京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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宮中饗宴の儀


36 結婚式③ 白藤の風と饗宴の光

 挙式から数日後。

 宮中では饗宴が催されていた。

 

 豊明殿に足を踏み入れた瞬間、澄子は一瞬だけ、胸元の扇を握る指先に力を込めた。

 天井の豪華なシャンデリアが放つ光の礫、各界の重鎮や外国使臣たちの色とりどりの正装、そして会場を包む、期待と微かな「品定め」の視線。

 

「……緊張しているか?」

 

 隣を歩く慶仁が、招待客には見えないほどの僅かな角度で首を傾け、囁いた。澄子は、かつての完璧な仮面ではなく、信頼する戦友に向ける柔らかな微笑みを返した。

 

「いいえ。……ただ、これほどの人の波も、地層の重なりに比べれば、少しばかり賑やかなだけだと考えておりますわ」

 

「ふっ、頼もしいな」

 

 慶仁の短い笑い声と共に、二人は主賓席へと進んだ。

 

 宴が始まると、各界の重鎮たちが次々と挨拶に訪れる。

 中には、澄子が「御侠な姫」として泥にまみれていた噂を揶揄しようと、言葉の端々に棘を忍ばせる保守的な華族もいた。

 

「九条の姫君……失礼、妃殿下におかれましては、学習院の頃より『土の香り』に親しまれていたとか。宮中の香の匂いには、些か戸惑われるのではございませんか?」

 

 嫌味な笑みを浮かべる子爵に、周囲の空気が一瞬凍りつく。だが、澄子は動じなかった。彼女は白藤色の美しいイブニングドレスの裾を揺らし、最高級のシャンパンよりも澄んだ声で答えた。

 

「左様でございますね。……ですが、土の香りは万物の源。この国の瑞穂を育む土の深さを知らぬ者に、香の奥深さを語る資格はないと、私は存じております。閣下、このお酒の芳醇な香りも、元を辿れば良い土壌が育てた葡萄から生まれるものでございましょう?」

 

 完璧な微笑みと、逃げ場のない正論。子爵は言葉を失い、赤くなって退散するしかなかった。

 その様子を離れた場所から見ていた東伏水宮慈照王が、愉快そうにグラスを掲げた。

 さらに、英国公使館の書記官が、専門的な土木工学の話題を英語で振った際、澄子の真価が発揮された。

 

「……I agree. The alluvial plains of this country require a unique approach to flood control.」

 

 淀みのない英語で、最新の地質学知見を交えながら、ロンドンのテムズ川の防潮堤の構造について対等に議論を交わす澄子。

 周囲で聞き耳を立てていた宮内省の官吏たちが、腰を抜かさんばかりに目を見張ったその時──。

 

「──And Her Imperial Highness's insights will undoubtedly serve as a cornerstone for future bilateral cooperation in disaster prevention.」

 

 滑らかで、洗練の極みとも言えるクイーンズ・イングリッシュが会話に寄り添うように響いた。

 若草色の優雅なイブニングドレスに身を包んだ、徳大寺綾子であった。

 

「It has been quite some time indeed, First Secretary. Ayako Tokudaiji at your service. Should it meet with your approval, I would be honoured to undertake the duties of interpreter.」

 

「Lady Tokudaiji, the pleasure is mine. It has been far too long. I should be most obliged if you would do so.」

 

 彼女は英国書記官に対し、澄子の専門的な知見を外交的な「両国関係の発展」という文脈へ見事に繋ぎ合わせ、にこやかに会話をまとめ上げた。書記官は深く満足した様子で一礼し、去っていった。

 

 綾子は、ゆっくりと慶仁と澄子へ向き直り、完璧なカーテシーを披露した。

 

「京極宮殿下、そして妃殿下。本日は誠におめでとうございます。徳大寺綾子、心よりお祝い申し上げます」

 

「徳大寺様……。先ほどは、見事な助け舟を痛み入ります。貴女の聡明さに救われました」

 

 澄子が礼を述べると、綾子はふわりと陽だまりのように微笑んだ。

 

「とんでもございません。妃殿下の専門的なご見識があってこその会話でございます。……それにしても、妃殿下のお姿を拝見し、私は今日、深く納得いたしました」

 

