平伏したまま、顔を上げることができなかった。

 無傷で、清潔な衣類を纏い、健康な体で「お帰りなさいませ」と言うことの、あまりの不敬。あまりの残酷。

 慶仁は、雅武の横を通り過ぎる際、一瞬だけ足を止めた。

 だが、何も言わなかった。

 雅武は、慶仁の背広の裾に付いた、乾いて白くなった「桑名の泥」を目にした瞬間、喉の奥からせり上がる嗚咽を必死に飲み込んだ。

 寛子は、慶仁を支えて死んだ。

 千代は、寛子を支えて消えた。

 正成は、雅武の代わりに盾となって砕けた。

 侍従たちは、肉壁となって流された。

 だが自分は? 彼らが命を賭けて守り抜いた「殿下」を、これからの人生、どのような顔で支えていけばよいのか。

 慶仁が握りしめる泥だらけのお守りと、雅武が用意していた清浄な祝儀袋。

 その絶望的な距離が、新しく誕生する「京極宮」の周囲に、もう一つの悲劇の層を重ねていった。

 




昭和34年9月29日 朝刊号外

【号外】東海の濁流、避難所を急襲 慶仁殿下奇跡の御生還なるも寛子嬢殉じ給う

【名古屋支局 桑名特派】
 去る二十六日、東海地方を蹂躙したる超大型台風は、伊勢湾沿岸に未曾有の怒濤を招来したり。
 神宮へ報告参拝の帰途、当地に御滞在あらせられたる小松宮家の慶仁王殿下(十二歳)におかせられては、当初、京都大宮御所あるいは近隣の華族邸への御滞在も検討され給いしが、民生多忙の折、予定通りの御帰京を強く望ませられたる殿下の御意志を尊重し、一行は強行軍ながら名古屋へと向かわれたるものなり。然るに、人知を超えたる台風の猛進は、名古屋へ抜ける鉄路のみならず、古都への退路をも瞬時に断絶せり。避難の猶予なき事態に、止む無く桑名にて屈指の堅牢を誇る東良岑屋敷へと緊急に御避難あらせられたるものなり。
 コンドル設計による万全を期したる名建築なりしも、想定を絶する高潮は営々と築きたる揖斐川堤防を一撃の下に粉砕し、さらには貯木場より流出せし無数の巨木を伴う濁流となって、一階部分を瞬時にして打ち砕き呑み尽くせり。
 殿下は突如の決壊により侍従と共に激流に呑まれ給いしが、お側に在りし松殿侯爵家長女寛子様(十六歳)が、阿鼻叫喚の渦中にて殿下の御手を固く把持せられ、辛うじて残存せる和館の梁へと押し上げ奉りたり。
 殿下を支え奉りし侍従および侯爵家随行員らは、激流と巨木に抗い、最期までその御身を死守せんとせしが、無念にも一人また一人と濁流に呑み込まれたり。寛子様は、なおも力尽くるまで殿下を励まし続け給い、殿下は二十七日、駆けつけた国防軍工兵大隊により奇跡的に救出され給う。然れども寛子様は力尽き、救助の手を待たずして「殿下、お手をお離しになりませぬよう」との言葉を残し、最後まで激流に抗い続けた随行員らと共に暗黒の濁流へと姿を消されたり。二十八日未明、収容されたる寛子様の御遺体は、泥に汚れながらも殿下より伊勢にて賜りし御印入りのお守りを掌中に固く握りしめられ、その腕はなおも殿下を支えんとするかの如き様相を見せられたり。歴戦の将兵らも、この崇高なる自己犠牲の前に、泥にまみれたまま深き黙祷を捧げたり。
 内閣は本日午前三時、臨時閣議を緊急招集。もはや「未曾有」の言辞にては拭い切れぬこの国難に対し、衆議院大委員会にて治水計画の抜本的刷新と行政責任を厳しく問う緊急動議が提出さるる見通しなり。
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