皇居正門、二重橋の前は、早朝から押し寄せた黒山の人だかりで埋め尽くされていた。その数、数万。市井の民が、手作りの日の丸を手に、肩を寄せ合ってその時を待っていた。
沿道には、等間隔に配置された第一機動隊の巡査たちが、背筋を伸ばして不動の姿勢を取っている。戦前の張り詰めた憲兵の威圧感とは異なるが、そこには「次代の皇室の藩屏」を迎えるにふさわしい、厳重極まる結界が敷かれていた。誰もが居住まいを正し、歴史の証人たらんとしていた。
夕方。
「──出御されるぞ」
群衆のどこからか、地鳴りのような囁きが漏れた。
紺色の幌を下ろした乗用車が、皇居の正門から静かに姿を現した。
「おお……」
感嘆とも、溜息ともつかぬ声が、寄せては返す波のように沿道を駆け抜けた。
そこには十七年という長い歳月を経て「喪」が明けたことを確信する、魂の祈りがあった。
中央には、慶仁と澄子が並んで座っていた。
「万歳……っ!」
一人の老人が、声を詰まらせながら日の丸を掲げた。
それを合図に、堰を切ったような歓声が炸裂する。
「京極宮殿下、万歳!」
「妃殿下、万歳!」
沿道を埋め尽くした小旗の波が、初夏の陽光を受けて白く輝いている。
澄子が静かに手を振り群衆に応えるたび、沿道の歓声は穏やかに、しかし確かに温かく広がった。
その隣で慶仁もまた、かつての陰鬱な表情を完全に消し去り、国民に向けて力強く、そして穏やかに微笑み返していた。
それは十七年ぶりに見る、「未来を見つめる慶仁王の笑顔」だった。
二人は民衆に向かって過度に崩れた笑顔を見せることはない。
あくまでも格調高く、背筋を伸ばし、慈愛に満ちた確かな眼差しで、沿道の群衆一人ひとりの歓呼を等しく見つめ、手を挙げて応えていた。
その一挙手一投足に、侵すべからざる「祭祀主宰者の一族」としての気品が宿っていた。
車列が目の前を通過すると人々は深く頭を垂れ、通り過ぎたその後姿を、いつまでも名残惜しそうに仰ぎ見た。
「殿下が、あんなに晴れやかな顔を……」
「寛子様も、きっとお喜びだろう」
後姿を見つめ涙ぐむ者、手を合わせる者、ただひたすらに旗を振る者。
群衆は、『悲劇の続きが、ようやく祝福で結ばれた』その瞬間を、全身で受け止めていた。
パレードの列が大きな交差点に差し掛かったとき、沿道の一角に、ひときわ熱心に日の丸の小旗を振り、涙を拭う一団が見えた。
遠く三重や愛知から駆けつけた、伊勢湾台風という未曾有の災厄によってすべてを奪われ、そして生き残った人々だった。
その一団の先頭ですっかり白髪になった初老の男が、ハンカチで顔を覆って咽び泣いていた。桑名で慶仁たちを東良岑屋敷へと案内した、元桑名警察署長であった。
彼はあの日、殿下を東良岑屋敷へ案内し、結果として寛子たちを死なせた己の「判断」を、十七年間一日たりとも忘れたことはなかった。自決も許されず、生きるという罰を受け続けてきた彼にとって、慶仁の成婚と晴れやかな笑顔は、何よりの救済であった。
「本当によくぞ……。殿下、どうか末永くお幸せに……!」
オープンカーの上の慶仁は、その姿を確と見つけ、微かに視線を止め、優しく頷いて見せた。
その瞬間、元署長の肩を重く支配していた「あの日」の泥濘が、温かな光の中に溶けて消えていくのを感じた。
彼だけではない。被災地から駆けつけた人々は、殿下の笑顔の中に、自分たちが失った家族や、共に乗り越えた苦難の「報い」を見たのである。
赤坂の京極宮邸に戻った澄子は慶仁と並んで庭を歩いていた。
風に揺れる白梅が、二人を祝福するように香る。
「殿下……今日という日を、私は生涯、忘れることはございません」
慶仁は、澄子の手をそっと、しかし力強く握りしめた。
「澄子。これからは二人で、この国の雨を聴こう。たとえ激しい嵐の日でも、私が君の傘となろう。そして、共に大地を耕そう」
澄子は深く、深く頷いた。
「はい、殿下。どこまでも、お供いたします」
その瞬間、雲間から黄金色の夕陽が差し込み、白梅の花びらが光に透け、二人の影は重なり合い、一つの道を作った。
建物に戻った二人を待っていたのは、供膳の儀──御饌と呼ばれる儀式用料理と酒が用意された御台盤に箸を立てる儀式だった。
御台盤と呼ばれる朱塗りの台の上に並べられた御饌を前に澄子、慶仁の順に黒豆を日本酒とみりんで煮詰めた九年酒を口にし、夫婦の固めの杯を交わす。
並べられた雲丹蒲鉾、塩引鰤、付焼合鴨、塩茹蝦、白飯を固めた大飯、骨切りした鯉を揚げた汁、鯛鰭の御吸物には箸を料理に触れさせる食事の所作をするだけで、実際には手をつけない。
外の喧騒とは対照的な静寂。十七年前に濁流がすべてを押し流したのに対し、今は穏やかな時間が、時を刻むように流れていた。
その夜、京極宮邸の奥深く、二人の寝所において、最も神秘的な儀式が執り行われた。
子孫繁栄を願う「三箇夜餅の儀」である。
三枚の銀盤の上には、澄子の年齢である「二十五」にちなんだ数の、碁石程度の大きさの白い餅が並べられていた。
夫婦となった慶仁と澄子がそれぞれの皿から一つずつ食べる。餅と皿はツバメの螺鈿模様を施した紫檀の箱に納められ、寝室に3日間飾られ、4日目に、縁起の良い方角に埋める。
「……二十五。寛子姉様が、歩むことのできなかった年齢ですね」
二人きりになった寝室で、澄子が銀盤の上の餅を愛おしそうに見つめて呟いた。
慶仁は、澄子の肩を優しく抱き寄せた。
「そうだ。だが、君がこうしてその年齢を迎え、私の傍にいてくれる。それこそが、寛子が、そして皆が願った『未来』なのだと思う」
慶仁の手が、澄子の指先に重なる。
窓の外では、かつての暴風雨のような激しさは微塵もなく、ただ静かな初夏の夜風が、木々を優しく揺らしている。
慶仁の胸の内で十七年間鳴り止まなかった雨音は、澄子の穏やかな呼吸の音に上書きされるように、ゆっくりと、そして完全に消えていった。
明日からは、もう、雨の音に怯える夜はない。
二人は、共に歩む新しい日本の夜明けを互いの確かな温もりと息遣いの中で迎えようとしていた。