 綾子は、澄子の瞳の奥を真っ直ぐに見つめた。

 

「妃殿下が纏っておられる光は、温室で育てられた柔らかなものではなく、風雨に耐え、泥の中に深く根を張った者だけが放つ、強き光。……殿下が雨の夜に求めておられたのは、まさにこの『大地の温もり』であったのですね。私には到底持ち得ぬ、泥を恐れぬ気高さでございます」

 

 綾子の言葉には、一片の嫉妬も卑下もなく、極めて理知的な賞賛と、自らの限界を冷徹に見極めた者だけが持つ清々しさがあった。

 澄子は、その高潔な誇りに深く打たれ、心からの敬意を込めて応じた。

 

「徳大寺様。貴女のような、曇りなき太陽のような知性をお持ちの方からそのようにお言葉を頂戴し、身の引き締まる思いです。……私たちが向き合う泥濘も、貴女のような光が祝祭の場から照らしてくださるからこそ、意義を持つのだと存じます」

 

 その言葉に、綾子は嬉しそうに目を細め、慶仁へと視線を移した。

 

「殿下。かつてのお約束通り……祝祭の場における外交の言葉は、この徳大寺綾子にお任せくださいませ。殿下と妃殿下が、憂いなく『雨の降る泥濘』を歩んで行けますように、私は光の当たるこの場所で、お二人を全力でお支えいたしますわ」

 

 慶仁は、頼もしい同志を見る目で深く頷いた。

 

「ああ。頼りにしている、綾……失礼、徳大寺嬢。貴女のその誇り高き光は、これからの日本の外交に、そして我々の戦いに不可欠なものだ」

 

 綾子はもう一度深く、美しく一礼し、軽やかな足取りで再び華やかな外交の輪の中へと戻っていった。その背中は、自ら選んだ役割に対する絶対的な自信に満ちていた。

 

 その頃、会場の一画では

 

「……英語まで、あれほどまでに……」

 

「しかも、内容は高度な土木工学だ。あの方は、単なるお転婆な姫ではなかったのか……」

 

 侍従長や式部官長、侍従たちが、自分たちがこれまでどれほど「九条澄子」という女性の器を見誤っていたかを思い知り、戦慄すら覚えていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 宴の後半。

 慶仁は、招待客の輪の中で堂々と、しかししなやかに立ち振る舞う澄子の姿を見つめていた。

 彼女の纏う「絹」は、もう自分を隠すための鎧ではない。その下にある情熱と知性を、より美しく輝かせるための衣装に変わっていた。

 

 ふと、視線を感じて振り返ると、澄子が慶仁を見ていた。

 喧騒の中で、二人だけの静かな時間が流れる。

 

「……慶仁殿下。これほどの光の中にいても、私は、あの雨の小屋での灯油ランプの温かさを忘れません」

 

 澄子が歩み寄り、慶仁の耳元で小さく囁いた。

 

「私もだ。……この饗宴が終われば、次は我々の戦場、現場が待っている」

 

「ええ。楽しみにしておりますわ、殿下」

 

 華やかなシャンデリアの下、誰よりも気高く、そして誰よりも「大地」を知る妃。

 宮中饗宴の儀は、単なる結婚のお披露目ではなく、京極宮夫妻が齎す、新しい時代への第一歩となったのである。

 










「……I agree. The alluvial plains of this country require a unique approach to flood control.」

(……同感です。この国の沖積平野は、治水に対して独自の切り口を必要としていますね。)

「──And Her Imperial Highness's insights will undoubtedly serve as a cornerstone for future bilateral cooperation in disaster prevention.」
(──そして、妃殿下のご知見は、間違いなく今後の防災分野における二国間協力の礎となることでしょう。)

「It has been quite some time indeed, First Secretary. Ayako Tokudaiji at your service. Should it meet with your approval, I would be honoured to undertake the duties of interpreter.」
(随分とご無沙汰しておりました、一等書記官。徳大寺綾子でございます。差し支えなければ、私が通訳の任を承りたく存じます。)

「Lady Tokudaiji, the pleasure is mine. It has been far too long. I should be most obliged if you would do so.」
(徳大寺様、こちらこそお会いできて光栄です。本当に久しぶりですね。そうしていただけますと大変ありがたく存じます。)
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