四月。
宮中の長い回廊には、春の光が差し込み、白い壁に淡い影を落としていた。だが、その静けさとは裏腹に、宮中の空気はいつになくざわついていた。
「……あの九条様が、噂に聞く『泥の姫』だとは思いませんでしたわ。噂とは真にあてにならないものですこと」
「陛下があれほどお褒めになったのですもの。ただ者ではございませんでしたわね」
「あの噂は、あの姫が凡人には理解が及ばぬお方だったという証だったのでしょう」
「京極宮殿下が長年抱えてこられた痛みを、あの方だけが理解できた……そういうことなのでしょうな」
侍従や女官たちは、噂話をしながらも、どこか安堵したような表情を浮かべていた。
多くの者が十七年前、雨の音に怯え夜中に目を覚ます慶仁を見て心を痛め、その後も漏れ聞こえてくる京極宮邸の様子を悼み続けてきたのだ。
その言葉には、心からの喜びが滲んでいた。
侍従長と式部官長は、納采の儀の翌日、東伏水宮慈照王の前で深々と頭を下げていた。
「九条様を誤解しておりました」
「まさか、あれほどの学識をお持ちとは……いや、それ以上に、殿下の十六年の痛みを理解しておられたとは……」
慈照王は、苦笑した。
「泥の意味を知らぬ者ほど、表面に惑わされるのだ。かくいう儂も香耶宮に言われるまで気づかなんだわ」
「……『お山が泣いている』などと仰った時は、正直、どうなることかと……」
「ふふ。あれは『仮面』だ。あの姫は、殿下の前で本性を隠すために、あえて完璧な令嬢を演じておったのだ」
慈照王の言葉に、二人は目を丸くした。
「……あれが、仮面……?」
「本性は、あの石を前にした時の姿よ。あれこそ、九条の姫の真価だ」
その言葉に侍従長が尋ねた。
「陛下は姫の真価をご存じだったのでしょうか」
「さて? 陛下や他の宮家にはわしと香耶宮で京極宮の意志を伝えたが……」
宮内省の若手官僚たちの間では澄子の論文が回覧板のように回されていた。
「この地層の解析論文は……この妃殿下が殿下と一緒に全国の危険箇所を視察されるとなると事前の準備が大変だな」
「ああ。他の宮様方もそれぞれ一方ならぬ知識をお持ちだが、この妃殿下の地質についての知識は凄まじい。求めに応じて情報や意見を提供せねばならぬ枢密院の顧問官も上を下への大騒動だ」
「このような妃殿下は今までいらっしゃらなかった。新しい風が吹くな」
彼らは、澄子を単なる『皇族の伴侶』としてだけではなく、『現場を知る専門知識を兼ね備えた皇族の伴侶』として尊敬し始めていた。
一方、宮中の古参官僚たちは、複雑な表情を浮かべていた。
「……九条家の四の姫が妃殿下とは、時代も変わったものだ」
「しかし、陛下があれほどお認めになった以上、我らが口を挟むことではない」
そういいつつも皆、安堵の表情を浮かべていた。
「殿下の妃が寛子様の従妹姫……あの悲劇の続きを、ようやく終わらせる時が来たのだろう」
彼らは保守的でありながら、寛子の死とその後の慶仁の苦悩を知る世代でもあった。
だからこそ、慶仁王と寛子嬢の悲劇が終演を迎え、寛子の従妹である澄子により慶仁王が救われた。という事実に、静かに胸を撫で下ろしていた。
婚礼を翌日に控えた、春の夜。
京極宮邸は、これまでの十五年間が嘘のような、静かな熱気に包まれていた。
降り続く雨は、かつての濁流の予感ではなく、新緑を育む恵みとして軒先を濡らしている。
静まり返った書斎で慶仁は一通の手紙を封じた。
箱に納められたのは一枚の鳥の子紙。その最上の紙に、彼は消えない傷跡を抱えたままの、等身大の想いを託した。
明けぬ夜の 底に沈める 悲しみも 君と見つらん 有明の月
十五年前のあの日から、慶仁の時間は止まったままだった。暗い夜の底に沈めた悲しみは、消えることはない。しかし、夜明けの空に残る「有明の月」のように、悲しみを抱えたままでも、澄子とならばその光を見つめて生きていける。それは、彼がようやく自分自身の「生」を肯定した瞬間でもあった。
「雅武、これを九条の屋敷へ」
雅武は、主君の顔に刻まれた、憑き物が落ちたような穏やかな表情に、深く、深く頭を下げた。
九条家。
婚礼の支度を終えた澄子の元に、京極宮家からの使者が到着した。
届けられた箱を開いた澄子はそこに添えられた歌の調べに、静かに涙を落とした。
「有明の月」――それは、闇を完全に打ち消す強烈な太陽ではない。悲しみの夜を静かに見守り、夜明けの空に淡く留まる光。
澄子は、寛子の面影を心の奥に抱きつつも、今、目の前にある「慶仁の孤独」を包み込むために筆を執った。彼女が選んだ言葉は、慶仁の言葉をそのまま受け継ぎ、さらにその先へと導くものだった。
さす影に 導かれつつ 諸ともに 辿らむ道ぞ 有明の月
殿下が示してくれた悲しみを経た優しさに導かれながら、私はどこまでも共に歩んでまいります。この有明の月が照らす道は、もはや一人の孤独な道ではありません。
澄子の返歌は、慶仁の過去を否定せず、そのすべてを道連れにして未来を拓くという、泥の中に根を張る彼女らしい、強靭な愛の誓いだった。
深夜。
返書の箱を受け取った慶仁は、雅武を下がらせ、一人書斎の灯りの下で紙を広げた。
「……諸ともに、か」
共に見つめようという自分の願いに対し、彼女は共に歩もうと応えた。
十五年の長い夜が、今、静かに、そして確かに明けていく。
慶仁の目には、かつてのような雨への怯えはない。隣に立つ澄子が、その光の中に確かにいることを確信していたからだ。
もう、雨音を聴いて耳を塞ぐ必要はない。
窓の外の雨はいつの間にか止み、夜が白み始めている。
東の空には、歌に詠んだ通りの薄く白い「有明の月」が、静かに浮かんでいた。
「雅武、いるか」
慶仁の呼びかけに、廊下で控えていた雅武が静かに入室する。
「良い日になりそうだ」
「はい、殿下。……まことに、最良の朝になりまする」
雅武の瞳もまた、微かに潤んでいた。