京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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結婚の儀


34 結婚式① 宮中三殿の静寂

 初夏。

 朝の宮中には、凛とした涼しさを残す風が吹き抜けていた。

 微かな沈香の香りがどこからか漂い、遠くからは雅楽の調べが幽かに響いてくる。

 京極宮慶仁王と九条澄子の婚礼当日──十七年の長きにわたった降り止まぬ雨がついに降りやむ日が訪れた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 前日。

 九条家の奥座敷には、入念に整えられた十二単が衣桁に掛けられていた。

 かつて寛子が十六歳の春に袖を通した、伝説的な衣である。しかし今、その装束は澄子のために新たな命を吹き込まれていた。

 唐衣(からぎぬ)と表着(うわぎ)は寛子の記憶をそのままに、袖丈や身幅は宮中の装束司と九条家の職人が、幾夜もかけて澄子の肢体に合うよう一針ごとに祈りを込めて調整した。五衣(いつつぎぬ)と単衣(ひとえ)は新調され、裳(も)は澄子の身長に合わせて長く引き直されている。

 布地は寛子の記憶を抱き、寸法は澄子の未来を刻んでいた。

 

「寛子姉様の十二単……。こんなにも美しく、そして……温かいのですね」

 

 九条公爵は、娘の背にそっと手を置いた。

 

「寛子の衣を、お前のために仕立て直した。これは九条の、そして松殿の『継承』そのものだ」

 

 傍らに控える松殿侯爵は、潤んだ瞳で深く頷いた。

 

「……寛子も、さぞ喜んでおろう。己が魂とも呼べるこの衣を、澄子……お前が継いでくれることを」

 

 澄子は、重厚な布地の感触を掌で確かめるように触れた。

 

「姉様……明日、私はこの衣と共に、殿下のお傍へ参ります」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 早朝。薄布を引いたような朝靄の中、侍従長と女官長が九条邸へと迎えに上がった。「入第の儀」である。

 皇居へ到着した澄子は、直ちに御潔斎所へと入り、身を清めた。

 幾重にも重ねられる絹の重みは、これから背負うであろう皇族としての責任と、松殿寛子という一人の女性が遺した想いの重さそのものであった。

 大垂髪に結い上げられた黒髪。白藤色の唐衣に、淡い萌黄色の表着が重ねられる。新調された五衣、単、白小袖、長袴が澄子の清廉さを際立たせ、長く引かれた裳が動くたびに、微かな衣擦れの音を立てた。手にした檜扇の向こうで、澄子は静かに目を伏せ、心を鎮めた。

 

 時を同じくして、慶仁もまた身を整えていた。

 黒の束帯に垂纓冠を戴き、右手に笏を持つその姿は、堂々たる宮家当主の威厳に満ちていた。十七年の間、常に彼の瞳の奥に降り続いていた冷たい雨は、今日、ようやく静かに上がりかけていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 午前。

 神楽歌の幽玄な調べが響き渡る中、皇居・宮中三殿へと続く回廊を、二人は静かに進み入った。

 賢所の前庭に設けられた幄舎では、モーニング姿の男性皇族やアフタヌーンドレスに身を包んだ女性皇族たち、三権の長、各都道府県知事、そして九条一門ら参列者たちが、息を呑んで二人の姿を見守っている。

 

 賢所の内陣に進み入ると、右に慶仁、左に澄子がそれぞれ半畳の畳へと着席した。

 厳かな静寂の中、慶仁が立ち上がる。内々陣の八咫鏡に向かい、玉串を捧げたのち、深く立ち座りを四度繰り返す「両段再拝」の礼を尽くした。澄子は着席したまま、夫となる慶仁に合わせて深く頭を垂れる。

 やがて、慶仁の低く響く声が賢所に満ちた。

 結婚を神々に奉告する「告文」である。その声には、かつて濁流の中で己の無力に泣き叫んだ少年の面影はない。愛する者たちを喪った過去を背負い、それでもなお新たな命と共にこの国を支え抜くという、揺るぎない覚悟が宿っていた。

 

 その後、外陣へと移った二人は、掌典長から神酒をいただき、最後に深く拝礼をした。わずか十五分ほどの儀式であったが、その時間は永遠にも等しい神聖さを帯びていた。

 続いて約十分間、皇霊殿、神殿へと拝礼を済ませる。二人が退出したのち、皇族代表として伏水宮夫妻が進み出て拝礼を行い、儀式中の京極宮夫妻拝礼時には、幄舎の参列者たちも一斉に深々と頭を下げた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 午後三時。

 京極宮邸での昼食を終えた二人は、結婚後初めて天皇皇后両陛下にお目見えする「朝見の儀」に臨むため、皇居正殿・松の間へと足を踏み入れた。

 慶仁は威風堂々たる燕尾服姿。そして澄子は、宝冠牡丹章を佩用し皇族女子の第一礼装であるローブ・デコルテを纏っていた。

 純白の生地には、美しい白藤と、白百合の意匠が精緻な金糸銀糸の刺繍で施されている。かつて濁流に散華した気高き白百合の記憶を、澄子は恐れることなく、自らの誇りとして共に纏って見せたのだ。

 玉座に座る天皇は、深く慈愛に満ちた眼差しで二人を見つめ、静かに口を開いた。

 

「今日、こうして二人が結ばれたことを、まことに喜ばしく思います。長きにわたり胸に抱えてきた痛みも、これよりは互いに支え合い、新たな道を歩んでいく力となるでしょう。どうか、心を合わせ、国と民のために尽くしてください」

 

 その言葉には、かつて十七年前の秋、共に泥にまみれた御守りを見つめ、慟哭した元首としての深い労いと祈りが込められていた。

 続いて、皇后が温かく、そして力強い声で語りかけた。

 

「あなたが今日お召しの衣には、松殿寛子様の想いが確かに息づいております。その志を正しく継ぎ、慶仁を支えてくださることを、私どもは心より嬉しく思います。どうか、これからの道を、共に穏やかに歩んでいかれますように」

 

 天皇皇后両陛下からの御言葉を賜った二人は、深く頭を下げた。

 その後、九年酒を順番に口にして親子固めの杯を交わし、御台盤の料理に儀式に則り箸を立てる所作を終え、朝見の儀は厳粛なうちに幕を閉じた。

 

 儀式を終え、皇居宮殿・竹の間で記念撮影に臨む二人の顔には、長い嵐を抜け出した者だけが持つ、静かで穏やかな微笑みが浮かんでいた。

 窓の外では、初夏の光が眩しいほどに降り注ぎ、新しい宮家の門出を祝福するように輝いていた。十七年という凄絶な季節を越え、京極宮慶仁王の止まっていた時間は、澄子という確かな光と共に、いま再び動き始めたのである。

 

 

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