京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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神宮に謁するの儀


37 結婚式④ 十七年目の宇治橋

 婚礼の儀式からしばらく経った、初秋の朝。

 秋晴れの澄み渡る空の下、慶仁と妃である澄子を乗せた特別列車は、関西本線を抜け、静かに伊勢の地へと鉄路を走っていた。

 やがて列車は木曽三川を越え、桑名の地へと差し掛かる。

 車窓には、黄金色に色づき始めた稲穂が秋風に穏やかに揺れていた。慶仁は、海へと続く広大な河口の景色を食い入るように見つめた。

 十七年前のあの日。海を覆い尽くすような異常な高潮が堤防を易々と呑み込み、貯木場から溢れ出した無数の巨大な木材が、破城槌のような凶器となって家屋を次々と粉砕していった。抗うことのできない圧倒的な海水の壁と荒れ狂う巨木が、すべてを物理的に叩き壊した、あの凄惨な記憶――。

 だが今、かつて高潮と流木に蹂躙された桑名の地は、人々の祈りと日々の営み、そして高く強固に築き直された堤防に守られ、豊かな大地の姿を取り戻している。

 慶仁はその景色を見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。

 

「……殿下。十七年前、あのような恐ろしい高潮と流木に沈んだこの地が、今はこれほどまでに穏やかでございます」

 

 隣に座る澄子の言葉に、慶仁は、車窓から差し込む光に目を細め、静かに頷いた。

 

「ああ。あの日、私はこの地で、寛子と千代に命を繋いでもらった。今日……ようやくその恩に報いることができる」

 

 慶仁の声には、かつて雨音に怯えていた少年の震えはもうない。その横顔は、過去の亡霊を背負う者ではなく、未来の国土を背負う男の静かな決意に満ちていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 列車は伊勢市駅に到着し、二人は神宮の杜へと足を踏み入れた。

 

 豊受大神宮──衣食住と産業の守り神である豊受大神に、婚礼と新たな治水の務めを奉告する。

  二人が深く頭を下げた瞬間、樹齢数百年を越える神宮杉の梢を揺らし、心地よい秋風が吹き抜けた。ざわめく葉音は、十七年前の鼓膜を破るような嵐の音とは正反対の、優しく力強い大地の息遣いだった。

 

(寛子姉様、千代……。あなたがたが濁流の中で守り抜いた命は、今日、こうして未来へと繋がりました)

 

 澄子は目を閉じ、胸の中で静かに語りかけた。

 

 皇大神宮へ向かう一行。

 五十鈴川の御手洗場で手を清める。かつて慶仁のすべてを奪った恐ろしい水は、ここでは底の小石まで透き通る清らかな流れとなって、彼の指先を優しく洗った。

 正宮へと続く玉砂利の道。

 ざくっ、ざくっ、という二人の足音が、静寂の杜に響く。

 その一歩一歩が、慶仁にとっては立ち止まっていた十七年分の時計の針を進める音だった。

 

 天照大神の鎮座する御帳の前に進み出る。

 深い拝礼の後、慶仁は心の中で祈りを捧げた。

 

『──天照大御神様。十七年前、この地で私は命を繋いでいただきました。今日、妻である澄子と共にここへ参り、この国の土と水を背負い、新たな道を歩むことを奉告いたします』

 

 隣で祈る澄子もまた、胸の奥で誓いを立てていた。

 

『──寛子姉様と千代が守った命を、私が未来へ繋いでまいります。どうか、私たちをお見守りくださいませ』

 

 二人が顔を上げたその瞬間。

 御帳をふわりと白い風が持ち上げ、木漏れ日が白い玉砂利を眩しく照らし出した。

 それはまるで、暗い水底から慶仁を押し上げてくれた寛子と千代が、光の中から優しく微笑んでいるかのようだった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 すべての参拝を終え、聖俗を分ける宇治橋を渡る帰り道。

 眼下を流れる五十鈴川の水面が、午後の陽光を反射してきらきらと輝いていた。

 橋の中央で、慶仁はふと立ち止まり、澄子の手をそっと、だが力強く握った。

 

「澄子……私は今日、ようやくあの十七年前の夜を、本当の意味で越えた気がする」

 

 澄子は、包み込まれた手の温かさに静かに頷き、慶仁の瞳を見つめ返した。

 

「はい、殿下。姉様も千代も、今日この日を待っていたのだと思います。この宇治橋を渡りきること……それこそが、殿下の『再生』にございます」

 

 慶仁は、高く澄み渡る空を見上げた。

 十七年前、絶望の中で見上げた黒い雨雲はもうどこにもない。そこにあるのは、どこまでも青く、果てしない秋の空だった。

 

「澄子。これからは、二人でこの国の雨を聴こう。嵐の日も、泥にまみれる日も、そして今日のような晴れの日も……すべてを共に歩んでいこう」

 

「はい、殿下。どこまでも、お供いたします」

 

 宇治橋の美しい擬宝珠の横で、二人の影が静かに重なる。

 川のせせらぎが、二人の門出を祝福するように、優雅な調べを奏で続けていた。

 

 

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